第17話:欠落した工程
探索者協会のロビーは、朝の通勤ラッシュにも似た熱気に包まれていた。
私はいつものベンチに腰を下ろし、出発前の最終確認を行う。
AAA社製・背抜き強力グリップ手袋。
指先の感覚を阻害せず、かつ強固な保護性能を持つ、私の業務における必須のツールだ。
「装着感、よし」
次に、足元。
私は靴紐に指をかけ、そのテンションを確認する。
採用しているのは『イアン・ノット』。
数秒で結べ、強力な負荷がかかっても解けず、それでいて解こうと意図した時だけは一瞬で解ける結び方だ。
端末処理も完璧に行われていることを目視し、私は小さく頷いた。
「全条件、規定値内」
その時、すぐ近くから、
「ほら、見てくれよ、俺たちの装備。あの『静河さん』と同じだぜ!」
「これで俺たちも生存率爆上がり間違いなしだな!」
そんな浮ついた声が聞こえてきた。
視線を向ければ、そこには真新しい装備に身を包んだ、若い探索者のパーティーがいた。
彼らが身につけているのは、私が愛用しているものと同じメーカーの手袋であり、同じ型番の安全靴だった。
先日、用品店で在庫不足に見舞われた原因が彼らのような若い探索者たちだ。
ネット上の掲示板などで、私の装備リストが出回っているらしい。
彼らは私の装備を完全にコピーしていた。
だが、
「不適合だ」
私の視線は、彼らの足元に向けられていた。
確かに私と同じ安全靴だ。ただし新品だが。
しかし、問題はその靴紐の結び方にあった。
ただの蝶結びだったのだ。
しかも、締め込みが甘い。
あれでは、不整地を歩行中、木の根や瓦礫に引っかかれば、容易に解けてしまうだろう。
さらに言えば、腰に下げたランタンや水筒も、固定が不十分で、歩くたびに接触音を立てていた。
音に敏感なモンスターに気づかれる可能性が高い。
同じハードウェアは導入しても、それを運用するためのマニュアルをインストールしていない。
典型的な『形だけの模倣』——いや、この場合、デッドコピーと呼ぶべきかもしれない。
……指摘する?
面識がない私の口出しは、余計なお世話だと反発を招くことは間違いない。
つまり、余計なリスクを背負うことに繋がる。
探索者は自己責任でダンジョンに赴く。
そのための同意書にもサインしている。
「私は私の業務を行うことに専念するべきだ」
しかし、すぐに問題が発生した。
その彼らが向かおうとしている方角が、私と同じだったのだ。
見れば、彼が手にしている地図、そこに記されたルートが、普段、私が使用している安定収益ルートと重複していた。
「……市場の飽和か」
彼らのような運用意識の低い探索者が同じルートに流入すれば、巻き込まれ事故のリスクが跳ね上がる。
それに、狩場が荒らされれば、期待収益も下がる。
私は手帳を取り出し、本日の業務プランを変更した。
『プランB:新規ルートの試験運用』。
以前から机上調査だけは済ませていた、中層の未踏破エリアへ向かおう。
リスク分散のために、新たな収益源を確保しておく必要がある。
私は彼らとは異なるゲートへと向かった。
ダンジョンの中層、第4エリア。
足を踏み入れた瞬間、鼓膜に違和感を覚えた。
音が、響かない。
自分の足音が、地面に吸い込まれていくような感覚。
素早く周囲に視線を巡らせる。
「……なるほど」
どうやら、壁や天井を覆う分厚い苔のせいらしい。
「確か、吸音苔だったか」
事前の資料で存在は知っていたが、実地での感覚は私が想定していた以上のものだった。
音を吸収する性質を持つこの苔が繁茂するエリアは、聴覚による索敵を無効化する。
それは、モンスターにしてみれば、獲物を油断させ、不用意に近づかせるための天然の狩り場であることを意味していた。
私は歩みを緩めない。
私は、いつ、どんな不測の事態が発生してもいいように、普段から対策を徹底している。
そのせいで未だに『臆病者』や『ビビリ』と呼ばれたりしているが、構わない。
私は私が生きていくためなら、手間も時間も惜しむつもりはない。
今回のような事態も、当然、想定済みである。
私の装備にあるすべての金具には、フェルト布やビニールテープがあらかじめ巻かれており、接触音を物理的にミュートしている。
バックパックの中身もタオルで充填され、走っても音が鳴らないようにパッキング済みだ。
だが、
「……どうやら今日は厄日らしい」
問題ばかり起こるようだ。
背後から近づいてくる音があったのだ。
静寂の中では耳障りな金属音。
見れば、あの模倣者たちがこちらに向かってきていた。
音が聞こえてくるのは、まだ吸音苔の範囲に入っていないためだろう。
それにしても、なぜここに?
私のルート変更を見て後をつけてきたのか、それとも。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
彼らがエリアに入ってきた。
自分たちが立てている騒音に気づいていないのか——いや、気づいていても気にしていないのだろう。
「……音響迷彩の不備。巻き込まれ事故の懸念あり」
私は舌打ちしたい気持ちを堪え、彼らとの距離をさらに空けようと足を速めた。
その時だった。
「おっと」
背後で、誰かが体勢を崩し、足が滑る音がした。
おそらく、あの甘い結び目の靴紐がほどけ、それを自らの足で踏んでしまったのだろう。
そして転倒した拍子に、腰のランタンが岩壁に激突した。
吸音苔の許容範囲を超えた、甲高い金属音が、静寂を切り裂くように響き渡る。
私は反射的に上を見た。
天井を覆っていた暗闇が、波打つように動いた。
黒い雨のような何かが、一斉に剥がれ落ちてくる。
共鳴蝙蝠。
視覚が退化し、苔が吸収しきれない特定の周波数、たとえばそれは金属音や悲鳴に反応して群れで襲いかかる捕食モンスターだ。
「う、うわぁぁぁッ!?」
「な、なんだこれ!? どこから来た!?」
パニックになった彼らが悲鳴を上げ、剣を抜く。
それらが連鎖的なトリガー音となって、エリア全体が阿鼻叫喚の渦に飲み込まれていく。
彼らの位置は、私からわずか数十メートル後方。
蝙蝠の群れは、音源である彼らに殺到しているが、この距離では私も巻き込まれるだろう。
……走るか?
いや、走れば足音によって、私が次の標的になるのは決定事項だ。
なら、どうする?
決まっている。
音を立てずに、この状況をやり過ごすのだ。
私は近くにあった岩壁のくぼみに、体を滑り込ませた。
そして、腰のポーチからあるものを取り出した。
スプレー缶だ。
ただし、武器ではない。
かつての『私』が、建設現場で目にした資材。
発泡ウレタン充填剤。
本来は岩盤の亀裂を埋めたり、止水に使ったりするための土木資材だ。
私は迷わず、自分と外界の隙間に向けて、ノズルを押し込んだ。
噴出音を伴い、白い塊が内側から湧き出すように膨れ上がる。
それは瞬時に硬化し、私を外界から遮断する即席の壁となった。
音も、匂いも遮断されたウレタンの繭の中で、私は息を殺す。
外では、金属音と悲鳴、そして無数の羽音が暴れまわっている。
すぐ目の前を、何かが通り過ぎる気配がする。
どれくらい経過しただろうか。
悲鳴は遠ざかり、羽音も消えた。
それからさらに数分待って、完全に静寂が戻ったことを確認してから、私はナイフでウレタンの壁を切り裂いた。
白い塊が崩れ落ちる。
私はゆっくりと起き上がり、ウレタンまみれになった装備を払い落とした。
「……汚れが落ちにくい」
袖口に付着した粘着質の泡を見て、私は顔をしかめる。
「次はシリコンスプレーを塗布してから使うべきか」
そんな業務改善案を、取り出した手帳に、
『エリアB-4、騒音基準値超過により生態系活性化。当面の立ち入りを凍結とする』
という一文とともに記録した。
地上に戻り、私が協会のロビーに足を踏み入れると、朝の活気は嘘のように引いていた。
代わりに、重苦しい沈黙があった。
ソファには、ボロボロになったあの模倣者たちが座り込んでいた。
全身を噛まれ、装備は見る影もない。
「同じ装備だったのに! あいつと同じタイミングで入ったのに! なんで俺たちだけ……!」
悲痛な訴えが、静まり返ったロビーに虚しく反響する。
私は彼らの視界に入らないよう、ロビーの隅へと移動した。
そこで、ウレタンで汚れた靴や金具の手入れを始める。
「同じ装備? 笑わせるな」
低い、しかしよく通る声がロビーに響いた。
模倣者たちの前に立ったのは、大剣を背負った赤髪の男——坂垣颯真くんだった。
彼は以前、私とともにダンジョンに潜り、私のやり方を目の当たりにしている数少ない探索者だ。
「さ、坂垣さん……でも、俺たち、本当にあいつと同じ靴も手袋も揃えて……」
「形だけ真似て、中身がスッカスカなんだよ」
颯真くんは、呆れたようにため息をつき、顎で私の方をしゃくった。
「見ろよ。あいつを」
模倣者たちの視線が私に集まる。
「……誰?」
と呟いているのは、私が彼らが今朝、口にしていた『静河くん』であることを知らないという証拠だった。
「……お前ら、何も知らないで、ただ『静河くん』と同じだって言ってたのかよ!」
颯真くんの呆れたような声。
「あいつが静河だ。で、見ろ、あいつの足元を。あいつの靴紐はイアン・ノット——絶対にほどけねえ結び方をしてる。で、お前らはどうだ? ただの甘っちょろい蝶結びじゃねえか。根本的に違えんだよ」
「く、靴紐……?」
「それだけじゃねえ。あいつは金具の一つ一つにフェルトを巻いて音を消してる。お前ら、歩くたびにガチャガチャ鳴らしてただろ? ただでさえダンジョン内ではできるだけ物音を立てないのが正解だ。しかも、あのエリアではそれが致命傷になるってことは、少し調べりゃわかるはずだ」
颯真くんの言葉に、彼らは絶句する。
「他の奴らが静河を臆病者だ、ビビリだって言うけどな。違う。あいつは臆病なんじゃねえ」
颯真くんは私を一瞥し、ニヤリと笑った。
「生き残るための準備を、全部やってるだけだ。お前らみたいに、道具だけ揃えて満足してる連中とは、覚悟の桁が違うんだよ」
颯真くんの言葉は、私の行動の本質を的確に射抜いていた。
模倣者たちは、顔を真っ赤にして俯く。
自分たちが何を欠落させていたのか、ようやく理解したようだった。
私はこびりついたウレタンを爪で弾き飛ばした。
「……やはり、専用のリムーバーも買っておくべきだったか」
颯真くんの弁護はありがたいが、私にとっては、明日の業務をより円滑にするための対策の方が、今は重要だった。
作業を終え、立ち上がると、颯真くんがこちらに歩み寄ってきた。
「よう、静河。災難だったな」
「いえ、想定の範囲内です。……助かりました」
私が礼を言うと、彼は「別にいいさ」と手を振り、それから何かを思い出したように言った。
「そういや静河、俺たち、まだ一緒にメシ食ったことなかったよな」
「……食事、ですか」
「どうだ、このあと」
唐突な提案に、私は少し考え込む。
外食はコストがかかる。
それに、今日の夕食の献立はすでに決まっていた。
「お誘いはありがたいですが、私は自炊派ですので」
「自炊? お前がか?」
颯真くんが目を丸くする。
「ええ。コストパフォーマンスと栄養管理の観点から、それが最適解ですから」
「へえ……意外だが、なんか納得したわ」
彼は楽しそうに笑うと、私の肩を軽く叩いた。
「なら、それを食わせてくれよ。栄養管理の最適解とやら、興味あるね」
一瞬、思考が停止した。
宿舎に招く? 彼を?
「……普通の、男の手料理ですよ。期待されるようなものではありません」
やんわりと固辞する。
だが、颯真くんは引かなかった。
「普通のメシでいいんだよ。俺は今、猛烈に腹が減ってるんだ」
彼の瞳に、悪気はない。
ただ純粋な好奇心と、そしておそらく、先ほどの模倣者たちの一件でささくれ立った空気を、共有することで払拭したいという、彼なりの不器用な気遣いが見えた。
今日、彼は私のやり方を擁護してくれた。
その対価として、夕食一食分を提供する。
計算上、割に合わない取引ではない。
それに、不思議と嫌な気分ではなかった。
私は小さく息を吐いた。
「……材料費は請求しませんが、味の保証もしませんよ」
「おっ、決まりだな! じゃあ行こうぜ!」
予定外のスケジュール変更。
イレギュラーな来客対応。
しかし、たまにはそんな『残業』も悪くないかもしれない。
私は苦笑しながら、彼とともに、重苦しい沈黙が支配するロビーを後にした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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