第5話:承認という名の報酬
今日の業務が終わった。
ダンジョンに赴いて、そして生きて帰ってくるという業務が。
受付のカウンターに重たいバックパックを置き、中から魔石を取り出す。
係員が慣れた手つきで査定を行い、金額が提示される。
決して莫大なものではない。
命を賭けた対価としては、あるいは安すぎるのかもしれない。
しかし、これが私が決めた、私の生き方だ。
一部は銀行口座に振り込んでもらい、残りは現金として受け取る。
「では」
「はい、また明日です。静河さん」
私は協会に併設された装備品店へと足を向ける。
今日使ってしまった、明日のためのポーション。
ナイフを手入れするための砥石とオイル。
手袋を新調するのは、これでもう何回目になるだろう。
私は次に、スーパーへと向かった。
かつての『私』であれば、帰宅時間の遅いサラリーマンがそうするように、割引シールの貼られた弁当を血眼になって探していただろう。
だが、今は違う。
食べたいものを選ぶ。
今日はハンバーグ弁当。デミグラスソースがかかっていて、実においしそうだ。
私は、この世界で確かに生きて、生活をしている。
そんなささやかな充足感を胸に、私は再び協会のロビーを通って帰路につこうとしたのだが、世界はまだ私を休ませてくれないようだった。
「……静河」
その声は、喧噪の中でもはっきりと私の耳に届いた。
鼓動が早くなる。
私の視界に、この殺伐とした探索者の世界には、あまりにも不釣り合いな中年の男女の姿が映る。
両親だ。静河くんの。
私自身は、彼らに思うところはすでにない。
彼らとはすでに決別済みだからだ。
だが、この体の本来の持ち主である静河くんが、強い拒絶反応を起こしていた。
胃の奥が縮み上がるような感覚。
恐怖か、あるいは嫌悪か。
かつて静河くんが受け続けてきた搾取の記憶は、私自身も記録している。
逃げる?
その必要はない。私は『私』。静河くんではないのだから。
私が立ち止まっていると、彼らは私に駆け寄ってきた。
「静河! ああ、やっと見つけた……!」
久しぶりに聞く『母親』の声に、静河くんの体が軋む。
果たして、やっと見つけた——それに続く言葉は、どんなものだろうか。
だが、言葉よりも雄弁にそれが語った。
母親が私の腕を掴んだ。
その手つきが、愛しい我が子に触れるそれではなく、逃げ出した飼い犬を捕まえるそれと恐ろしく酷似していたから。
「麗美ちゃんが塞ぎ込んで大変なの! 最近、あんたのことをよく口にするし。だから、ほら、早く帰ってきて麗美ちゃんに謝りなさい!」
家を出てから、少なくとも一ヶ月以上は経過している。
なのに、その息子の安否を確認するでもなく、彼女の口から飛び出したのは幼馴染のこと。
呆れ果てるとは、まさにこのことだろう。
彼らにとって大事なのは隣の家で暮らす幼馴染であって、静河のことなど、心の底から、本当にどうでもいいのだ。
怒りはない。
苛立ちもだ。
私は静河くんではないから。
ただ、やるせなかった。
虚しかった。
この世界に、心から静河くんのことを思う人が、誰もいないという事実が。
「……帰りません」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「家を出る時に言ったはずです。彼女は私を拒絶した。だから私は離れると。……もし彼女が私を必要としているならば、ここに彼女がいるはずです」
周囲の視線が集まり始めているのがわかる。
だが、私は言葉を続けた。
「ですが、現実は違う。彼女はここにいない。ここにいるのはあなたたちだけ。あなたたちは彼女のご機嫌を取りたいのかもしれない。ですが、私がそれに付き合う理由は、どこにもありません」
決別は、あの日すでに済んでいる。
これ以上、言葉を重ねるというコストを払う意味も存在しない。
私は彼らの前から立ち去ろうとする。
だが、彼らはそれを受け入れなかった。
「何を馬鹿なこと言ってるの!」
「麗美ちゃんを見捨てるのか!?」
「今まで育てた恩を忘れるの!?」
「だいたい誰のお陰で生きてこれたと思っているんだ!」
説得? いや脅迫が通じないのならと、父親が私の肩を掴み、無理やりにでも連れ戻そうと力を込めてくる。
「離してください」
ダンジョンでモンスターを相手に日々を生き抜いている今の私にとって、この程度の拘束を振りほどくのは造作もないことだった。
腕を捻り、関節を極めれば、簡単に無力化できる。
だが、ここは探索者協会のロビーだ。
「子どもは黙って親の言うことを聞いていればいいんだ!」
父親が喚き散らし、周囲の探索者たちが面白おかしそうにこちらを見ている。
ここで騒ぎを起こせば、協会からの心証は悪くなるだろう。
今日まで積み上げてきた堅実な探索者としての信用に傷がつくのは間違いない。
それは、私の生存戦略において、死に直結する致命的なリスクだ。
だが、ここで解決しなければ、彼らは引き続き、私の前に現れ続けるだろう。
それもまた、リスクである。
なら、引導を渡すしかない。
ちょうどいい。先程、彼らが口にした言葉を利用させてもらうことにしよう。
私がそんなふうに考えた時だった。
「申し訳ないが」
私と両親の間に、割って入る影があった。
権藤さんだった。
彼は私に背を向け、両親と対峙する形で立った。
「な、なんだあんたは! これは家族の問題だ! 部外者は引っ込んでろ!」
父親が怒鳴るが、権藤さんは動じず、冷静かつ事務的に告げた。
「彼は当協会に登録された、正式な探索者。また彼は18歳、法律上の成人年齢に達しており、探索者規定に基づき自立した生計を立てている『個人』でもある。それに何より」
権藤さんの声が、一段低くなった。
「彼はあなた方の所有物ではない」
ロビーが静まり返る。
「彼は協会が敬意を払うべき優秀な探索者だ。派手さはないが、堅実で、一度も規約違反を犯さず、ほぼ無傷で毎日ダンジョンから生還し続けているのだから」
権藤さんは淡々と、私がこれまで積み上げてきた日々を言葉にして並べた。
「協会の敷地内で、これ以上の強要を行うようであれば、業務妨害として警備、および警察に通報する」
「で、でもっ、麗美ちゃんが待ってるのよ!」
母親が食い下がる。
「先程彼が言ったとおり、彼女が彼を必要としているなら、この場に来ているはずだ。ここに来ていない時点で、それは彼女の願いではなく、あなたたちの自分勝手な言い分でしかない」
公的な第三者、それもエリート然とした権藤さんが毅然と切り捨てる態度に、権威に弱い両親は気圧され、たじろいだ。
彼らは私を睨みつけ、
「……覚えてなさいよ! 後悔するからね!」
オリジナリティのない捨て台詞を吐き捨てる。
そのまま逃げるように去っていこうとする彼らを、私は呼び止めた。
「本宮夫妻」
「お前、親に向かってなんという口のきき方を——」
「本宮夫妻、あなた方は先程言いましたね。育てた恩、誰のおかげで生きてこられたのかと。ですが、私が計算したところ、あなた方が私に費やした養育費よりも、私があなた方の脅迫によって麗美さんの相手をした『業務委託費』の方が遥かに上回っています。差額は請求しませんので、これで契約終了としましょう」
「お、お前は何を言っているんだ……?」
「今日限り、私とあなた方は赤の他人だということです。必要ならば役所に書類だって提出しましょう。あなたたちは私に出費しなくてよくなり、私もあなた方の相手をしなくて済む。いいこと尽くめですね」
「………………お前、本当に静河なのか?」
私は何も応えない。
そもそも、彼らに教える義理もない。
静河くんは、すでに彼らを見切ったのだから。
彼らは二度と振り返ることなく、姿を消した。
嵐が去ったロビーに、再び日常の喧噪が戻ってきていた。
これで潜在的リスクは回避できただろうか。
何にしても、
「……これならダンジョンでモンスターを相手にしている方が、よほど有意義だ」
思わず漏れ出てしまった本音に、
「ずいぶんと探索者らしい台詞を言うものだ」
権藤さんに聞かれていたことに、私は少しだけ頬を熱くした。
まったくそのとおりだ。
私が思っている以上に、私はこの日々に染まっているのだろう。
「権藤さん、ありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけしました」
もし彼が現れなければ、私は論理の通じない泥沼を相手にし続けなければならなかっただろう。
「自分が入らなくても、なんとかなったみたいだが」
「いえ、それでも助けていただいた事実は変わりません」
「……優秀な探索者がつまらないトラブルで潰れるのは、協会の損失だからな」
権藤さんと私の間に、馴れ合いはない。
私は探索者で、彼は協会員。
立場も、生き方も、まるで違う。
「では」
「ああ、また明日」
私は彼に背を向ける。
一人の人間として、彼は私という存在を、私が選んだ、この生きていく道を、認めてくれている。
それは、私の心に不思議な感傷を生じさせた。
宿舎へ戻る私の手にあるハンバーグ弁当は、気がつけば冷めてしまっていた。
だが、大丈夫。
「宿舎にはレンジがある」
不思議と足取りが軽かった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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