第49話:局所的酸欠ポケットと一次情報の絶対性
探索者協会のロビーに入った私は、壁面に固定された環境モニターの前へと向かった。
本日の気圧は、平時の基準値から比較して微かに低下傾向にあった。
この程度の変動であれば、協会側から特別のアラートが発出されることはない。
しかし、この微細な気圧低下は、私の本日の業務計画において極めて重要な変数となる。
本日の目的地は、『淀みの窪地』と呼ばれるエリアである。
先日発生したスタンピードにより、ダンジョンの生態系は未だパニック状態の余波を引きずっていた。
不確定なリスクが残留するエリアを避け、安全なローテーションを組むことは、継続的な利益を担保するための基本構造だ。
加えて、この気圧低下という環境変数が機能する。
気圧の低下により、すり鉢状の地形である当該エリアに生息するモンスターの反応速度が鈍る。
つまり、こちら側の安全マージンをより広く確保できるということだ。
情報の転記を終え、私は手帳を閉じた。
ロビーを抜け、準備広場へやってくると、私は壁際のいつものベンチに腰を下ろす。
業務開始前の、最終的な安全確認工程への移行だ。
一つひとつ、確実に。
「……よし」
問題なし。
全条件、規定値内。
私はベンチから立ち上がり、ダンジョンに向かった。
浅層から中層へと至る主要なルートには、先日のスタンピードが残した深い爪痕が、生々しい傷跡として岩壁に刻み込まれていた。
無数の多脚による足跡。
粉砕され、光を失った発光苔の残骸。
狂乱した群れを処理するための破壊の跡もそこにはあった。
そんな荒れたルートをいつもどおり確認しながら歩いていると、後方から探索者パーティーがやってきた。
「……しかし、協会も思い切ったよな。まさか大企業にブレーキをかける新基準を本当に通すとは」
「ああ。稼働ペースの上限設定と、エラー時の正常化処理の義務化だろ。これで少しは無茶な乱獲も減るってもんだ」
彼らの会話が、岩の反響に乗って微かに届く。
すれ違いざま、彼らのリーダー格の男が私に気づき、無言で短く顎を引いた。
私もまた、歩調を変えることなく軽く首肯を返す。
そのまま彼らは私を追い抜いていった。
以前とは明らかに違う探索者の反応に、しかし感情は動かさず、私は私のすべきことを行い続ける。
私は五感を働かせながら、奥へと進んでいく。
そうしてやってきた、『淀みの窪地』。
すり鉢状になった地形の底に湿気が滞留しやすいこのエリアは、私がこれまでの業務において何度も通い、岩肌の起伏や標準個体の配置パターンを完全にマッピングし終えている、安定した収益エリアの一つだ。
当然、他の探索者たちにとっても同様に収益エリアに他ならず、緩やかな傾斜を下っていくと、すり鉢の上層部付近には、すでに何組かの探索者パーティーが展開していた。
各々が互いの安全マージンを侵さない距離を保ちながら、散発的に現れるモンスターを処理している。
競合は存在するが、空間のキャパシティにはまだ余裕がある。
私は彼らの動線と干渉しないルートを選び、さらに一段低い、窪地の底に近い層へと足を進めた。
気圧低下の予測は正確に機能していた。
湿気を帯びた岩陰に潜んでいた甲殻類型の標準個体は、普段より明らかに遅い。
私は足音を殺し、対象の死角へと滑り込む。
装甲の継ぎ目にサバイバルナイフの切っ先を正確な角度で押し込む。
対象は反撃すらできずに、光の粒となって霧散した。
転がり落ちた魔石を拾い上げ、汚れを布片で拭ってから、専用ケースへと収めた。
「……順調です」
予定していたノルマの半分を、想定時間を大幅に短縮して達成している。
さらに奥へ、すり鉢状になった窪地の底を目指すことにする。
周囲の岩壁が狭まり、大気の滞留が顕著になり始めた頃だった。
肺に、微かな重さを覚えた。
通常ではないその感覚に、私は即座に足を止め、呼吸を浅く保ちながら、周囲の環境データを視覚と嗅覚で再評価した。
足元の岩盤に自生している発光苔。
その色彩が不自然に黒ずみ、広範囲にわたって枯死している箇所が点在していた。
さらに視線を巡らせる。
窪地の最深部付近。
地面から数十センチの低い層にのみ、小型のネズミ型モンスターや昆虫系モンスターの死骸がある。
見た限り外傷はなく、モンスター同士の捕食や、他の探索者による戦闘の痕跡も皆無だった。
「これは……局所的酸欠ポケット」
地下の微細な地殻変動や腐敗ガスの発生により、空気より重い有毒ガスや二酸化炭素が、すり鉢の底に沈殿し、不可視の層を形成していると思われる。
協会の環境モニターは、この事実を検知できない。
あのセンサーは機器の保守と探索者の平均的な視線を考慮し、通路の中段以上の高さに設置されているからだ。
私は残りのノルマ回収というタスクを凍結し、即時撤退の手順へと移行した。
来た道を戻り、窪地の底から緩やかな上り坂へと差し掛かった時だった。
前方から、真新しい装備で身を固めた、若手探索者の三人組がやってきた。
彼らは私とすれ違う際、私を見て口元を歪めるような笑みを浮かべると、わざとらしい声で言った。
「ロビーのモニター、正常値だったよなぁ? 協会のアラートも出てないし」
「最近、周りがプロだとか持ち上げてるけどさ、結局、誰かさんはただの臆病者なんだよ」
「そうそう。大企業が規制されてダンジョンはデータ管理されて安全だってのに。……ま、誰かさんのことなんてどうでもいいじゃん。俺たちであの狩場を頂こうぜ」
彼らの言う、『誰かさん』が誰を指すのか、考えるまでもない。
先日のルール改訂により、巨大資本の暴走にブレーキがかかった。
それは正しい。
だが、ダンジョンそのものが完全に安全に管理されたわけではない。
それは彼らの勘違いだ。
しかし、そう考える探索者が一定数いるのも、また事実だった。
実際、ロビーで、広場で、ダンジョン内で、そのように認識している探索者と遭遇したことがある。
「……彼らに私の言葉は届かない」
胸の奥に冷たい感情がよぎる。
だが、私は歩みを止めない。
彼らの方を振り返ることもしない。
淡々と撤退を完遂した。
地上へ帰還し、探索者協会のロビーへ戻る。
換金カウンターへと向かい、本日の成果物をトレイの上に並べた。
ノルマの半分とはいえ、品質はすべてA品を維持している。
査定を待っている最中、ロビーの入口から怒声が響き渡った。
「『淀みの窪地』の底で倒れてる奴らがいる!」
血相を変えた探索者が、受付の職員に向かって報告した。
ロビーにざわめきが広がる。
中堅は静かに目を閉じ、新人は逆に目を見開き動揺している。
ダンジョンというものがどういうものであるか。
それを経験として識っているかどうかの差だった。
報告している探索者の声はここまで届き、倒れているのが、あの時すれ違った若手たちであることを知る。
私は目を閉じた。
「静河さん、今日もいつもどおり、素晴らしい魔石でした」
係員の声に目を開け、明細を受け取り、礼を言う。
意識はすでに切り替え済みだ。
そのままロビーを後にしようとしたのだが、しなかった。
隣の窓口に顔見知りが並んでいたからだ。
上近少年だ。
彼は私に気づかず、魔石を納品しているところだった。
「上近さんの今日の魔石は……え——」
係員が固まり、上近少年の顔が不安に染まる。
「え、A品です! すごいですね、上近さん! これまではB品が最高だったのに!」
魔道具などの過剰な力による広範囲攻撃に頼るのではなく、対象の骨格や弱点を観察し、物理的なアプローチで急所を的確に突く技術。
それにより、純度と魔力保全率を高い水準で維持することに成功したのだ。
私が彼に対する認識を改めていると、彼が私に気づき、声をかけてきた。
「静河さん、こんばんは!」
「ええ、こんばんは。……A品の納品、おめでとうございます」
「ありがとうございます! たまたま、まぐれです!」
「……いえ、まぐれでA品の魔石は回収できません。それは紛れもなく、あなたの実力です。成長しましたね」
私の言葉に、上近少年の顔は一瞬で赤く染まり、視線が落ち着きなく彷徨う。
「し、静河さんにそんなに褒められたら、僕、明日死んじゃうんじゃ……!?」
その反応に、さすがに苦笑する。
「事実を述べたまでですよ」
「ありがとうございます! 僕、これからも頑張ります! 静河さんに追いつけるように……!!」
彼は大きく一礼すると、駆け足で出ていった。
ロビーから出る直前、小さくガッツポーズしているのが見えた。
宿舎の自室へ戻ってきた私は、夕食の準備に取り掛かった。
スーパーの鮮魚コーナーで確保した、脂の乗った寒ブリの切り身。
グリルで火を通し、皿に盛り付ける。
傍らには、すりおろしたばかりの大根おろしをたっぷりと添えた。
箸で身をほぐし、口へと運ぶ。
「……美味い」
誰かが保証した机上のデータではなく、自ら得た一次情報の確かさ。
今日の業務を締めくくるには、この素朴で嘘のない味がいい。
私は深い充足感とともに箸を進めた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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