第25話:記録と論理の防波堤
第3部です。
よろしくお願いします。
探索者協会のロビーに、朝の喧騒がなかった。
行き交う人間の数があまりにも少ない。
私は壁に設置された掲示板へと歩み寄った。
中央に、赤い枠で囲まれた真新しい用紙が貼り出されている。
『ダンジョン一時閉鎖のお知らせ』
それは、昨日の地震と水脈決壊による、被害状況の把握と最低限の安全確認が完了するまでの間、入場を制限するというものだった。
ダンジョンの調査は、協会が選定した一部のベテラン探索者に委託されているらしい。
私はダンジョンのゲートを見た。
物理的に封鎖されている。
「……強制休暇、か」
私は踵を返し、宿舎へと戻った。
この期間を無駄に浪費するつもりはない。
私はすぐさま装備品の総点検に取り掛かった。
ナイフの刃こぼれの修正や、安全靴の泥落とし、ポーションの在庫補充といった日常的なルーティンは、当然ながら今朝の出発前にすべて完了している。
私が今から行うのは、まとまった時間が確保できなければ着手できない、オーバーホールに近い保守作業だ。
まずは、バックパックの完全な防水処理。
すべてのポケットを裏返し、微細な砂をブラシで払い落とす。
その後、縫合部分のわずかな隙間にワックスを塗り込み、ドライヤーの熱で溶かして繊維の奥まで浸透させていく。
前回の中層での激しい水流を教訓とし、耐水性をカタログスペック以上に引き上げるための措置だ。
次に、金属パーツの分解清掃。
予備を含めたすべてのカラビナと滑車を分解し、可動部に付着したミクロの汚れを溶剤で落とす。
金属同士の摩擦係数を下げるため、シリコンスプレーを吹き付け、新たな潤滑皮膜を形成して組み直す。
これらはすべて、ダンジョンという死が常に隣にある現場におけるエラーの発生率を、極限までゼロに近づけるための予防保全だ。
そしてもう一つ、この休暇中に着手すべき案件があった。
肉体的な負荷が限界に達しつつある油田エリアの代替案、『プランC』として予備調査を進めていた、『金剛石の回廊』のデータ分析と要件定義だ。
出現するフォートレス・アイソポッドは、戦車のような多層装甲を持つ巨大な甲殻類型のモンスターだ。
その装甲は衝撃を分散する構造になっており、爆発や打撃に対して極めて高い耐性を持つ。
市販の強化合金ナイフでは数回の接触で刃が潰れてしまう。
摩耗コストが報酬の百二十パーセントに達する、論理的な不採算エリアだ。
しかし、切削という概念を捨てればどうなるか。
私はホームセンターへ足を運び、市販の超音波カッターを購入した。
刃で切るのではなく、微細な振動の波で多層装甲の結合を解離させ、剥離するというアプローチの検証である。
宿舎に戻り、以前持ち帰った高硬度のダンジョン産鉱物でテストを行う。
結果は、
「……駄目ですか」
市販品のスペックではダンジョン鉱物の硬度に負け、数分で超音波の振動子が焼き切れてしまった。
既製品の転用という、これまで私を支えてきた手法が、明確な物理的限界に突き当たった瞬間だった。
「……専用の機材を開発するしかありませんか」
与えられた突発的な余暇を、私は生存確率を上げるための予防保全と、次なる課題の明確化に有効活用した。
数日後。
閉鎖が解除されたその日の朝、私は協会のロビーに立っていた。
視線の先には、掲示板に新たに貼り出された書類の数々。
ベテラン探索者たちによる、大竪穴および中層の崩落に関する調査報告書だ。
私はバックパックから手帳とペンを取り出した。
各階層における地盤硬度の変化率。
完全に崩落し通行不可となったルートの座標。
新たに露出した地下水脈の位置と、予想される水流の圧力。
それらの数値を一つ一つ目で追い、手帳へと書き写していく。
事前に現場の最新状況を把握し、脳内の地図をアップデートしておくことは、業務再開時のリスクを低減させるための必須の段取りだ。
情報の転記を終え、私は手帳を閉じた。
ロビーを抜け、準備広場へと足を踏み入れる。
肌に触れる空気が違う。
以前よりも埃っぽく、土の臭いが濃い。
地盤が物理的に移動した痕跡が、微細な粒子となって嗅覚から伝わってくる。
「……久しぶりだ」
特別な感慨など沸かないと思っていたが、どうやら違ったようだ。
今、私の胸の中には、自分でも形容しがたい感情が渦巻いていた。
息を吐き出し、気持ちを切り替える。
普段とは違うコンディションで望むことは、致命的なミスを犯しかねない。
「……業務を再開する。ただそれだけだ」
ベンチに腰を下ろし、靴紐を解く。
イアン・ノットで均等な張力をかけて結び直す。
ポーションの位置を確認し、ナイフ、ライト、ロープ、カラビナ——すべての確認を終えた。
「全条件、規定値内」
行こう、ダンジョンへ——そう思って立ち上がろうとした時、私の前に立ちはだかる人影があった。
探索者、ではない。
探索者はスーツでダンジョンに赴かない。
男が二人。
胸元の名札には『内部調査委員会』の文字。
私は視線を上げて、彼らを見た。
彼らが私を見る視線は鋭く、
「静河さんですね」
訊ねる声も硬質なものだった。
「……そうですが」
「先日発生した大竪穴および中層での崩落時、一部のルートに設置されていた蓄光テープや鉄の杭について、あなたに確認したいことがあります」
彼らが私に見せたのは、私が壁に圧着したテープの残骸と、亀裂に打ち込んだ支保工の杭を収めた写真だった。
「これらは無許可の設置物です。協会の規定に基づき、撤去および原状回復の費用を請求する可能性があります。——あなたのもので間違いありませんか」
撤去。
そして、原状回復の費用請求。
胸の奥で、不快な熱が微かに生じた。
私の生存確率を上げるための安全設備が、規定違反という名目で損害として扱われようとしている。
かつての職場で、現場の実態を知らない管理部門から突きつけられた、無意味な仕様変更の通達に酷似していた。
立ち上がり、彼らと正対しようとして、
「ふざけるな!」
背後から、空気を震わせるような怒声が響いた。
見る。
赤茶色の髪の男が、大きな足音を立てて私たちの間に割って入る。
颯真くんだ。
彼の肩は大きく上下し、額には怒りによる血管が浮き出ている。
「無許可だの原状回復だの、現場を見たこともねえ連中が勝手なことを言うんじゃねえ! あのテープと杭がなかったら、俺たちはあの暗闇と濁流の中で全員死んでたんだぞ!?」
颯真くんの顔は赤く紅潮し、握りしめた拳は小刻みに震えている。
圧倒的な熱量と怒気。
調査委員の男たちが、気圧されて数歩後ずさった。
他者の激しい感情の爆発を目の当たりにした瞬間、私の胸の奥で燻っていた不快な熱は、急速に冷え込んでいった。
怒る人間が身近にいれば、人は冷静になれる。
私は小さく息を吐き、颯真くんの肩を叩いた。
「落ち着いてください、颯真くん」
「落ち着け? 落ち着けだと!? こいつら、お前を処分する気だぞ!」
「問題ありません。私が対応します」
私の言葉に、颯真くんがハッとする。
それからニヤリと笑って、私の背中を叩いた。
彼が私に何を期待しているのかわかって、私は少しだけ口元を緩めた。
期待通りかどうかはわからないが、私は私にできることを、なすべきことをするまで。
調査委員に向き直る。
彼らの顔には、まだ怯えの色が残っていた。
颯真くんの言葉は真実だろう。
彼らは現場を見たことがない。
いや、もしかしたら、探索者とこうして触れ合う機会すら、少ないのかもしれない。
「事前の許可を得ていない点については、事実です」
私はバックパックのポケットから、常に持ち歩いている手帳を取り出した。
「ですが、それらは私自身の退路を確保し、崩落リスクを低減するための安全設備として設置したものです。使用した機材の単価、設置日時、詳細な座標はすべてここに記録してあります」
ページを開き、彼らの目の前に突きつける。
そこには、備品の原価、設置間隔、岩盤への打ち込み深度、そしてそれらが崩落時に果たす応力分散の計算式が、隙間なく書き込まれている。
ダンジョンから生きて帰ることができた夜、宿舎に戻ってきた私は、食事を取ったあと、装備のメンテナンスもするが、その日、自分が何を、どんなことをしたのか、記録として保存してきたのだ。
「後ほど、これらの数値を清書し、期待される物理的効果の推測を含めた詳細な報告書を提出します。それを見た上で、改めてあなたがたの判断を聞かせていただきたい」
かつての『私』が、理不尽な顧客と応対したときと同じトーンで告げれば、彼らの顔色が悪くなる。
彼らが私のことを、どういうふうに聞いていたのかはわからない。
ただ、見た目だけで言えば年若いゆえに、威圧的な態度で臨めば、簡単に言いくるめられるとでも思っていたのだろう。
実際、静河くんの年齢を考えれば、彼らの考えは間違ってはいない。
しかし、『私』は違う。
だから、彼らは思わぬ反撃にたじろいでいるのだ。
さらに、私が突きつけた手帳。
びっしりと書き込まれた文字と数字の羅列。
彼らは完全に言葉を失っていた。
「どうするんだ?」
と言ったのは颯真くんで、それが呼び水となって、彼らは我に返ると、
「……ほ、報告書を提出してください。委員会で精査しますから」
彼らが背を向けて去っていった。
「尻尾を巻いて逃げ出したって感じだな」
颯真くんがバッサリと切り捨てる。
私は手帳を閉じてバックパックにしまうと、颯真くんに向き直る。
「ありがとうございました」
「余計なお世話だったみたいだな」
苦笑する彼に、私は頭を振って、
「いえ」
誰かが私のために怒り、後押しをしてくれるというのは、不思議と悪いものではなかった。
「災害後、初めてのダンジョンです。気を引き締めていきましょう」
私が告げると、颯真くんは「おう」と短く応じて、
「またな」
「ええ、また」
彼が背を向け、ダンジョンへの連絡通路へと消えていく。
私は腕時計を見た。
予定の出発時刻から、遅れが出ている。
だが、焦りは禁物だ。
私は意図的に深い呼吸を繰り返し、気持ちを切り替えると、
「……よし」
颯真くんに遅れて、ダンジョンへ向かった。
その日の業務を予定通り完遂した私は、宿舎に戻ると夕食もそこそこにして、机に向かった。
A4の用紙を取り出し、事実のみを記していく。
いつ、どこに、どのような目的で設置したか。
使用した鉄の杭の材質と強度。
それらが崩落時に果たした応力分散の物理的効果と、生存率への寄与の推測。
十数枚に及ぶ書類と、手帳の記録を元に作成した詳細な座標図が完成した。
翌日の朝、私はその書類一式を協会の窓口へと提出した。
「確認をお願いします」
窓口の担当者は書類を受け取り、目を通す。
私はそのまま振り返らずに現場へと向かった。
それから数日後。
ダンジョンから帰還し、換金所で魔石を換金していると、背後から権藤さんに声をかけられた。
「静河さん。少し、いいかい」
私が応じると、彼は一枚の書類を差し出した。
それは、内部調査委員会からの通達だった。
「君の提出した報告書と、実際の現場状況を照らし合わせた結果だ。あれらの設置物は、二次災害を防ぐための有効な措置であったと認められた」
つまり、と彼は続けた。
「撤去の必要はない。あれらは協会の安全設備として公式に認定されることになった」
「……迅速なご判断、感謝します」
「いや、感謝するのはこちらの方だ」
権藤さんは声を一段低くし、周囲に聞かれないようなトーンで言葉を続けた。
「実は、黒木さんたち調査隊のベテランたちは、調査の段階であれを生存率を劇的に上げた有用な設備としてはっきりと報告書に記載していたんだ。だが、現場の泥を被ったことのない上層部の連中が、それを理解できず、単なる規定違反の異物だと騒ぎ立ててね」
なるほど。
内部調査委員会の動きは、そういう経緯だったのか。
現場のプロが有用性を認めても、書類上の規則しか見ない管理部門がそれを問題視する。
どこにでもある、組織の不合理だ。
「私自身は最初から問題視などしていなかった。むしろ、どうやって上層部を納得させるか頭を悩ませていたところだったんだ。そこへ、君が提出したあの詳細なデータだ」
権藤さんの顔に、理知的な笑みが浮かんだ。
「単価、設置座標、期待される物理的効果。君の報告書が、あの設備がダンジョン探索においてどれほど有用であるかを、完璧な論理で証明してくれた。現場の感覚を数値と論理に変換したあの書類を見せられては、上層部も反論できなかったというわけだ」
「私は、私自身の正当性を主張し、不当なコストを回避したに過ぎません」
「それでもだ。君のリスクに対する論理的な対処とプロフェッショナルな仕事ぶりが、結果として上層部を黙らせ、この協会の安全基準を一つ引き上げた。それは紛れもない事実だよ」
私は一礼して、その場を離れた。
宿舎に戻り、夕食の準備を始める。
今夜は水炊きだ。
土鍋に昆布で出汁を取り、鶏肉と白菜、長ネギを煮込む。
ポン酢にくぐらせた鶏肉を口に運ぶ。
熱さと酸味、それに鶏の脂の旨味が、疲労した筋肉の奥底まで染み渡っていく。
「……うまい」
無用なトラブルは回避された。
私は今日も無事に温かい食事を摂ることができていた。
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