第3話:維持可能な歩み
早朝のダンジョン入り口は、肌を突き刺すような冷気と、荒々しい熱狂が入り混じっていた。
私はその喧騒から一歩引いた場所で、ゆっくりと靴紐を締め直した。
「……よし」
左、右。
指差し確認。
バックパックの左ポケットには、すぐに取り出せる位置にポーション。
右ポケットには、予備の光源と予備のバッテリー。
指先の感覚を確かめ、道具の配置を脳内のチェックリストと照らし合わせる。
かつての『私』が出向していたことがある現場では、これを安全点検と呼んでいた。
この数分の確認を怠ったばかりに、取り返しのつかない破綻が生じる瞬間を、私は何度も見てきた。
「おい見ろよ。またあの『ビビリ』が、入念に準備運動してるぜ」
思いのほかすぐ近くから、無遠慮な笑い声が飛んできた。
視線を向けると、そこには派手な装飾の施された剣を肩に担いだ、三人組の若者がいた。
一攫千金、そして英雄になることを夢見る彼らにとって、今の私のあり方は臆病者のそれに見えるのだろう。
「お前みたいなやつは、一生スライムでも数えてろよ。俺たちは今日、深層近くまで行くからよ」
胸の奥に波紋が広がった。
自分を否定される痛み。
それは何歳になっても慣れるものではない。
反論したい。そうではないのだと。
私は深く深呼吸をする。
私は『私』だ。
感情に任せて彼らと張り合い、己の力量を超えた領域に踏み込むことはしない。
大丈夫。できる。自分なら。きっと。絶対に……!
根拠も何もない、そんな思い込みはしないし、できない。
「……気をつけて」
私の答えに、彼らはつまらなそうに鼻を鳴らし、風を切ってダンジョンの中へと消えていった。
その時、権藤さんが彼らを見ていることに気がついた。
そしてその彼が私を見た。
一礼すれば、彼も一礼する。
私はもう一度深呼吸をした。
ここにいるのはなぜ?
誰かに認められるため?
違う。
私が私として、今日を、そして明日を生きていくためだ。
「いってきます」
誰にともなく言って、私はダンジョンに足を踏み入れる。
ダンジョン内部は、相変わらず湿った土とカビ、それに古い石の臭いがしている。
私は、見通しのよい真っ直ぐな通路を避ける。
背後に逃げ場のある、曲がり角を中心に探索を進めていく。
事前に、探索者であれば誰でも閲覧可能な分厚い資料で把握していたからだ。
ガサ、と物音が響いた。
反射的に心臓が跳ね、手袋をはめた掌に汗が滲む。
何度潜っても、この、死がすぐそこにあるかもしれない感覚に慣れることはない。
角の向こうから姿を現したのは、初めて倒したのとを同じゴブリンだった。
しかも二匹だ。
私はすぐには動かない。
呼吸を見計らって、ダンジョン内で拾った石をあえて反対側の壁に投げつけた。
音が響き、ゴブリンたちの注意が逸れた瞬間——。
「……っ!」
背後から、迷いなく急所を突く。
手応えとともに、一体が光の粒となって消える。
だいぶ慣れたものだなどと、物語の登場人物のような思いは抱かない。
私は、残る一体がこちらに気づく前に、すでに次の動作へ移っていた。
一対多を避け、常に有利な状況を作り出すこと。
ずる賢い?
違う。
死と常に隣り合わせにあるダンジョンで生きていくための、これが私の戦略だった。
それでも少しだけ、興奮はある。
自分の準備と工夫が通用することへの手応えは、感じてもいいだろうか。
数時間の『業務』を終えた私は安全地帯の壁に背を預けた。
バックパックから取り出したペットボトルの水を、ゆっくりと体に流し込む。
「魔石の成果は上々だ」
今日の宿泊費、食費、それに少しの貯金を差し引いても余裕がある。
「……まだ、やれるだろうか」
ふと、そんな思いが頭をよぎったのは、入口で出会った彼らのことがあったからだろう。
あと少し、もう少し奥へいけば、さらに大きな魔石が手に入るかもしれない。
怪我はない。だからポーションも使用していない。
「体もまだ動く」
だからこそ、と私は続けた。
「撤退だ」
まだいける——その判断が、どれほど多くの現場を崩壊させてきたか。
無理な残業、根性論、納期直前の仕様変更。
その結果、プロジェクトは破綻し、同僚は過労で倒れた。
私がここにいるのはなぜだ?
「今日を、明日を生きていくためだ」
それを間違えたら詰みだ。
ノルマはすでに達成している。
私は立ち上がり、大きな魔石が手に入るかもしれないダンジョンの奥に、背中を向けた。
「疲れは判断を鈍らせる。まだできる、もう少しやれる。そう感じられる時点で戻るべきなんだ」
若者の言葉に触発され、奥に意識が向いてしまう程度には、私はダンジョンに慣れてきた。
だが、それでも。
常に死がすぐそこにあるからこそ、恐怖は消えない。
「……今日は風呂に入浴剤を入れてもいいかもしれない」
それぐらいの贅沢はできるようになってきた。
私はすぐに気を引き締め、緊張感を持って帰路についた。
地上に戻ると、広場は異様な緊迫感に包まれていた。
「どけ! 道を開けろ!」
救護班の怒号とともに運ばれてきた担架の上には、赤黒い血に染まった青年が横たわっていた。
朝、私を笑った若者の一人だ。
彼の片足はすでに無く、あとの二人も虚ろな目で宙を見つめたまま、呼びかけにも応じない。
私が呆然と見ていれば、権藤さんが話しかけてきた。
「功を焦って、罠を無視して突っ込んだようだ」
私は何も言えない。
「あの怪我では、二度と探索者に復帰するのは無理だろうね」
それは、彼らが夢見ていた未来が閉ざされたということだった。
朝のことを思えば、少しは溜飲が下がる気持ちを抱くものだろう。
だが、そんな気持ちには、私はなれなかった。
胃の奥に消化することのできない塊を押し込められたような、そんな不快感。
もし、私が彼らの言葉を気にして、ダンジョンの奥へ向かっていたなら。
あの担架の上にいたのは、あるいは私だったかもしれない。
私は震える手で、魔石の入った袋を強く握りしめる。
ダンジョンに安全神話などない。
今日を生き延びることができたのは、ただ運が良かっただけかもしれないのだ。
協会での換金を終え、街の商店街を歩く。
惣菜屋から漂う揚げ物の匂い、夕食の買い出しをする人々の笑い声。
ついさっきまで死の気配の中にいたことが、嘘のように思える。
宿舎に戻ってきた私はスーパーで買ってきた食材で食事を作り、食べる。
そしてダンジョンからの帰り道、宣言したとおり、入浴剤を入れた風呂につかった。
「……生きている」
明日も慎重に行く。
誰に臆病者と笑われようとも。
無事にこの部屋へ帰ってくるために。




