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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第104話:戻ってきた平穏と、試行錯誤の味



「次の方」


 そう言われて保安検査の列を進めば、そこに立っていたのは、私にあらぬ疑いを抱き続ける南塚原ではなく、彼を厳しく叱責した、あの職員だった。


 私は彼がいないことに安堵すると同時に、なぜという疑問を抱きながらも、それよりも保安検査を受けるため、バックパックを下ろして所定のトレイに乗せ、提出すべき成分データの書類を差し出した。


 彼は書類を受け取り、手際よく荷物と照合していく。


 南塚原に見られたような悪意や偏見は感じられない。


 保安職員のすべてが、彼のようではないということなのか。


 確認を終え、彼は私に許可証を渡してきた。


「……昨日は、当方の職員が不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」


 彼は周囲に目があることなど気にせず、頭を下げた。


「彼の行動は、彼の独断に基づいて行われたものであり、保安職員すべてが彼と考えを同じにしているわけではありません。また、彼には、自らの行いの何が間違っていたのかを深く省み、心から反省するまでこの場には決して立たせないよう指示を出していますので、その、……当分、彼があなたを煩わせることはありません」


 当分、と彼は言った。


 現在は反省していないし、そして、当分の間、反省する様子が見られないということだろう。


 あれだけ思い込みが激しいのだから、理解できる。


 私は受け取った許可証をポケットに収め、


「……お気遣い、ありがとうございます」


 そう告げれば、頭を上げた彼は心苦しそうに顔を歪めて、


「……いえ、落ち度はこちら側にありますから」


 と告げた。


 真に謝るべきは彼ではないというのに。


 何にしても、これでしばらく、南塚原と接することで生じるストレスを感じなくて済むということだ。


 変容し続けるダンジョンを警戒するに当たって、対人折衝に無駄に神経をすり減らさずに済むことは、素直にありがたいことだった。


 私は保安職員に会釈をし、ゲートを通り抜けた。




 ダンジョンへと続くスロープを下りながら、本日の業務計画を脳内で再確認する。


 変容が続く現在、固定したエリアで業務を継続し続けることで、問題が生じる可能性を排除できない。


 固定金具やワイヤーに生じた問題がそれだ。


 そのため、業務を行うエリアをローテーションすることにした。


 現在の状況で手順が確立できたことはうれしいことだが、それに固執することで、自分の首を絞めるような結果を招くのは避けるべきだし、もし私が変容に対応してみせたように、ダンジョンが私のやり方を学習し、対応するような存在だったとしたら、ローテーションを組むことで、対応をさせない、あるいは対応を遅らせる効果も、期待できるかもしれない。


 すべて可能性の話だが。


 本日の目的地は、中層の南西に位置する『錆色の廃坑(ラスト・マイン)』である。


 壁面から露出した鉄分を含む鉱脈が酸化し、通路全体が赤茶色に染まっている古い坑道のような区画だ。


 変容が起こった以前から安定した収益源として利用してきた場所だが、ここ数週間は足を向けていなかった。


 エリアに近づけば、空気が変わるのがわかった。


 鉄が錆びたような、特有の匂いが混じり始めたのだ。


 私は警戒しながら壁沿いに進んだ。


 少し開けた岩の広間に差し掛かったところで、微かな衣擦れの音が聞こえた。


 ……モンスターか?


 岩陰に身を潜めて観察すれば、そこにいたのは、桜色の防具を身に纏った小柄な少女だった。


 水無川さんである。


 彼女は壁に背を預け、前方を見据えていた。


 どうやら今日の業務をここで行うつもりのようだ。


 警戒を解き、私が岩陰から歩み出れば、彼女がこちらに気づいた。


「あ、静河。……ここ?」


 私もここで業務を行うつもりなのか、という問いだろう。


 そのとおりなので、短く頷けば、彼女は小さく、


「そうなんだ」


 とだけ呟き、再び前方を見据えていた。


 彼女は、自分に合うやり方を模索すると言っていた。


 今も、それを探し続けているのだろう。


 彼女の邪魔をするつもりはない。


 お互いの安全マージンを確保する意味でも、私はその場を離れ、自分の作業領域を確保するため、別方向の通路へと足を進めた。




 トラップはないか。


 モンスターの気配はないか。


 変容前と同じ感覚でいたら、命を失うことは確実だ。


 以前よりもずっと五感を研ぎ澄ましながら、私は赤茶けた岩肌に沿って歩いた。


 立ち止まる。


 前方の通路、その奥から、鈍い音が聞こえてきたからだ。


 重量感のあるこの音の正体は——。


 このエリアに生息する、錆毛熊(ラスト・ベア)に違いない。


 体毛は錆びた針金のようであり、物理的な攻撃に対する高い耐性を持つ。


 変容前の対象であれば、視覚が弱く、主に嗅覚と聴覚に依存して獲物を探るのだが。


 私は通路を流れる気流の向きを調べ、風下側の対象の死角へと回り込む。


 エリアに変容は起こっていない。


 では、モンスターはどうだろう?


 息を、気配を殺しながら、注意深く観察する。


 動き方に、特段の変化は見られない。


 見た目も同じだ。


 ならば、ここには変容が起こっていないと判断していいのではないか。


 ……いや、そう判断するのはまだ早い。


 私は足元にあった石を拾い、対象の反対側に投げた。


 音を立てて地面に落ちた石に向かって、対象が殺到する。


 攻撃方法にも、変わりはない。


 口から酸を飛ばしたりするようなことも、あるいは針金状の体毛を飛ばすようなこともなかった。


 ……これなら。


 私は腰元の鞘からサバイバルナイフを引き抜いた。


 対象が、私が石を投げた辺りを警戒している今、死角から気配を殺しながら近づき、対象の頸部、体毛の薄い部分を狙って一気に刃を突き立てる。


 それは、これまでに何度も繰り返してきた手順——そのはずだった。


 だが。


 ナイフは対象に刺さらなかった。


 ナイフが対象の皮膚に刺さる寸前、対象の体表を覆っていた針金状の体毛が、全身を覆う鎧へと変貌したのだ。


 刃は弾かれ、手首に鈍い衝撃が走る。


 私は即座に後へ向かって大きくステップを踏んだ。


 そして対象が私に反撃を加える前に、冷却スプレーを取り出すと、その鼻先に向けて噴射した。


 対象が怒りと苦悶の咆哮を上げている隙に、私は対象の死角へと全力で退避した。


 壁に背を預け、冷や汗が背筋を伝い落ちるのを感じながら、必死で呼吸を整えた。


 対象はしばらくその場に留まり、自分を不快にさせた存在——私を探していたが、結局、見つけることができず、通路の奥へと姿を消した。


 それでも私の心拍数は未だに高いままで、それが鎮まるまでそれなりの時間を要した。


 ……処理できなかった。


 過去のデータにない、突発的な防御機構。


 今の私のアプローチでは、突破することは不可能だ。


 私はサバイバルナイフを鞘に戻し、バックパックから手帳を取り出した。


 安全を確保したこの場所で、今起きた事実を書き留める。


 ペンを走らせていると、通路の反対側から荒い息遣いが聞こえてきた。


 水無川さんだ。


 彼女は私がいる場所に、私がいるとは気づかず入ってきた。


 そして私に気づくと、


「……ごめん。少しだけ、いい?」


「……ええ、構いません」


 彼女を見れば、桜色の防具の肩口が浅く裂け、土埃にまみれていた。


 彼女も錆毛熊と相対し、予期せぬ変容に対処しきれず撤退を選択したのではないか。


「……何あれ。昨日まで全然いけたのに。なんで今日になったら駄目になってるの? 理不尽」


 彼女の言うことは正しい。


 確かに理不尽だ。


「ねえ。あいつ、どうやって倒したの?」


「私も駄目でした」


「……そうなの?」


 その時、彼女は私を見た。


 そして首を傾げた。


「……失敗したってことだよね? なのに、なんでそんなに平気そうなの?」


「落ち込んでも、状況は改善しませんから」


「それは……そうだけど」


「この失敗は、次の変容を読むためのデータになります」


 私の言葉を聞き、彼女はしばらく目を瞬かせていたが、やがて小さく息を吐き出した。


「……そんなふうに考えられるって、なんかすごいね」


 彼女は両手で膝を叩いて立ち上がり、防具に付着した泥を払った。


「あたしにはまだ無理だけど。でも、いつかそんなふうになってみたいかも」


 彼女のその言葉を、私はただ黙って聞いていた。




 今日の業務は、新たな変容の事実を確認した時点で終了とした。


『錆色の廃坑』で行うことを決めていたので、他のエリアでの業務遂行を想定しない。


 以前ならば、別エリアで継続することもあり得たが、現在の状況でそれを行うのは悪手以外の何ものでもない。


 利益はルート上に現れたモンスターを何体か処理しただけのため、ほとんどないが、生きて、新たな情報を持ち帰ることができたことで充分だろう。


 今日の失敗は、明日の成功に繋がる。


 いや、繋げていくのだ。


 まだこのエリアに留まり、自分なりのやり方を探し続けるという水無川さんに別れを告げ、


「……気をつけて」


「静河もね。遠足は家に帰るまでが遠足なんだから」


 その例えに思わず口元が緩む。


「水無川さんも」


「ありがと」


 私は地上へと帰還する。




 換金カウンターへ向かうと、そこには最近姿を見せなかった権藤さんが立っていた。


 彼の顔には、深い疲労の皺が刻まれていた。


 私がわずかばかりの魔石をトレイに置くと、彼は手際よくテスターにかけていく。


「権藤さん、カウンター業務に戻られたのですね」


 私が声をかければ、彼は明細を印刷しながら微かに口元を緩めた。


「現場の管理権限を縮小されたのは悔しいが、しかし、上層部の会議からも解放されてね。……これからは、ここで君たちの顔を見ることが多くなる」


 そういう彼の顔は、憑き物が落ちたようにさっぱりとしていた。


 権藤さんは私に明細を手渡し、周囲に人がいないことを確認してから声を潜めた。


「それより、静河さん。気をつけてほしい」


「……というと?」


「変容が続くこの状況下で、安定して結果を出し続ける君の存在は、協会の上層部だけでなく、国の目にもつきやすい。このままいけば、彼らから直接何らかの接触があるかもしれない」


 国からの接触。


 ダンジョンを完全に管理下におこうとする巨大なシステムが、私というイレギュラーな個体を取り込もうと手を伸ばしてくる可能性。


 私は受け取った明細をポケットに収め、短く息を吸い込んだ。


「どのような接触であれ、私の目的は変わりません」


 私が私として生きていく。


 その平穏な生活の維持を脅かす要求には、決して首を縦に振るつもりはない。


 私の答えを聞き、権藤さんは静かに肩の力を抜いた。


「……君はいつだってブレないね。だが、それでこそ君だ」


 彼ははっきりと笑った。


 私は会釈して、その場から去った。




 協会を後にし、スーパーマーケットへと向かった。


 今日の夕食は、朝から決めていた。


『ごはん処 ふたば』で食べた、あのデミグラスソースのハンバーグ。


 あの味をどこまで再現できるか、挑戦してみたかったのだ。


 合い挽き肉と玉ねぎ、そして宿舎になかったり、残り少なくなっているスパイス、また、ソースのベースとなるいくつかの調味料を購入した。


 宿舎に戻り、やるべきことを終えてからキッチンに立った。


「……よし」


 玉ねぎを細かく刻み、フライパンで火を通す。


 焦がさないよう、甘みを最大限引き出すまで、時間をかけて炒める。


 次に、冷ましたそれを、ボウルで肉とスパイスを合わせ、空気を抜くように両手で叩きつけ、形を整えた。


 フライパンで表面を焼き固め、肉汁を内部に閉じ込める。


 ソース作りには、赤ワインの代用品として微かな苦味とコクを加えるための調味料を慎重に配合した。


 焼き上がったハンバーグを皿に移し、フライパンに残った肉汁とソースを絡めて加熱する。


 完成したそれをテーブルへ運び、箸で中央を割った。


 閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、ソースと混ざり合う。


 口へ運んだ。


 肉の旨味とソースの香りが広がる。


「美味い。……ですが、ふたばのハンバーグとは明らかに違いますね」


 あの店の、奥深くビターな味わいには届いていない。


 酸味と苦味のバランスも違う。


 だが、試行錯誤の末に形にしたこの味も、決して悪くない。


「……次は、玉ねぎの加熱時間をもう少し延ばして、使うスパイスの種類、いえ、量を変えて、ソースの配合比率も見直してみましょう」


 今日のダンジョンでの失敗と同じだ。


 失敗したという事実をデータとして蓄積し、明日へと繋げるのだ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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