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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第39話:効率化の死角


 朝の探索者協会ロビー。


 私は壁面に設置された環境モニターの前に立ち、液晶画面に表示された数値を確認する。


 湿度、気圧、ともに大きな変動はない。


 手帳を取り出し、本日の環境数値を正確に書き写す。


 ここ数日、私は一つの決断を下すためのデータを収集し続けていた。


 特定のエリア、すなわち『金剛石の回廊(アダマント・ロード)』の利益のみに依存することは、経営的リスクが高いという純粋な論理による判断だ。


 対象となるエリアへの競合他社の過剰な流入と、それに伴う環境の乱れ。


 それらは私の業務における不確定要素を増大させ、安全マージンを著しく削り取る。


 ゆえに、本日をもって、事前のデータ収集を終えた代替エリアへの完全移行を実行する。


 当該エリアは、中層の地下水路区画の深部である『泥濘の迷宮(マッド・ラビリンス)』だ。


 極端に足場が悪く、湿気と泥により移動のカロリー消費が平時の数倍に跳ね上がる。


 通常の探索者や、効率と回転率を重視する企業クランにとっては、費用対効果の合わない明確な不採算エリアである。


 しかし、競合がいないという一点において、外部要因による事故リスクは極小化される。


 私は手帳を閉じ、ロビーからダンジョンのゲートへと続く準備広場へ向かった。


 カビと土の混ざった冷気が鼻腔を撫でる。


 広場にあるいつものベンチへと向かい、腰を下ろした。


 業務開始前の最終工程へ移行する。


 靴紐。


「問題なし」


 ポーション、予備光源、カラビナ、ロープ。


「問題なし」


 そして、今回、代替エリアを攻略するために新たに導入した化学凝固剤のボトル。


「問題なし」


 さらに、防毒マスクと交換用フィルター。


「問題なし」


 サバイバルナイフ。


「問題なし」


 ——全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 ベンチから立ち上がり、ゲートへと足を踏み出そうとした、その時だった。


「いよいよ本格的に別エリアへ移行するようですね」


 規則正しい足音とともに、私の進行方向を遮るように現れたのは、紺色の防塵コートを羽織った男だった。


 胸元にエンブレムを光らせた、企業クラン『アルゴス』のデータアナリスト、涼下氏だ。


 その少し後ろには、リーダーの瀬能氏が控えている。


 涼下氏の眼鏡の奥の瞳が、私のバックパックの膨らみと装備の変更箇所を精密に解剖していくのがわかった。


「やはり個人の属人的な判断では、当社の最適化された工場ラインには対抗できないという証明ですね」


 彼はそう告げた後、しばらく逡巡し、こう付け加えた。


「静河さん、あなたはこちら側の人間だと思っていました。……とても残念です」


 おそらく本心なのだろう。


 そしてそこには同情や憐憫は感じられなかった。


 今度は瀬能氏が話しかけてくる。


「当社の圧倒的な効率と資本の前に競合することを諦めて逃げ出すのは、賢明です」


 涼下氏と違い、彼女の顔には、明確な勝利宣言が浮かんでいた。


 私は彼らの言葉に対し、反論も弁明も行わなかった。


 ただ、


「ええ。あのエリアは私の許容できるリスクと採算ラインを超えましたので」


 客観的な事実のみを返し、小さく会釈をした。


 そのまま彼らの横を通り抜け、ダンジョンの暗がりへと足を踏み入れる。


 背後からどのような視線が向けられていようと構わない。


 私の進むべきルートはすでに確定している。




 中層、地下水路区画の深部へと続くルートに、私は足を踏み入れた。


 周囲への警戒は、これまでそうだったように、怠るつもりはない。


 事前に調査済みであっても、ダンジョンでは常にイレギュラーな事態が発生する。


 そうやって歩みを進めるにつれ、肌にまとわりつく空気の質量が重くなる。


 そこで私は立ち止まり、首から下げていた防毒マスクを装着する。


 この先は淀んだ水と腐敗した土により、有毒なガスが滞留しているからだ。


 移動を再開してすぐに、足元の硬質な岩盤は湿った土のように変化する。


 そして、『泥濘の迷宮』と呼ばれるエリアに到達。


 足元はすでに重い粘性体になりつつあり、このまま何の対策もなしに一歩を踏み出せば、泥が靴を捕らえ、移動によるカロリー消費が跳ね上がる。


 だが、問題はない。


 事前のデータ収集期間中、私はすでにこのエリアの移動動線となる基礎インフラを構築済みだった。


 視線を壁面に向ける。


 硬い岩盤の基部に一定間隔で打ち込まれた鉄の楔。


 そこに固定された軽量の合成樹脂製の足場板。


 それらが泥の海の上に、確実な退路と侵攻ルートを築き上げている。


 私は構築済みの足場の上に足を乗せた。


 靴底が泥に吸い込まれるエネルギーロスを回避し、体力の消耗を防ぐ。


 とはいえ、ダンジョンは常に変動する現場だ。


 数メートル進むごとに足場の強度を足先で確認し、地盤の緩みによるガタつきがあれば、腰に下げたハンマーを取り出して楔を打ち直し、補強していく。


 地道な点検と保守作業。


 それがこのエリアにおける業務の安全を担保する。


 保守作業をこなしながら進んでいた時、前方の泥の表面が不自然に隆起した。


 泥の中に完全に擬態していた、マッド・ゴーレムである。


 泥の波が、私の立つ足場へ向かって押し寄せてくる。


 私は腰のポーチから、このために用意しておいた化学凝固剤のボトルを引き抜いた。


 対象の進行方向、足元の泥の表面に向けて溶液を散布する。


 特殊な化学反応により、粘度の高い泥が数秒で石膏のように硬化していく。


 対象の動きが泥の中に拘束され、完全に停止した。


 私はその隙を見逃さず、サバイバルナイフを引き抜き、正確な角度で刃を差し込んだ。


 やがて対象は光の粒となって霧散し、泥の上に魔石だけが残された。


 私はそれを拾い上げ、布片で汚れを拭き取ってから専用のケースに収める。


 環境への徹底した適応と、事前のインフラ整備による地道な作業。


 それらが結実し、確実な黒字を積み上げていく手応えを感じながら、私は奥へと続く泥の海へ向き直った。




 設定した目標利益を完全に達成した私は、保守を終えた足場を利用して迅速に撤退を完了させた。


 いつもどおり、定時だった。


 地上へ戻り、探索者協会のロビーへ足を踏み入れると、すでに防毒マスクを外していた私の嗅覚が異臭を感じ取った。


 空調の効いた室内であるにもかかわらずだ。


 原因は、ロビーの中心、煤にまみれ、衣服のあちこちを焦がして座り込む『アルゴス』だった。


 彼らの傍らには、外装がひしゃげ、内部から黒い煙を上げている、彼らが運び込んでいた大型の精密機材があった。


 明らかな熱暴走の痕跡である。


「なぜ完璧な手順が破綻したのですか!」


 瀬能氏の鋭い声がロビーに響き渡った。


 彼女の視線の先には、同じく煤にまみれたデータアナリストの涼下氏が立っている。


「自分の構築したデータとマニュアルは完璧でした……!」


 涼下氏は手元の端末を握りしめ、血走った目で言い返した。


「ですが、装甲の厚みが平均値から大きく外れた、規格外の個体が連続したのです! 現場の作業員が、マニュアルにない事態に対し自己判断で損切りできず、規定出力のまま強引に機材を稼働させ続けたのが原因です……!!」


 すべての変数を掌握したと豪語していたシステムが、現場のイレギュラーに対応できず、それを操作する人間の判断能力まで奪っていた結果だ。


「『金剛石の回廊』であんたらのやってたこと見てたぜ」


 ロビーの奥から、野太い声が介入した。


 以前、私に『金剛石の回廊』への同行を強要し、その後、管理部門によって有識者会議に呼ばれて私の現場主義を肯定した、あの中堅パーティーのリーダーだった。


 彼は腕を組み、アルゴスの惨状を冷ややかに見下ろしている。


「ダンジョンのイレギュラーを現場のせいにしてる時点で、あんたらのマニュアルとやらは机上の空論なんだよ」


 彼の言葉に、周囲の探索者たちが無言で頷く気配が広がった。


「ダンジョンの状況を無視したマニュアルを現場に押し付け、強引に運用している時点で、機材が破綻するのは目に見えてたぜ。あいつなら、そんな言い訳をする前に現場の空気を読んで、さっさと撤退してる」


 中堅パーティーのリーダーの視線が、私を捉えた。


 あの会議の時と同じ、私の存在を肯定する真っ直ぐな視線だった。


 周囲の探索者たちの視線も、一斉にこちらへ向く。


 瀬能氏と涼下氏の顔が私に向けられ、その表情が屈辱と狼狽に歪んだのがわかった。


 だが、私は彼らの視線に対し、いかなる反応も示さなかった。


 ただ黙って、換金カウンターへ向かった。




 窓口の先頭では、『アルゴス』の人間が魔石をトレイに並べていた。


「機材の損失は事実ですが、A品魔石の目標値は達成しました」


 そこに瀬能氏がやってきて、絞り出すように告げる。


 対応にあたった係員は表情を変えることなくテスターに魔石をかけ、


「はい。確かに。すべてA品として受領します」


 すべてが基準をクリアしていることを確認した。


『アルゴス』の手続きが終わり、列が進む。


 だが、瀬能氏と、やってきた涼下氏はその場から動こうとしない。


 列がさらに動き、私の番が来た。


 私は彼らを避けるようにして、空いたカウンターの正面へと進み出た。


 バックパックから取り出したハードケースを置き、係員に向けて短く会釈をする。


 係員は手慣れた動作で私のケースを受け取り、そのままテスターを稼働させた。


「静河さん、いつも通り、すべてA品です。ありがとうございました」


 係員が買取金の口座への振込手続きを済ませ、明細を差し出す。


 私はそれを受け取り、印字された数値に目を落とす。


「予定通りの収益です」


 私が口にした時、すぐそばに立ち尽くしていた瀬能氏が、絞り出すような声で言った。


「……わたしたちに、何かないのですか」


 その言葉に、私は彼女の方へ視線を向けた。


 彼女の顔には焦りや苛立ちがあり、だが、それに応える義務は私にはない。


「特には」


 明細をポケットに収め、


「では」


 私は協会を後にした。


 遠くで、誰かが口笛を吹いたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。




 外へ出た私はスーパーへと向けて足を進めた。


 巨大な企業システムが自滅しようとも、私には関係がない。


 私は、私が私として生きていくため、必要なことをするだけだ。


「栄養補給です」


 慣れないエリアでの業務によって、肉体的な疲労だけでなく、精神的な疲労も蓄積している。


「今日は弁当にしましょう」


 目玉焼きを載せたハンバーグ弁当。


 それに即席だが、味噌汁をつけるのもいいかもしれない。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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