第12話:喪失の証明と、不在への献杯
その日、私はダンジョンの探索を休んだ。
理由は、先日のダンジョンでの一件が、私自身に決して少なくないストレスを与えていると自覚できたからだ。
だから、ダンジョンを探索している時にはできないことをしようと、私はホームセンターにやってきた。
「……失敗したかもしれない」
今日が週末であることをすっかり失念していた。
探索者として過ごすようになって、すっかり曜日の概念が自分の中から欠落していたことを気付かされる。
家族連れで賑わう店内を、
「……どの世界でも同じだな」
目を細めて私は眺める。
小さく息を吐き、カートを押して、目的の業務用洗剤のコーナーに向かう。
ここには何度か来たことがあるので、迷うことなくたどり着くことができた。
「これだ」
手に取ったのは、作業服専用の強力な洗剤。
ダンジョン特有の泥汚れや、モンスターの体液によるシミは、家庭用の洗剤では落ちにくい。
なので、作業服専用の強力な洗剤。
当然、価格は高くつく。
しかし、装備を清潔に保つことで得られる精神衛生上の必要経費だと考えれば、むしろ安いほうだろう。
次に向かったのは、保存容器のコーナーだった。
厚手のチャック付きポリ袋をサイズ違いで数箱選ぶ。
魔石の分類、ダンジョンで採取した素材の保管、そして緊急時の防水パックとして。
これらは消耗品だが、現場での整理整頓を円滑にするためには欠かせない。
「よし、在庫の補充はこれで完了だ」
会計を済ませた私は、スーパーへと移動する。
今日の夕食は、少し奮発してステーキにしようと決めていた。
精肉売り場で、赤身と脂身のバランスが良い厚切りの肉を吟味する。
だが、それだけではない。
調味料の棚へ移動し、岩塩と、少し良い黒胡椒、そして生わさびを手に取る。
「肉の味を引き立てるには、脇役への投資も惜しむべきではない」
自分で焼き、自分で味付けし、自分のタイミングで食べる。
そのプロセスこそが、明日を生き抜くための活力を生む。
ささやかだが確実な贅沢だ。
まだ食べてもいないのに、すでに口の中がステーキの味になっていたところで、
「あ、静河! ちょうどよかった!」
鼓膜を刺激する、甲高い声。
条件反射的に、胃が引き攣るような感覚に襲われる。
振り返れば、そこには静河くんの幼馴染——今仲麗美が立っていた。
彼女は当然のように私の目の前に自身のショッピングバッグを突き出した。
「これ持って! 重くて手が痛くなっちゃったの!」
流れるような動作と疑いのない眼差し。
彼女の態度は、私がそれを拒否するという選択肢など、微塵も存在していないかのようだった。
しかし、『私』にはそうする理由がない。
だから、私は動かない。
ただ、彼女を見るだけ。
彼女の瞳に、焦りの色が滲む。
「あ、ご、ごめん。ごめんなさい。これは違うの、今のは癖で……」
バッグを引っ込める彼女の顔には、ただ焦りだけがあり、かつて静河くんに向けていたような傲慢さはどこにもなかった。
私は静かに告げた。
「気にしないでください。長い付き合いでしたから」
彼女が目を丸くする。
「怒って……ないの?」
上目遣い。
かつて静河くんが最も弱かった角度だ。
彼女は探っている。
私がまだ、彼女に対して感情を——怒りであれ、未練であれ——持っているのではないかと。
「怒る? なぜ?」
「な、なぜって、だってわたしと静河は——」
「私と君の間に、怒りを抱くような関係は、最初から存在していませんから」
「え?」
「言ったはずです。静河くんは、もうこの世のどこにもいないのだから、と」
「それは……でも、え、待って、どういう、こと?」
彼女が狼狽し、一歩踏み出そうとした時だった。
手が滑ったのか、彼女が抱えていたバッグが手から離れた。
重力に従い、落下。
中身が地面に散らばった。
化粧ポーチ、パスケース、ハンカチ、スマートフォン。
「あ……」
彼女が立ち尽くす中、私はしゃがみ込んで、散らばった小物を拾い集める。
ハンカチについた埃を払い、ポーチのジッパーが閉まっていることを確認。
「よかったですね。スマートフォンは無事みたいです」
立ち上がり、私は、
「どうぞ」
と彼女に差し出す。
だが、彼女は受け取ろうとしない。
ただ、私を見つめるだけ。
「……し、静河……」
彼女は気づいたのだ。今の私の行動が、静河くんではあり得ないことに。
静河くんなら——。
「麗美、大丈夫!?」
と慌てふためいて、
「ごめん、ごめんね……!」
自分のせいでもないのに謝って。
しかし、『私』にはそうする理由がない。
『私』は静河くんではないから。
「では、私はこれで」
私は少し強引だと思ったが、彼女にバッグを握らせ、
「お元気で、今仲さん」
軽く会釈をし、踵を返す。
「……っ」
背後で、彼女が息を呑んだ気配がした。
「しず、静河ぁ……!」
彼女が彼を呼び止める。
だが、私は足を止めない。
ただ、もうどうすることもできないやるせなさを吐き出した。
「もっと」
それは口にするだけで苦く、
「もっと早く気がついていれば」
私は顔をしかめる。
「君にとっても、静河くんにとっても、最悪の決別にならずに済んだのに」
もう、遅すぎたのだ。
何もかも。
探索者協会直営の宿舎に帰宅した。
共有キッチンではなく、自室に備え付けられた狭い簡易キッチンでフライパンを熱する。
買ってきたステーキ肉を焼き、皿に盛る。
焼き加減はミディアムレア。
生わさびを添え、岩塩を振る。
ストレスの軽減を図るための休日だったわけだが、思わぬ出会いに静河くんの身体がざわついてしまった。
ただし、『私』の心はといえば、乱れてはいない。
ただ、今もやるせなさを感じているだけで。
「静河くん、君が人生をかけた相手は、君がいなくなってようやく君のことを思い出したみたいだよ」
もうどこにもいない彼に語りかける。
「本当に遅すぎたね」
購入しておいたノンアルコールビールを開け、虚空に掲げる。
静かな献杯。
一口口に含めば、いつもより苦く感じられた。
「さて、感傷に浸るのはここまでにしよう」
ここからは『私』のために時間を使おう。
肉を切り、口に運ぶ。
肉の旨味と、わさびの爽やかな辛味が広がる。
「うまい」
明日からまた、ダンジョンという職場へ向かう日々が始まる。
私は食事を終えると、装備品のメンテナンスを始めるために、道具箱を手に取った。
ナイフの刃こぼれ。
ポーションの残量チェック。
私が私として生きていくためにやるべきことは、いくらでもあった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
このエピソードで、第一部完結です。
明日から第二部が始まりますますが、
その前に、もし少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけたら、
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