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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第24話:臆病者の痕跡と、ゼロの帰還

 探索者協会のロビー。


 環境モニターの液晶画面が発する青白い光が、数値を表示していた。


 湿度、気圧、ともに変動はない。


 有毒ガスの検知もゼロ。


 完全な平常稼働日だ。


 私は手帳にその数値を書き写し、ロビーを見渡した。


 朝の喧騒の中、壁に背を預けて大きく欠伸をしている赤茶色の髪の男――颯真くんの姿があった。


 彼は私に気づいていない。


 私は小さく頷くと、ロビーの片隅に設置された自動販売機へ向かった。


 硬貨を投入口へ。


 選択ボタンを押し込めば、しばらくして缶が落下する鈍い音がした。


 私は屈み込み、温かいカフェオレの缶を取り出した。


 彼の背後から近づけば、足音か、気配か、あるいはその両方か、彼が私に気づいた。


 私は手にした缶を、放物線を描くように投げる。


 空中でそれを受け取った彼は、ニッと笑った。


「サンキュー、静河」


 彼は缶のプルタブを開け、喉を大きく上下させて一気に飲み干した。


「目、覚めたわ」


「なら、よかったです」


「また、な。静河」


「ええ、また。颯真くん」


 短いやり取りだが、それでいい。


 お互いに、そこに込められた意味がわかっているから。


 今日という日を生き延びて、再び、この場所で会おう——そういう意味が。


 彼が背を向け、ダンジョンへの連絡通路へと消えていくのを見送った。


 私は準備広場に設置された、いつものベンチに腰を下ろす。


「……さて」


 私も始めよう。


 業務開始前の最終工程の確認を。


 靴紐を解く。


 イアン・ノット。


 左右の繊維にかかる張力が完全に均等になるよう、指先の感覚を研ぎ澄ませて引き絞る。


 血流を阻害せず、かつ不整地での歩行中に決して緩まない強度の確保。


 次に、腰のポーチと胸部のポケットを手のひらで打診する。


 止血剤、ポーション、予備の光源。


 緊急時に視線を落とさずとも、コンマ数秒で対象にアクセスできる配置になっているか。


 ナイフの柄を握り、摩擦抵抗を確認する。


 その他すべて、問題ない。


全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 立ち上がり、ダンジョンに向けた視界の中に、探索者たちが映る。


 新参や中堅の探索者たち。


 よく見れば、彼らの動作に、かつてのような浮ついた熱狂はなかった。


『赤き戦斧』のメンバーが、互いの装備の留め具を引っ張り合い、強度を物理的に確かめている。


『蒼穹の翼』の若者たちが、関節の可動域を限界まで広げる入念な準備運動を行っている。


 上近少年は、メモ帳を片手に自らの装備配置をチェックシートと照らし合わせていた。


 彼らと私との間に、直接的な会話のやり取りは存在しない。


 だが、私が生き残るために構築した手順が、彼らの間で一つの最適解として共有されている。


 不測の事態においてパニックを起こす人間が減ることは、私の巻き込まれ事故リスクを有意に低減させる。


 現場の環境改善としては、好ましい傾向だ。


「……何より、油田エリアの重労働が続いた身体には、この状況はありがたい」


 本日は疲労を考慮して機動性の高い通常装備で出勤し、プランCを実行する予定だった。


 プランC——未踏破である新規ルートの入り口付近の下調べである。


 しかし、既存ルートの過密状態が緩和されている今の状況ならば、下調べの帰路に、安全になった既存ルートでの資金調達も並行できるだろう。


 遠くのカウンターから、権藤さんがそんな彼らの様子を意義深く観察している様子が伺えた。


 その権藤さんが、私の視線に気づいたのか、こちらを見た。


 彼に一礼してから、私は息を吐いて意識を切り替える。


 さあ、私が私として生きていくための業務を始めよう。




 ダンジョン中層。


 新規ルートの地質や環境のデータ収集を終え、既存ルートに合流してからの今日の業務は、極めて順調に推移していた。


 魔石の回収プロセスに遅滞はなく、設定した目標値の八割をすでにクリアしている。


 予定よりも早く退勤できるかもしれない。


 そう思考した、次の瞬間だった。


 足元の岩盤から、内臓を直接揺さぶるような大きな突き上げがあった。


「……ッ!?」


 重心が著しくブレる。


 膝の関節を曲げ、姿勢を低くして衝撃を吸収する。


 ダンジョンの構造そのものを歪めるような、直下型の局地地震。


 壁面を這う発光苔が振動によって剥がれ落ち、光の斑点が床に散らばる。


 揺れが収まるのを待つ余裕は与えられなかった。


 鼓膜を圧迫するような重低音。


 空気が急激に圧縮され、高い湿気を帯びた風が奥から吹き付けてくる。


 そこには微かな泥の臭いも混じっていた。


「これは……水脈の決壊か!」


 あの振動で、地下に滞留していた水脈の岩盤が破壊されたのではないか。


 だとすると、大量の濁流が土砂を巻き込みながらこの通路へ向かってくるはずだ。


 さらに、頭上の岩盤から連続する破断音が響く。


 この音の反響の仕方からして、単一の場所ではない。


 大規模な落盤が複数のルートで同時に発生していると判断すべきだ。


 冷たい汗が背筋を滑り落ちる。


 完全想定外の重大インシデント。


 私は即座に、進行中のすべてのタスクを凍結した。


 目的を魔石回収から生命維持へと切り替えると同時に、緊急撤退プロセスへと即時に移行する。


 轟音が続き、足元を濁った水が洗い流していく。


 水位は瞬く間に足首を越え、脛にまで達した。


 濁流の中に混じる岩の破片が壁を削る音がしたかと思うと、壁面にわずかに残っていた発光苔の光が完全に消滅した。


 削り落とされたのだろう。


 視界が、濃墨を流し込んだような完全な暗闇に塗り潰される。


 そんな中、複数の探索者の荒い呼吸、装備が岩に衝突する不規則なノイズが微かに、だが確かに聞こえてきた。


 方向感覚を失った彼らが互いに衝突し、水流に足を取られれば、崩落の二次被害に巻き込まれることは火を見るより明らかだった。


 心拍数が上がる。


 だが、暗闇の中、私の網膜が淡い緑色の光を捉えた。


 壁の、腰より少し高い位置。


 私が以前、泥汚れを落とし、視認性を計算して貼り直しておいた高輝度蓄光テープ。


 それが、濁流の水しぶきの中にあっても、出口へ向かう滑走路の誘導灯として機能し、一直線に連なっている。


 私は壁に手を触れず、その光の座標だけを頼りに足を進める。


 私の前方でパニックに陥りかけていた探索者たちの気配が、次第に収束していくのがわかった。


 彼らもまた、私と同じ光を認識したのだろう。


 誘導灯に沿って、隊列が自然と形成されていく、そんな気配がした。




 さらに進み、岩場の難所に出た。


 ここは本来であれば、この規模の地震と水圧が直撃すれば、足場ごと崩壊し、退路が完全に絶たれるポイントであるはずだった。


 しかし、岩盤は微細な軋み音を立てるだけで、その場に留まっている。


 私が以前、亀裂に打ち込んだ鉄の杭が地盤の応力を分散しているからだ。


 そして、ナイフで削り出した水抜き溝が、濁流の強烈な水圧を計算通りに外部へと逃がしているのだろう。


 周囲の探索者たちは、暗闇の中でも決して無闇に走ることはなかった。


 彼らは私の足運びを追従するように、一段一段、退避行動を取っている気配がある。


 確実に足場を確認し、頭上の崩落にも警戒を払っているようだ。


 彼らの、あいつなら——私ならどうするという思考プロセスが、気配の端々から感じることができた。




 そうして私たちは、地上への帰還を果たした。


 緩衝区域である準備広場は、泥水にまみれ、息も絶え絶えな探索者たちで溢れかえっていた。


 その中には上近少年、『赤き戦斧』、『蒼穹の翼』——誰一人、欠けることなく、見つけることができた。


 権藤さんをはじめとする協会の職員たちが、名簿が挟まれたバインダーを手に、足早に被害状況の確認に動いている。


 その集計作業の輪の中には、黒木氏の姿もあった。


 ……深層を探索しているはずの彼が、なぜ?


「……ああ」


 体調不良だったのかもしれない。


 ダンジョンは一瞬のミスで命を落とす。


 彼ならば、たとえ些細な不調であっても、休むだろう。


 私は彼のようなベテランではないが、自分に置き換えて想像してみれば、同じようにしているはずだ。


 私は壁際の邪魔にならない場所へ移動し、装備の損耗状態を確認する。


 耐水処理を施したバックパックの内部に浸水はなかった。


 だが、私自身はといえば、正直、損耗が激しかった。


 極度の緊張状態と、水圧に逆らっての歩行。


 このまま休養に入れば、明日の稼働率に深刻な影響を及ぼすのは間違いない。


「……今日は自炊ではなく、弁当ですませましょう」


 そう決断した時、不規則で荒い呼吸音が近づいてきた。


 視線を向ければ、泥と水にまみれた赤茶色の髪が見えた。


 颯真くんだ。


 彼は背中の大剣を杖代わりにするようにして立っていたが、私の姿を認めるなり、力なく、しかし確かな笑みを浮かべて言った。


「……よう。生きてたか、静河」


「あなたも。——装甲の損耗率は高そうですが、無事のようで何よりです」


 彼は私の言葉に短く息を吐き、壁に背を預けてズルズルと腰を下ろした。


「……あの暗闇の中で、緑色の光が見えた時……マジで、神様がいると思ったぜ」


 彼の言葉から推測するに、彼もまた私が設置した誘導灯を辿って帰還したルートにいたのだろう。


「……神様ではありません。ただの工業製品です。ホームセンターで手に入ります」


「……全くだ。お前みたいな神様がいてたまるか」


 彼はそう言って笑うと、疲労の濃い目を閉じた。


「……信じられん」


 権藤さんの声がした。


 その声には、明らかな驚愕が混じっていた。


「この規模の突発災害だ。複数のルートが水没し、崩落も確認されている。通常なら、二桁の犠牲者が出てもおかしくない状況だ」


 権藤さんは歩みを向け、私の前で立ち止まった。


「未帰還者ゼロ」


 彼は手元の名簿を閉じ、私を真っ直ぐに見据えた。


「君が平時に築いた、見えない手すり、そのインフラストラクチャーが、今日の絶望的な状況を打破した」


 隣に立っていた黒木氏も、腕を組みながら短く頷いた。


「いい仕事だ。現場の土台を支えるのは、ああいう地味な痕跡だ」


 称賛の言葉に、私はただ息を吐き出すだけ。


 水筒を取り出し、残っていた水を口に含んで泥の味を洗い流した。


「……評価はありがたいのですが」


 そう前置きしてから、私は続ける。


「私は、私が確実に帰還するために、私の退路を整備してきただけです。彼らが助かったのは、彼ら自身が光を見落とさず、冷静な判断のもとで足を動かした結果にすぎません」


 私は軽く会釈をし、定時を迎えた業務を終了するため、協会を後にした。




 街へ出る。


 地震による被害は、ダンジョンのようにはなかったようで、道行く人達の顔には笑顔があった。


 喧騒に包まれながら、私はスーパーに向かう。


 速やかに、消化のよい高カロリーを摂取しなければ。


 私が選んだのは、うな丼と茶碗蒸し。


 安価ではないが、疲労回復への投資としては妥当なコストである。




 宿舎に戻ってくると、浴室でシャワーを浴び、こびりついたダンジョンの泥と臭いを完全に洗い流した。


 清潔な衣服に着替え、小さなテーブルの前に座る。


「いただきます」


 うなぎの身を白米ごと切り取って口に運ぶ。


 炭火の香ばしさと、柔らかく溶けるような脂の旨味。


 次に口に運んだのは茶碗蒸し。


 滑らかな触感が心地よく、出汁が冷え切った胃壁を優しく温めてくれるようだった。


「……うまい」


 思わず呟きが漏れた。


 誰にどう評価されようとも、私の目的は変わらない。


 無事に生き残るために必要な準備をするだろう。


 明日も、明後日も。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

第2部『臆病者の痕跡』編、これにて完結です。

いつも見守り、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。


明日から第3章突入というこの区切りに、

もし少しでも「続きが気になる」「ここまで面白かった」と感じていただけましたら、

ぜひ評価やブックマークで足跡を残していただけるとうれしいです。


第3部も、皆様に楽しんでいただけるよう

引き続き全力で執筆してまいります!

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【書籍版 異世界に召喚されなかったから、現実世界にダンジョンを作ってやりたい放題 / ガガガブックス】
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【Audible版 異世界に召喚されなかったから、現実世界にダンジョンを作ってやりたい放題】
1巻 こちらから
2巻 こちらから

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