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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第43話:企業の限界と未開拓エリアの一次データ

皆様の応援のおかげで、30000pt突破いたしました。

ありがとうございます。


 ダンジョンという大穴を取り囲む準備広場。


 カビと湿気が混ざり合った冷たい風が吹き抜ける中、私は壁際に設置されたいつものベンチに腰を下ろし、バックパックの中身を確認していた。


 本日の私の業務は、魔石の回収ではない。


 次期事業領域として選定した極寒冷エリアである、『白霜の凍谷(フロスト・キャニオン)』の一次データ採取だ。


 ゆえに、今日の確認工程は普段よりも多い。


 厚手のメリノウール製インナー。


 行動用保温着であるミドルレイヤー。


 完全防風仕様のハードシェルアウター。


 厚手の靴下、極寒地仕様の二重グローブ、安全靴の上から被せる断熱用のオーバーブーツ。


 雪山登山用のアイゼン。


 エマージェンシーシート。


 氷面での待機時に使用する折りたたみ式断熱マット。


 ヘッドライトのバッテリーは、低温対応の特殊規格に換装済みである。


 なので、環境を調べるための温湿度計もアナログ式で、これはバックパックのショルダーストラップに固定して使用する。


 さらには、未開封の使い捨てカイロの数量を指差しで確認した。


 私は今日赴くエリアについて考える。


 どんな環境か。


 何が存在するのか。


 どのような手順を踏めばコストに見合う採算が得られるのか。


 該当エリアについて協会が開示している資料の精査はすでに終えている。


 だが、机上のデータだけでは不充分だ。


「……現場に立たなければ、本当の変数は見えてこない」


 そう呟いた時だった。


「よう」


 声をかけられ、視線を向ければ、そこには『赤き戦斧』のリーダーが立っていた。


「いつもより入念だな」


「本日の業務は普段と勝手が違いますので」


 なるほどな、と呟くだけで、彼はそれ以上踏み込んでこなかった。


 他の探索者ならば、あるいは根掘り葉掘り聞いてくることもあるだろう。


 だが、彼はそうしない。


 私たちは探索者だ。


 手の内をすべて晒すのはリスクであり、それを彼も理解しているのだろう。


 その代わり、というわけではないだろうが、彼は小さく口角を上げて言った。


「どこに行こうが、お前なら確実に結果を出すんだろうな」


 彼はかつて私を嘲笑していた男である。


 そんな人物からの、何の裏表もない素直な称賛に、私は無言で、短く一礼した。


 彼が立ち去った後、私はバックパックを背負い、留め具を締め直した。


 全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 ダンジョンに向かうため、立ち上がると、ダンジョンゲートである大穴のスロープから、紺色の防具で統一された集団が上がってきた。


 企業クラン『アルゴス』の部隊である。


 先頭を歩くのは、リーダーの瀬能氏とデータアナリストの涼下氏だ。


「おかしい」


 彼らがダンジョンに向かったのは、私がここへ到着した直後だった。


 それから一時間程度しか経過していない。


 私はその場から動かず、彼らの様子を観察する。


 彼らが抱える大型の機材や測定器に、物理的な破損は見受けられない。


 では、いったい何があったのか?


 微かにだが、二人の声が聞こえてきた。


「……対象エリアにおけるイレギュラー個体の出現率が、許容できるリスクの閾値を超過しました。現在のシステムで対応を継続すれば、機材の損耗率が採算ラインを割り込みます」


 涼下氏の言葉に、瀬能氏は歩みを緩めることなく応じている。


「システムの汎用性を崩す改修は、費用対効果に合いませんね。……わかりました。当該事象については、自社での処理を完全に放棄することにします」


「つまり?」


「外部へのアウトソーシングで処理します。あなたは——」


「はい。委託先の選定に入ります」


「お願いします」


 彼らの最適化されたシステムは、イレギュラー個体に対処できない。


 その事実を現場で確認し、無謀な戦闘による機材や人員の損耗を避けたのだ。


 大企業であっても、想定外の事象に対して完全な損切りを即座に判断する。


 そのプロフェッショナルなリスク管理の手法を、私は内心で客観的に評価した。


 現場が地上にあれば、問題はなかっただろう。


 だが、ここはダンジョンだ。


 無駄な執着は死に直結する。


 息を吐き出し、意識を切り替える。


 私は、私が生き残っていくためにすべきことをしよう。


「行こう」


 ダンジョンへ。




 中層の奥深く。


 乾燥した岩場を抜け、極寒冷エリアの境界手前で私は足を止めた。


 協会が開示しているデータによれば、ここから先は環境変数が劇的に変化する。


 私はバックパックを下ろし、極寒地における体温管理の基本原則であるレイヤリングの段取りへと移行した。


 レイヤリングとは、重ね着のことだ。


 衣服を複数のレイヤー、つまり、層に分け、それぞれに吸汗、保温、防風といった明確な役割を持たせることで、過酷な環境に適応するシステムだ。


 まずは上着を脱ぎ、タオルで上半身の汗を完全に拭き取る。


 極低温下での発汗は、急激な体温低下を招く要因だ。


 乾燥した肌の上に、厚手のメリノウール製インナーを密着させる。


 その上から、通気性と保温性を兼ね備えたミドルレイヤーである行動用の保温着を着込んだ。


 インナーとアウターの間に暖かい空気の層を保持するための、必須の工程である。


 次に、広場で数量を確認した未開封の使い捨てカイロの束を取り出す。


 封を切り、空気に触れさせて発熱を促す。


 このカイロは、急激な冷えに備えてミドルレイヤーのポケットに忍ばせておく。


 ただし一枚だけ、アウターのポケットに入れておいた。


 ハードシェルを開けずに手元へアクセスするためだ。


 その上から、完全防風仕様のハードシェルアウターを羽織る。


 縫い目からの冷気の侵入を防ぐため、すべてのファスナーを最上部まで引き上げ、ベルクロを隙間なく固定した。


 次に、足元。


 靴を脱ぎ、予備の厚手の靴下へと履き替える。


 安全靴を再び履き、イアン・ノットで均等に締め上げた後、その上からオーバーブーツを被せて固定し、最後に雪山登山用のアイゼンを装着する。


 バックルが確実に噛み合ったことを目視で確認した。


 最後に、手の保護だ。


 薄手のインナーグローブをはめ、その上から防水・防風性に優れた極寒地仕様の厚手のアウターグローブを重ねる。


 手元もウェアと同様にレイヤリングを行い、指先の凍傷を徹底的に防ぐシステムだ。


 これらの準備にかかる手間とコスト。


 それが、他の探索者たちがこの先を不採算エリアであると断定する理由だった。




 準備を終えた私は、移動を再開した。


 進むにつれて、冷気が段階的に強くなっていくのがわかる。


 バックパックのショルダーストラップに固定した温湿度計に視線を落とす。


 文字盤の針が、氷点下を大きく割り込む温度低下を示していた。


 周囲の景色もまた、姿を変えていく。


 壁面に滲み出していた地下水脈は、最初は薄い霜、さらに奥へ進むと鋭利な氷柱の群れ、やがて岩肌を完全に覆い尽くす分厚い氷の壁と化した。


 床面もまた硬く凍結し、氷の層へと変わっていく。


 そして、その凍てついた通路を抜けた先。


 開けた谷状の地形が現れると同時に、絶え間なく吹き荒れる風と、視界を白く霞ませる粉雪が私を包み込んだ。


 谷という地形が風の通り道となり、足元の氷を削り取った微細な氷の粒を巻き上げ、猛烈な吹雪を形成している。


 完全防風仕様のアウターの表面を、氷の粒が硬い音を立てて叩き続ける。


 何層にも重ねたレイヤリングと、ポケットに仕込んだカイロの熱によって体温の喪失は最小限に抑えられ、アイゼンの爪が氷を確実に噛み、機動力に支障はない。


 私は吹雪の中を、慎重に進んでいった。




 氷に覆われた床面の一部に、深く抉れた痕跡を発見した。


 しゃがみ込み、ライトの光を当てる。


 協会が開示しているこのエリアの生態データによれば、ここに生息しているのは白霜狼(フロスト・ウルフ)と呼ばれるモンスターだ。


 その爪痕のデータは、三本の鋭い引っ掻き傷として浅く岩盤に残ると定義されていたが、目の前にある痕跡は違う。


 金属が均等な圧力で氷と岩盤を削り取ったような、規則性のある十字のスパイク痕だ。


 私が今履いているアイゼンよりも大きく、深い。


 コストをかけてでも、この過酷な環境を専門とする探索者が確実にいるという事実。


 私はその特異な形状とサイズを、視覚情報として脳裏に焼き付ける。


 極寒環境下において、手袋を外しての筆記は凍傷に繋がる恐れがあるからだ。


 重要な一次データは、必ず生還し、持ち帰らなければならない。


 私はさらに深部へと歩を進めた。




 前方から、風音に混じって聞こえてくる音があった。


 氷が砕ける音と、重い駆動音。


 私は即座に足音を殺し、巨大な氷柱の陰に身を隠した。


 粉雪が舞う開けた空間の奥で、咆哮を上げるモンスターの姿があった。


 白霜狼。


 協会が開示しているデータによれば、体長は1.5m程度。


 氷の薄皮を纏う中型の獣と定義されている。


 文字と数字に落とし込めば、確かにその通りなのだろう。


 だが、机上のデータと、現場で相対した時の実態には激しい乖離があった。


 猛烈な吹雪の中で咆哮するその姿は、周囲の冷気と粉雪を絶えず体表に付着させており、データにある薄皮などという生易しい状態にはない。


 環境と同化し、極厚の氷の鎧へと変貌した外殻。


 その装甲の重量を支えるために隆起した四肢の筋肉。


 文字情報では決して伝わらない、過酷な環境を生き抜く獣の圧倒的な存在感。


 机上のデータだけを鵜呑みにして挑めば、逆に蹂躙されることは明白だ。


 そして、その強固なモンスターと対峙しているのは、全身を分厚い耐寒装備とフルフェイスマスクで覆った一人の探索者だった。


 単独での戦闘。


 おそらく彼だろう人物は、自身の体ほどの大きさがある機材、パイルバンカーのようなものを構えていた。


 杭の先端部分が、赤熱しているのが吹雪越しにもわかる。


 探索者が踏み込んだ。


 赤熱した先端が白霜狼の分厚い氷の外殻に押し当てられた。


 その瞬間、高熱による急激な融解が発生し、水蒸気が爆発的に吹き上がる。


 そして、杭が打ち込まれた。


 凄まじい衝撃音が響き、分厚い装甲が粉砕される。


 モンスターが体勢を崩し、その体が光となって霧散した。


 ……熱で融解させ、物理的に破壊する。


 私は岩陰から、莫大な投資によって実現されたであろう、あの極寒冷地に特化した機材の運用法を、その一切の無駄を省いた戦闘ロジックの全容を、静かに観察し記憶に刻みつける。


 次期要件定義の完璧なベンチマークとして。


 充分にデータは得られた。


 本日の業務はここまでだ。


 私が撤退を決めた、まさにその時、空間の気圧が一瞬で異常な数値に跳ね上がった。


 吹雪の勢いが激化した。


 極低温の突風、コールドドラフトの発生だ。


 奥から吹き付けてきた猛烈な突風が、先行探索者の機材が発した熱で融解した大量の水分を巻き込んだ。


 水分は空中で瞬時に再凍結し、視界を完全に奪う氷の粉塵の壁となって私の方へ降り注いできた。


「——ッ」


 息が詰まる。


 超低温環境への急変。


 完璧だったはずのレイヤリングすら、限界を容易く超えた。


 ヘッドライトの光量が急激に落ちたのは、低温対応バッテリーでさえ耐えきれないほどの電圧降下が原因に違いない。


 指先の感覚が麻痺し始めてきた。


 このままでは、撤退のための歩行すら不可能になるだろう。


 だが、動けない。


 視界と光源を完全に奪われた状態で強引に動けば、方向感覚を失うリスクが跳ね上がる。


 加えて、猛吹雪に逆らって歩くことによる無駄な体力消耗と発汗は、低体温症を加速させる。


 強行突破は死に直結する。


 私は突風が収まるまでこの場をやり過ごすという、生存最優先の待機行動へ移行した。




 視線を巡らせ、手近に岩のくぼみを発見することができた。


 そこには吹雪によって吹き溜まった、微細な氷の粒が堆積していた。


 私はくぼみの奥へ体を押し込み、吹き溜まった粉雪をバックパックで入口側に積み上げ、冷風の侵入を塞いだ。


 そしてバックパックから折りたたみ式の断熱マットを引き出すと、くぼみに隙間なく敷き詰めた。


 そのマットの上に体を丸めてうずくまり、エマージェンシーシートを頭から被って全身を包み込む。


 吹き込む冷気を防ぐため、シートの端は体の下に巻き込んだ。


 アルミ蒸着生地が私の体熱を反射し、内側に留める。


 ただし、呼気に含まれる水分が逃げ場を失えば、シートや衣服の内側で大量の結露を生じさせ、それが再凍結することで致命的な体温低下を招いてしまう。


 当然、窒息のリスクもある。


 私は風下側に顔を向け、口元のシートだけをわずかに開けて換気口を確保した。


 自身の体温と、ポケットのカイロの熱だけを熱源としてデッドエアを保持し、静的なサバイバルへと移行する。


 シートの内側は、完全な暗闇と閉塞感に支配されていた。


 極低温の風が岩肌を削る凄まじい反響音が響き続けている。


 手足の震えを奥歯を噛み締めて抑え込む。


 無駄な動きは体力を消耗させるだけだ。


 私は換気口から入るわずかな外気で呼吸のペースを一定に保つことだけに意識を集中した。




 数十分が経過した。


 風の音が、徐々に弱まってきた。


 ……過ぎ去ったか。


 私は硬直しかけた指を動かし、エマージェンシーシートを押し退ける。


 くぼみから外へ這い出す。


 極低温の突風は完全に過ぎ去り、通常の吹雪へと落ち着きを取り戻していた。


 ヘッドライトの光量はまだ戻らないが、歩行に支障はない。


 奥に視線を向けるが、先行探索者の姿はどこにもなかった。


 自力で撤退したのか、あるいは。


 私は私が生き残るための選択をした。




 無事、探索者協会のロビーへ帰還することができた私は、そこでまだ完全に戻っていなかった体温の回復を待った。


 視界の端で、動く者たちがいた。


 朝方、撤退を判断していた『アルゴス』の涼下氏と瀬能氏だった。


 涼下氏が手元の端末で何かを閲覧している。


「過去の納品履歴から推測するに、この中堅パーティーならば、イレギュラー処理を委託できる算段が立ちます」


 権藤さんに聞いたことがある。


 協会は、魔石の大口取引先である大企業に探索者の実績データベースを提供している、と。


 もちろん、探索者個人のプライバシー情報は厳重にマスキングされているらしいが。


 涼下氏が見ているのは、おそらくそれだ。


 そこに独自のフィルターをかけ、合法的に委託先の抽出を行っているのだろう。


「瀬能代表、どうでしょうか」


「速やかに協会経由でオファーを出し、交渉へ移行してください。……機材を汎用化するコストに比べれば、安いものです」


 イレギュラー個体の処理の自社解決を放棄し、合理的な外部委託へと舵を切ったらしい。


 その冷徹なまでの損切りとリソース配分の判断は、彼らが彼らの論理で生き残ろうとしている証左に違いない。


 体温がだいぶ回復してきた私は手帳を取り出し、本日の一次データと、先駆者である人物の観察結果を書き連ねていく。


 極寒冷地を完全に攻略するための条件。


 現在のレイヤリングすら上回る、異常気象を前提としたさらなる安全マージン。


 そして、物理的な破壊と熱的アプローチを組み込んだ機材設計。


 次期要件定義の輪郭が明確に構築されていく。


 新たな課題を前に、胸の奥で静かな興奮が湧き上がるのを感じた。


 私は静かに手帳を閉じる。


「……ですが、その前に、まずは夕食の買い出しです」


 極低温下で消耗したカロリーを補填するためには、あたたかい鍋料理が最適だろう。


「豚肉と生姜を使った鍋がいいかもしれません」


 疲労回復に直結するビタミンB1を豊富に含む豚肉。


 そして生姜を加熱することで生成されるショウガオールは、深部体温を効果的に引き上げる。


 私は協会の出口へ向けて、確かな足取りで歩き出した。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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▼書籍化作品▼

【書籍版 異世界に召喚されなかったから、現実世界にダンジョンを作ってやりたい放題 / ガガガブックス】
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【Audible版 異世界に召喚されなかったから、現実世界にダンジョンを作ってやりたい放題】
1巻 こちらから
2巻 こちらから

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