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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第22話:油まみれのブルーオーシャン


 ダンジョンと外界を隔てる準備広場。


 カビの臭いと冷たい外気が混ざり合うその場所で、私はいつものベンチに腰を下ろしていた。


 手元の作業に意識を集中させる。


 靴紐を左右均等な力で引き絞り、解けにくく、かつ解きたい時だけ瞬時に解けるイアン・ノットで結び上げる。


 指先に伝わるテンションに狂いはない。


 次に、右腰と左胸のポケットを軽く叩き、ポーションの配置を物理的に確認する。


 最後にナイフを鞘から少しだけ引き抜き、冷たい刃の表面に欠けや歪みがないかを目視でチェックした。


「……全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 行こう、ダンジョンへ。




 ダンジョンに入ってすぐ、問題が発生した。


 私がいつも選んでいるルートが、統制の取れていない無数の人影によって埋め尽くされていたのだ。


 ざわめきと、装備の金属が不規則にぶつかる音。


 彼らの装備は、どれも真新しい。


 AAA社製・背抜き強力グリップ手袋。


 私と同じ型番の安全靴。


 先日の大竪穴の一件以来、急激に増殖した、私の模倣者たちだ。


 彼ら一人一人は、私の表面をなぞることで、ある程度の生存確率を手に入れた気でいるに違いない。


 私自身のやり方を文字どおり完璧に再現するのなら、確かにそれは有用だろう。


 だが、私に彼らの流儀が合わないように、彼らに私の流儀が合うとは思えない。


 問題はそれだけではない。


 一つのルートにこれだけの人間が密集すればどうなる?


 剣を振るえば隣の者に当たり、石を投げれば誰かの頭に直撃するだろう。


 ダンジョンという閉鎖空間において、この過密状態はもはや災害に等しい。


「……プランBを実行に移す時が来ましたか」


 できれば来てほしくはなかった。


 私はバックパックを下ろさずに取り出せる位置にしまっている手帳を取り出した。


 ページを捲る。


 保留状態にあった一つのプロジェクト案に、視線を落とす。


 ——対油田エリア攻略案。


 私は足をダンジョンの外へと向け、歩き出した。


 この計画を実行に移すためには、大幅な装備の換装が必要となるからだ。




 数時間後——。


 私はホームセンターの園芸・農業資材コーナーで、重いカートを押していた。


 油田エリア。


 通称、廃棄場と呼ばれる中層の一部は、文字通りタールと揮発油に塗れた極悪な環境だった。


 出現するモンスターも当然、その環境に適応したものたちばかり。


 通常の剣やナイフは粘着性のタールに絡め取られ、役に立たない。


 それを突破するための回答は、すでに私の自宅の浴室で実証済みだった。


 いつか、こんな日が来るかもしれないと、あのエリアから持ち帰った悪臭を放つ泥のサンプルを使い、私は数週間かけて薬剤の反応テストを行ったのである。


 ——重曹。


 発泡はするが、タールの粘度は落ちない。


 ——アルコール。


 揮発が早すぎ、深部まで浸透する前に効果が切れる。


 そうやって、様々な溶剤を掛け合わせた結果、弾き出された最適解は、業務用の強アルカリ溶剤と、界面活性剤を特定比率で配合した混合液だった。


 これなら、あの粘性体を化学的に分解・硬化させることができる。


 私はホームセンターの商品棚から、農薬散布などに使われる背負い式噴霧器をカートに乗せた。


 タンク容量は15リットル。


 それに加え、大容量の業務用洗剤ボトルを数本。


 眼球と呼吸器を守るためのフルフェイス型防護服に、膝下まである長靴。


 そして、物理的に削り落とすための長柄の金属製スクレイパー。


 レジで会計を済ませ、それらをバックパックと噴霧器にパッキングする。


 肩に食い込むベルトの感触。


 総重量は二十五キロを超えている。


「……行軍訓練並みだな」


 私がこれまでこのエリアでの業務を避けていた理由は、単純明快だ。


 洗剤の原価コストが高く、かつ、この重労働を強いられるため、利益率が既存ルートと比べて著しく低いからだ。


 しかし、人災に巻き込まれて命を落とすリスクと天秤にかければ、この物理的負荷と経費の増加は、支払うべき保険料として許容できる。


 私は重い足取りで、再びダンジョンへと向かった。




 中層、油田エリア——。


 その手前で、今回購入してきた装備一式を身につける。


 そこに一歩、足を踏み入れた瞬間、防毒マスクのフィルター越しでもわかるほど、揮発油の刺激臭があった。


 足元は黒いタールでぬかるみ、長靴の底が吸い付くように重い。


 周囲の壁面は油汚れで黒く変色し、発光苔の光さえも呑み込んでいる。


 防護服の中に熱気がこもり、じわりと汗が滲む。


 私は噴霧器のノズルを右手に握り、スクレイパーを左手に構え、慎重に歩を進めた。


 不意に、前方のタールの海の一部が隆起した。


 黒い粘性体が、不定形な波を打ちながらこちらへ這い寄ってくる。


 タール・スライムと呼ばれる、このエリア固有モンスターだ。


 私は後退しながら、噴霧器のレバーを握り込んだ。


 圧縮された空気が混合液を押し出し、霧状の薬品がスライムの表面に降り注ぐ。


 強烈な薬品臭が広がるが、敵は即座には止まらない。


「……浸透までおよそ三十秒、か」


 25キロのタンクの重みが、回避行動のたびに重心を激しく揺さぶる。


 足を取られそうになるのを必死に堪え、スライムの鈍重だが確実な触手の振り下ろしを躱す。


 太ももの筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。


 反応開始まで、さらに十秒。


 時間が異様に長く感じる。


 やがて、強アルカリがタールの成分を分解し、界面活性剤がそれを引き剥がしていく。


 動きが完全に停止した。


 そこへ、私は踏み込んだ。


 左手のスクレイパーを、白く硬化した表面に叩きつける。


 不快な音と手応えとともに、石膏のように崩れ落ちるスライムの装甲。


 数度繰り返すことで、中心部に隠されていた鈍色の核が露出した。


 私はスクレイパーの角で、それを正確に砕いた。


 スライムが完全に崩壊し、後には魔石と、洗剤まみれの残骸だけが残る。


「……一匹処理するのに、通常の三倍のカロリー消費ですか」


 荒い息を吐きながら、私は額の汗を拭った。


 利益率を考えれば、まったく割に合わない労働だ。


 しかし、周囲を見渡せば、私と汚泥の他には何もない。


 他者の無思慮な干渉が一切存在しない、完全な静寂がそこにあった。


 タンクの圧力を再充填し、次の目標を探そうとした時だった。


 背後から足音が近づいてきた。


 振り返ると、真新しい装備に身を包んだ若手探索者が一人、息を切らして立っていた。


「いつものルートに行かないから変だと思ったんだ! 新しい穴場だろ!?」


 どうやら私の跡をつけてきたらしい。


 彼は目の前に現れたタール・スライムに向かって、歓喜の声を上げながら突進した。


 腰から抜き放ったのは、高価な魔剣だ。


「やめなさい。それは——」


 咄嗟に口をついて出てしまった私の警告より早く、彼は剣を振り下ろしていた。


 刃はスライムの体を容易く切り裂いたかに見えた。


 だが、違う。


 タールの強烈な粘着力が、刃を完全に挟み込んだのだ。


「な、なんだこれ!?」


 焦って引き抜こうとするが、タールは彼の魔剣にまとわりつき、離さない。


 さらに悪いことに、タールに含まれる強酸成分が、魔剣のコーティングを浸食し始めた。


 紫色の不吉な煙が上がり、剣の表面からシューシューと泡が立つ。


「俺の魔剣が、と、溶けてる……!?」


 彼はパニックになり、魔剣から手を離して後ずさった。


 その弾みでタールに足を取られ、無様に転倒する。


 タール・スライムが彼に襲いかかる——その前に、私は溶液を吹きかける。


 私を脅威と認識し、襲いかかってくるが、先ほどと同様に何とかしのいで、処理することができた。


 呆けたように私を見る彼を見下ろした。


 彼は私の異様な風体——防毒マスクと全身を覆う防護服、そして背中の巨大なタンクに呆然としていた。


「な、なんだよ、その装備……あんた、なんでそんな重そうなものを……」


「これがないとここでは仕事になりませんから」


 ここは、彼らが夢見るような、楽して稼げる裏技の狩場ではない。


 事前の研究と、高い経費と、泥臭い重労働を支払って、初めてわずかな利益が出る。


 誰もやりたがらないからこそ放置されている、きつい、汚い、危険な現場なのだ。


 私がスクレイパーで固まったタールを削り落とす作業を再開するのを見て、彼は悟ったのだろう。


 自分には到底真似できない世界だと。


 彼は溶けゆく魔剣を諦め、無言のまま、這うようにして来た道を帰っていった。


 その後姿を、私はため息で見送った。




 地上に戻った頃、日は完全に落ちていた。


 探索者協会の裏手で、私は背中のタンクを下ろした。


 防護服を脱ぐと、全身が汗で濡れ鼠になっていた。


 換金カウンターへ向かう足取りは重い。


 トレーに乗せた魔石の量は、普段の探索とほぼ同じだった。


 頭の中で帳簿を合わせる。


 洗剤の原価、防護服の償却費、消耗した体力を回復するための湿布代と食費。


 それらを差し引けば、今日の利益は赤字ギリギリの黒字、といったところだ。


「……採算分岐点スレスレですね」


 小さく息を吐き出した時だった。


「……廃棄場か」


 背後から、低く、重みのある声した。


 振り返れば、そこにはベテラン探索者である黒木氏が立っていた。


 なぜわかったのか。


 おそらく、私から微かに漂う特有の臭いを、鋭い嗅覚で捉えたのだろう。


「本日は既存ルートの人口密度が高すぎたため、代替ルート(プランB)を使用しました」


 黒木氏は私の目を真っ直ぐに見据えた。


「あそこは採算が合わん。武器も通らんはずだ」


「ですから、物理攻撃ではなく、溶剤による化学的分解と剥離作業を行いました。事前検証に時間はかかりましたが、競合がいない分、外部要因による事故リスクはゼロです」


 彼はしばらく無言で私を見つめていたかと思うと、口元を僅かに緩ませて言った。


「他人の真似事で群れるだけの連中とは、覚悟の土台が違うようだな。……自らの手で独自のルートを切り拓く、か」


「私は、私が生きていくために必要な業務を行っているだけです」


「それができる者ばかりなら、深層はとっくに攻略されている」


 最後に彼ははっきりそうだとわかる笑い声を残して、夜の喧騒へと消えていった。


 私は手の中の明細を見る。


 決して、楽園ではない。


 利益率も悪い。


 しかし、誰もやりたがらない重労働とコストを負担するからこそ、そこは私だけの確実な居場所になる。


「帰ろう」


 明日の業務に備えなければ。


「今日は角煮にするか」


 疲労した筋肉には、ビタミンB群の補給が必須だ。


 私は重い足を引きずりながらも、確かな足取りで夕食の買い出しへと向かった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


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皆様の応援のおかげです。

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頑張って執筆いたしますので

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【書籍版 異世界に召喚されなかったから、現実世界にダンジョンを作ってやりたい放題 / ガガガブックス】
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1巻 こちらから
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