第2話:リスクヘッジと初任給
ダンジョン探索者協会のロビーに足を踏み入れると、熱を孕んだ喧噪が鼓膜を叩いた。
一攫千金を叫ぶ若者たちの声、血の匂いを漂わせた荒くれ者たちの笑い声。
そこにあるのは、かつての満員電車で感じたそれとは質の違う、剥き出しの生存本能だった。
「……大丈夫」
喉が渇き、心臓の鼓動が早まる。
握りしめた手の中は汗だくだった。
恐怖? もちろんある。
だが、決めたのだ。
私が私として生きていくために。
あの冷え切ったリビングで誰かの顔色を窺い、擦り切れるまで自分を切り売りする日々に戻るという選択肢は『私』の世界には存在しないのだから。
私は深く息を吐き出して、気持ちを切り替える。
足を一歩、前へ進める。
手を止め、立ち止まってしまうから、動けなくなることを、私は知っている。
だから。
受付に向かうと、そこには理知的な眼差しの中年男性が座っていた。
かつての『私』と同じくらいだろうか。
名札には『権藤』とあった。
私の前で手続きをしていた若者は、どれだけ稼げるか、どの武器が格好いいかを捲し立てていたが、私の番が来ると、彼は事務的な表情で私を見た。
「登録に来ました。それと、いくつか確認させていただきたいことがあります」
私はメモ帳を取り出した。
新しいプロジェクトに参画する際に最初に行うこと、それは現状の把握とリスクの洗い出しだ。
「死亡事故の多いエリアの傾向と、初心者向けエリアの最新の地図を。それから、万が一の際の救難信号の出し方、および有効範囲を教えてください」
登録を進めようとしていた彼の手が止まった。
周囲の若者たちが「臆病が探索者なんかするんじゃねえよ」と鼻で笑うのが聞こえたが、気にはならない。
私にとって、ここで『働く』ことは、彼らのような夢見がちな理由などではないからだ。
何も持たない私ができる、生きていく方法だから。
無理せず続けていくために、契約内容を熟読せず現場に立つような真似は、社会人として、何より一人の人間としてあり得ない判断だった。
「……ほう」
と彼は吐息を漏らし、私を見る。
「……何か?」
「名前を聞いてもいいかな。登録に必要なんだ」
「ああ、それもそうですね。本み——いえ、静河です」
それしか告げない私に、彼は深く踏み込んでは来なかった。
探索者を志す人の中には、ワケアリの者もいる。
そういうことだろう。
「静河さん。では、こちらが資料だ」
そう言って分厚い取扱説明書のようなものを差し出す彼の声が、わずかに柔らかくなっていたような気がした。
装備品店での買い物は、苦渋の決断の連続だった。
静河くんが遺した僅かな資金のみで、私の手持ちの予算は限られている。
店内に並ぶ鋭い剣や立派な鎧は、私には分不相応な高級車のように見えた。
最終的に私が手に取ったのは、頑丈なナイフ、厚手の手袋、予備の光源、傷薬。
そして、最も予算を割いたのは『靴』だった。
「……高い。しかし、ここでケチるわけにはいかない」
かつて『私』が現場に出た時、足元の不安定さが致命的なミスに繋がった。
ダンジョンという未知の環境で、滑る、あるいは足を痛めるというリスクは、何としても排除しなければならない。
すべては生きていくため。
装備品店を出て、空腹を覚えた私はその隣にあった売店に立ち寄った。
棚に並ぶツナマヨのおにぎりと、一番安い塩むすびを見比べる。
一瞬、指がツナマヨに伸びかけたが、私は塩むすびを手に取った。
「……まずは実績を作ること。それからだ」
塩むすびは冷たく、固く、味がついているはずなのに、よくわからなかった。
ダンジョンの入り口は、街の境界にひっそりと口を開けていた。
「…………」
私は中へ足を踏み入れる。
カビと湿り気が混ざった独特の匂いがする。
足を踏み出すごとに、靴の滑り止めが地面を噛む感触が伝わってくる。
準備はした。
資料も読んだ。
だから大丈夫——とはならないのが世の中であることを『私』は知っている。
暗闇からガサリと音がするだけで、背筋に冷たいものが走る。
そしてついに、曲がり角の先にそれはいた。
小さな、醜悪な緑色の生き物。
ゴブリンだ。
心臓が早鐘を打つ。
逃げ出したいという衝動を、奥歯を噛み締めて抑え込む。
大丈夫だ、落ち着け。
「……これは不測の事態じゃない」
マニュアルに記載されていた『想定内』だ。
やるべきことは、すでに決めてある。
私は拾った石を遠くへ投げ、音を立てる。
ゴブリンがそちらを向いた瞬間、音を殺してその背後に回った。
必死だった。
資料にあった急所を狙って得物を突き立てた。
「はぁ、はぁ……っ!」
崩れ落ちたゴブリンを見下ろし、私はその場に膝をついた。
初めての勝利に酔いしれる真似など、できなかった。
ただ、「もう一度死ななかった」という安堵だけが、肺の奥から震えとなって溢れ出した。
倒したゴブリンは淡い光を放ち、消滅する。
そうしてそこには小さな石——魔石と呼ばれるものだけが残った。
震える手で、私はその小さな魔石を拾い上げた。
「……私の、成果だ」
血とカビ臭い空気の中、『私』は不器用に、しかし私になって初めて笑った。
探索者協会にある換金所へ行くと、そこには権藤さんがいた。
彼は私の持ち帰った魔石と、無傷である私の姿を見て、小さく頷いた。
「静河さん。堅実だね、あなたは。しかし、それが一番大切なことだと思っているよ」
「……ありがとうございます」
私は頭を下げた。
手渡された代金は、探索者になって成り上がろうとする者たちが稼ぐ額には遠く及ばないものだった。
探索者協会直営の宿舎、その一つに入り、私はベッドに腰掛けると、手にしていたビニール袋から、それを取り出した。
私が今日得た金で購入した、ツナマヨのおにぎりと、温かいお茶。
「……おいしい」
喉を通る温かさが、冷え切っていた私の内側を、じわじわと解かしていく。
窓の外に見える夜空には、冷たくも美しい星が光っている。
明日もまた、目が覚めたら「出勤」しよう。
自分の生き方を、自分の力で守り続けるために。
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