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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第11話:境界線の向こう側と、反射的な手のひら

いつもありがとうございます。

本日ももう1話、18:50に更新します。

楽しんでいただけましたら幸いです。


 朝の探索者協会本部。


 私がロビーに足を踏み入れた時、いつもとは違う、冷たく、張り詰めた空気が漂っていた。


「これは……」


 と、呟いた時、近寄ってくる人影があった。


「よう、静河」


 颯真くんである。


 彼は私の困惑を察し、


「あれだよ」


 顎でしゃくった先には掲示板があり、そこには真新しい張り紙があった。


『探索者活動における自己責任の徹底と、救助活動に関する免責事項について』


「権藤さんが取りまとめたらしい」


 その言葉で、私は察した。


 先日の私に対する理不尽な訴訟騒ぎを、権藤さんが重く受け止めたのだろう。


 だが、私個人に対するものというよりは、組織防衛のための迅速な措置と考えるべきだろう。


 私も掲示板に近寄り、その中身を読む。


『探索者は、他者への救助義務は負わない』


『救助者の善意による行動の結果について、救助者は免責される』


 周囲にいた探索者たちからは「世知辛い」「見殺しにしろってことか」と不満の声が漏れるのが聞こえる。


 しかし、私にとってその書面は、冷徹な突き放しなどではなかった。


 かつての『私』が属していた組織で、曖昧な指示によって無限に膨れ上がった責任範囲が、どれほど多くの同僚を潰してきたか。


 できないことはできないと明文化すること。


 それは冷淡さではなく、互いに無理なく生きていくための安全装置にほかならない。


 同意書にサインするのをためらう探索者が一定数いる中、私はカウンターに赴くと、同意書を係員から受け取り、サインする。


 その隣では、颯真くんもまた、迷いなくサインをしていた。


「自分の命は自分で守る、か。当たり前のことなんだが……まあ、あんなことがあれば、な」


 どうやら颯真くんも、私の一件を知っているらしい。


 あの一件以来、何度か顔を合わせていたというのに。


 ……気を使われているんでしょうね。


 しかし、その気遣いは、不快なものではなかった。


「確かに、当たり前のことになってしまいました。ですが、その方が動きやすいのもまた事実です」


 颯真くんは厳しい顔で頷いた。


「またな、静河」


「ええ、また」


 その短い挨拶は、今日という日を生き延びて、再び会おうという、探索者同士の静かな約束だった。


 颯真くんがダンジョンに向かう。


 私はいつものルーティンをこなす。


「……全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 バックパックを背負い直すと、ダンジョンへと向かった。




 ダンジョンの中層エリア。


 私は慎重に歩を進めていた。


 罠の有無、モンスターの気配。


 昨日まで大丈夫だったから、今日も大丈夫。


 ダンジョンはそんな思い込みが通用する、甘い世界ではない。


 英雄に憧れた者が、油断した瞬間、物言わぬ遺骸になってしまう——そんな世界なのだ。


「……大丈夫」


 安全確認を終え、歩みを再開しようとした時、前方から荒々しい足音と、高揚した話し声が聞こえてくる。


 私は反射的に物陰に身を隠し、息を潜めた。


 現れたのは、先日私を訴えようとした少年と少女のパーティーと、その父親らしき人物だった。


「あんな臆病者に負けてたまるか!」


「いいか、お前ら! 俺たちがついている! だから大丈夫だ!」


 彼らは装備こそ高価な新品だが、足運びは素人で、隊列もバラバラ。


 そして、そんな彼らが向かおうとしているのは、今の彼らの実力では死亡率が跳ね上がる危険エリア。


 私の胸に、言葉にならないノイズが走る。


 声を掛けるか、引き止めるか。


 喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。


 脳裏をよぎるのは、先日の罵声と訴訟という単語。


 もし今、彼らの前に出て止めれば、「邪魔をした」と逆上されるリスクがある。


 最悪の場合、こちらが危険に巻き込まれる。


「……無理だ」


 私は英雄ではない。


 ただ、明日も生きていたいだけの人間だ。


 自分を害そうとする者たちの未来まで背負う余力は、私にはない。


 私は彼らが角を曲がり、暗がりへと消えていくのを、無言で見送ることしかできなかった。




 夕刻。


 予定していた探索を終え、地上への帰路についていた時だった。


 悲鳴だ。


 あの方角。


 あの声。


「……無視すべきだ」


 関わればまた、責任を問われる。


 大丈夫、同意書という盾もある。


 法的には何の問題もない。


 完璧なリスク管理だ。


 ——だというのに。


 気がつけば、私の身体は私の思考を無視して、駆け出していた。


 現場に到着した瞬間、目に飛び込んできたのは、モンスターに追い詰められた少年の姿だった。


「た、たす、けて……!」


 差し出された手。


 恐怖に染まった瞳。


 ただ「生きたい」と願う、純粋な命の叫び。


 私はこれまでの経緯を忘れ、彼に手を伸ばした。


「掴まれッ!」


 指先が触れそうになった、その刹那。


 モンスターの爪が、少年を弾き飛ばした。


 生々しい音。


 2つになって崩れ落ちる身体。


 駄目だった。


 届かなかった。


 だが、今は悔いている場合ではなかった。


 次の標的を私に変えたモンスターが襲いかかってきたからだ。


 体は疲れ切っている。


 それでも、ここを乗り切らなければ、私も死ぬ。


 彼のように。


 慎重に、時に大胆に。


 これまで積み重ねてきた攻略方法でモンスターを追い詰めていく。




 私はモンスターが消滅したあとに残される魔石を取ることも忘れ、少年の亡骸のそばで立ち尽くした。


 助けようとした。


 だが、ダメだった。


 その事実は、私の心に深く、冷たい杭を打ち込んだ。




 協会に戻り、換金の手続きをする。


 職員に目撃した事実を報告する声は、自分でも驚くほど低く、微かにだが震えていた。


 職員は私の様子を察し、何も聞かずにただ頷いた。




 翌朝。


 私が協会のロビーにやってくると、端の方にある電光掲示板の『本日の未帰還者リスト』に、昨日まではなかった名前が追加されていた。


 あの少年たちと、その父親たちの名前だ。


 そして、ロビーの床に崩れ落ち、泣き叫ぶ女性がいた。


 あの日、私に訴訟をチラつかせた少年たちの母親たちだ。


「嘘よ! 嘘だと言って!」


「どうして誰も助けてくれなかったの!」


 気まずそうに顔を逸らす者、自分は関係ないと無視する者——探索者たちにすがる彼女たちが、私の存在に気がつく。


「ねえ、あなた! ねえ! どうして助けてくれなかったの!? 何の恨みがあるの!?」


 咄嗟に何か言おうとした。


 だが、何を?


 固まる私の前に、協会の職員が壁のように立ち、彼女たちに告げる。


「探索は自己責任です。入場の際、彼ら自身もそれに同意し、署名しています。ですので、探索者に対して自分勝手な発言はやめてください」


 自らがサインした一枚の同意書。


 それが母親たちの感情的な叫びを弾き返していく。


 私はその場を後にする。


「ざまぁみろ」


 そんなふうには微塵も思わなかった。


 ただ、胸の奥に、割り切れない何かが渦巻いていた。


 彼らはリスク管理を怠り、感情のままに行動し、その結果として退場させられた。


 ダンジョンへ向かう道すがら、私は自問する。


 なぜ私はあの時、少年に手を伸ばした?


 関わらないと決めたはずなのに。


 彼らはリスクであり、自分を害する存在だったのに。


 いくら考えても、合理的な答えは出てこなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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