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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第23話:可視化された品質格差


 探索者協会のロビー。


 湿り気を帯びた空気と、多様な素材の装備が発する特有の臭いが鼻腔を突く。


 私はいつものベンチに腰を下ろしていた。


 ダンジョンへ向かう前の最終工程だ。


 安全靴。


 足首の固定具合に狂いはない。


 次に、手袋。


 関節の動きに遅滞なく追従する。


 問題ない。


 手のひらで装備のポケットに圧を加える。


 ポーションの配置位置と、抜き出す際の動線に障害物がないかを指差しで確認した。


 ライト、ロープ、カラビナ、ナイフ……その他すべて問題なし。


全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 私がベンチから立ち上がると同時に、ベテランと思われる探索者たちの集団の声が届く。


「最近の新人、レベル上がってきたよな」


「ああ、みんなアイツの真似してるからな」


「でも、アイツの基準って、異常だろ。毎日狂いなくやり続けるなんて」


 アイツとは誰か、確認する必要はない。


 私の手順を模倣した新人たちの生存率が向上している。


 権藤さん、颯真くん、上近少年、『蒼穹の翼』——異口同音に聞かされていた。


 未熟な探索者がダンジョン内で命を落とせば、その遺骸は強大なモンスターを呼び寄せる誘餌となる。


 その結果、どうなるか?


 それは私の業務に深刻なリスクをもたらす。


 新人たちの生存率向上は、彼ら自身の命の問題であると同時に、私にとっては実務的な環境改善にほかならない。


 探索者全体の安全基準が底上げされたのは結果論だ。


 私はバックパックのベルトを握り直した。


 息を吐き出す。


「……よし」


 不必要なものを意識から遠ざけ、私は業務モードへと移行する。




 中層にやってくれば、澱んだ空気が肺の奥にへばりつくようだった。


 私は背後に手を回し、腰に装備したナイフを引き抜く。


 こちらに気づいていないモンスター、装甲亀(アーマー・タートル)の硬質な外殻、その隙間に向かって突き立てる。


 モンスターが暴れる前に、私のナイフは核に届いた。


「……ッ!」


 そのまま一気に押し込めば、それを破壊する手応えが柄を通じて伝わってきた。


 装甲亀は光の粒となって霧散。


 私は後に残った魔石を拾い上げる。


 バックパックから厚手のポリ袋を取り出し、それを収め、重量を確認する。


 予定していた今日の回収目標は、これで達成した。


 だが、これで終わりではない。


 ここからが、重要な段取りだった。


 私は安全地帯の構築作業に入る。


 それは単なる休息ではなく、事業継続計画に基づく、一時避難所の設営だ。


 ポケットからティッシュペーパーを一枚取り出す。


 細く裂き、顔の高さに掲げた。


 奥から手前へと僅かに揺れる。


 鼻腔から空気を吸い込む。


 土の湿った臭いはあるが、カビの甘い芳香や、酸性の刺激臭は混じっていない。


 上を向く。


 岩盤に亀裂はない。


 それ以外にも、視界の範囲内に崩落の予兆は確認できない。


 背後は強固で凹凸の少ない岩壁。


 後方からの奇襲を物理的に遮断できるだろう。


 腰のポーチからスプレーボトルを取り出し、周囲の地面、半径二メートルの半円状に液体を吹き付ける。


 ハーブと化学物質が混ざった、鼻を突く忌避剤の臭いが立ち上る。


 見えない防衛線を構築し、私はようやく岩壁に背を預け、腰を下ろした。


 水筒を取り出すと、冷たい水を喉に流し込む。


 もう一口飲もうと思った時だった。


 硬い足音。


 一つ。


 水筒を口から離し、キャップを閉める。


 角の向こうから姿を現したのは、見覚えのある顔だった。


『赤き戦斧』のリーダー。


 以前、魔剣のメンテナンスを怠って破損させ、私が残した応急キットで命拾いをした中堅探索者だ。


 彼は私に気づき、足を止めた。


 その視線が、私を起点として周囲の空間を巡るのが見えた。


 背後の防壁。


 頭上のクリアランス。


 足元に引かれた忌避剤の境界線。


 私の構築した避難所の構造を認識したのだろう。


 彼の表情が、微かにこわばったのがわかる。


「……よう」


「……こんにちは」


 水筒をバックパックの定位置に収める。


 私には彼に話しかける理由がなく、黙ったまま。


 彼もだんまりを続け、結果、沈黙が続く。


 彼の視線があちこちへと彷徨ってから、彼は絞り出すように声を出した。


「なあ、聞きたいんだが……お前、いつから、あんなに徹底してたんだ?」


 あんなに——というのは、先日の大竪穴の一件か。


 それとはまた違う件か。


 何にしても、私が言えるべきことは一つだけ、事実だけだ。


「最初からです」


「………………は?」


 何を言われたかわからない、彼がそんな顔をした。


 だから私は、


「最初からです」


 ともう一度、まったく同じ言葉、同じ感情で繰り返した。


「ダンジョンは、一度のエラーが死に直結する現場ですから。手を抜く理由がありません」


 彼はしばらくの間、私をジッと見つめていたかと思うと、短く息を吐き、自嘲気味に口角を歪ませた。


「……俺たち、完全に舐めてたわ。ダンジョンのことも、お前のことも」


 悪いな、休んでるところ邪魔して。


 彼がそう言い残して、来た道を戻っていくのを見届けた。


 私は予定していたとおり、15分間の休憩を消化した。




 今日も業務が終わった。


 私は生き残り、換金カウンターに並ぶ列の中にいる。


 正面の光景を眺めていた。


 前方に、ダンジョン内で言葉を交わした『赤き戦斧』のリーダーがいた。


 彼のパーティーメンバーもそこにはいて、あの日から、誰ひとり欠けることなく、探索者を続けている。


「……静河のやつ、最初からアレなのか」


「……信じられねえよな」


「俺たち、あいつをビビりだ、臆病者だって呼んでたけど、違うんだよなぁ……」


『赤き戦斧』たちの低く抑えた声が、ロビーの雑音の隙間を縫って私の耳に届いた。


「……プロ、なんだな」


 私に、直接向けられた言葉ではない。


 だから、私が何か反応する必要はない。


 ただ、小さく息を吐き出した。




 換金の手続きを終え、協会の外へ出る。


 夕暮れの冷たい風が、頬を撫でる。


 私は歩きながら、夕食の段取りを頭の中で組み立てていた。


 調理器具の準備、食材のカット、加熱時間、食事後の洗浄作業。


 現在の体力残量と、それに要する工数を天秤にかける。


 今日は速やかな休養を優先しよう。


 無理な労働の延長は、明日の業務における致命的なミスを誘発する。


 私はスーパーの惣菜コーナーへと向かった。




 宿舎に戻ってきた。


 小さなテーブルにはのり弁当と、温かい豚汁。


 白身魚のフライを一口大に切って口に運ぶ。


 衣の油と、淡白な魚の旨味。


 次に、豚汁。


 豚肉から溶け出した濃厚な脂をまとった根菜の甘みが口の中に広がる。


 中層の淀んだ環境で奪われていた体温が、胃袋を中心に、指先の毛細血管までゆっくりと戻ってくるようだった。


 平穏な日常を維持できたことへの、確かな安堵の味だ。


 私は箸を進める。


 明日も、生き残るための業務を続けるために。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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1巻 こちらから
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