第10話:静かなる防波堤
目覚めても悪夢の中にいる気分だった。
昨日の記憶が、身体に泥のようにへばりついている。
善意で助けた少年の親から投げつけられた、訴訟という言葉。
怒りはない。
ただ、徒労感だけが、体の深いところに澱のように溜まっている。
今の私にとって、他人と関わることは、予測不能な災害に遭うのと同じ。
精神は摩耗し、生活リズムが崩壊する。
それは、私がこの世界で生きていくための基盤が揺らぐということだ。
顔を洗い、鏡を見た。
「……よし」
意識して、自分の中にあるスイッチを切り替える。
そして、今日、向かう場所を決めることにした。
「………………ここだ」
地下水路エリア。
そう呼ばれているその場所は、湿気がひどく、足場も悪い。
それで実入りが多いのなら、一攫千金を狙う他の探索者たちも群がるのだろうが、実際はその逆。
実入りはかなり少ない。
要するに、ダンジョン内の不良債権みたいなエリアなのだ。
昨日の損失を考えれば、他のエリアに行くべきなのは間違いない。
だが、今の私が求めているのは、魔石の山ではない。
誰にも邪魔されず、波風の立たない環境で、淡々と業務をこなす時間だ。
私はバックパックを開き、準備を始める。
いつもの装備に加え、いつか必要になるかもしれないと購入しておいた、部屋の隅に置いてあった道具を詰め込む。
それは数本の太い鉄の杭と、ハンマー。
地下水路エリアはぬかるみがひどく、崩れやすいと資料にあった。
もし道が塞がれた時、あるいは足場が崩れそうな場所を通る時、これらが私の命綱になるだろう。
バックパックがいつもより重い。
しかし、物理的な重さは、昨日のような精神的な疲労に比べれば、問題にならない。
とはいえ、いつもと違うということは、それだけ慎重さが求められる。
私はいつもより入念にルーティンをこなす。
「……全条件、規定値内」
ダンジョンに足を踏み入れた。
地下水路エリアは、私が予想していたとおり、誰もいなかった。
「……よし」
ここには、理不尽な要求も、身勝手な罵倒もない。
ただ、ダンジョンがあるだけだ。
私は黙々と、たまに現れるスライムや水棲のモンスターを、事務的に処理していった。
「……そろそろか」
業務を終える時間になった。
今日の成果を確認する。
私は小さく笑った。
昨日の赤字を埋めるには程遠い。
しかし、これでいい。
今日の私は、この、一人で黙々とモンスターを処理する時間をこそ求めていたのだから。
体は疲れていたが、精神的にはかなり回復したことが実感できる。
私は確かな充足感を得て、帰路につくことにした。
ダンジョンを出るまで、気を抜くことは許されない。
全方向に注意をはらいつつ、進んでいた時、
「……ん?」
私は頭上の岩盤に違和感を覚えた。
立ち止まり、光源を向ける。
岩肌に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っていた。
そこから、濁った水がじわりと滲み出している。
「これは……」
崩落の予兆だ。
かつての『私』が、古い工事現場で目にしたことがあった。
ここは、出口へと向かうための主要な通路の一つだ。
崩れるのは今すぐではないかもしれない。
だが、もし地震でも起きれば?
ここは確実に塞がってしまうだろう。
そうすれば、私は別の、より危険なルートへの迂回を余儀なくされる。
あるいは、崩落に巻き込まれる可能性だって、なくはない。
「……見なかったことには、できないか」
私は重い溜息を吐き出して、バックパックを下ろした。
精神的な充足感を得たといっても、この時間までモンスターを処理し続けてきた疲労がなくなるわけではない。
それでも、やらなければ。
私はバックパックの中から、杭とハンマーを取り出した。
「まさか、ここで使うことになるとは思ってもいなかった」
私は杭を、亀裂の走る岩盤の要所にあてがい、ハンマーを打つ。
鈍い音がダンジョンの中に響く。
打ち込んだ杭は緩んだ地盤の応力を分散させる。
「支保工代わりだ」
さらに、ナイフを使って泥を掻き出し、岩盤の裏に溜まった水圧を逃がすための溝を掘る。
泥だらけになりながらも、杭がしっかりと岩に噛み合い、溝から濁った水がスムーズに流れ出したのを見て、私は確かな手応えを感じていた。
「よし、機能している」
それはかつて、炎上しかけたプロジェクトの致命的なバグを、誰にも気づかれることなく事前に潰した時に感じた、あの静かな安堵に似ていた。
道具を片付け、その場を離れようとした、その時だった。
腹の底に響くような地鳴りがした。
「……!」
反射的に身を低くし、壁際に寄る。
直後、ダンジョン全体が大きく揺れた。
地震だ。
遠くで、バラバラと岩が崩落する音が重なって響く。
どうやら他のエリアでは、小規模な崩落が起きているようだ。
私は、自分がさっきまで補修していた壁を見上げる。
岩が軋む嫌な音がする。
砂が落ちてくる。
「……耐えてくれ」
私の祈りが通じたわけではないだろうが、打ち込んだ杭が支えとなり、逃がした水圧のおかげで、壁は崩壊することなく持ちこたえた。
揺れが収まる。
静寂が戻るかと思われたその時、奥の通路から、足音が聞こえてきた。
「こっちだ! 急げ!」
「崩れてくるわ!」
若い探索者のパーティーが、必死の形相で走り込んできた。
彼らは崩落しかけた別の通路から、命からがら逃げてきたのだろう。
私が補修した壁の下、比較的安全なスペースに滑り込み、へたり込んだ。
「助かった……! マジで死ぬかと思った……」
「運が良かったわよね、私たち……神様、ありがとう……!」
彼らは気づいていない。
自分たちの頭上にある岩盤が、なぜ落ちてこなかったのか。
そこに打ち込まれた杭が、誰によって打たれたものなのか。
それを、単なる運だと信じている。
私は、少し離れた物陰で息を潜めながら、その光景を見ていた。
泥だらけの手袋を見つめる。
運ではない。
準備と対策の結果だ。
この時の私は、なぜかそう言ってやりたい衝動が、喉元まで込み上げてきた。
しかし——。
『息子に余計なことをしてくれたのは、あなたね!』
昨日の罵声が、脳裏をよぎった。
もしここで名乗り出れば、どうなる?
『勝手にダンジョンに手を加えたせいで、他が崩れたんじゃないか』
『ここが安全だと知っていたなら、なぜもっと早く教えなかった』
そんな、理不尽なクレームを浴びせられるかもしれない。
「……やめよう」
かつての『私』なら、そんな気持ちには絶対にならない。
だが、今の私は、そんなふうになってしまう。
静河くんの影響か?
いや、違うか。
とにかく、私は小さく息を吐き出すだけに止め、その場を静かに立ち去った。
私は、私がやりたいように仕事をしただけ。
そしてそれは確かに機能し、私の安全を守り、結果として彼らも守った。
それだけだ。
地上に戻ると、すでに日は傾いていた。
魔石を換金し、私は協会を後にする。
誰にも、今日のことを報告するつもりはない。
宿舎への帰り道、コンビニに寄った。
「のり弁当、温めてください。あと、豚汁も」
店員から受け取った弁当は、じんわりと温かかった。
部屋に戻り、シャワーで泥と汗を洗い流す。
さっぱりとした気分で、小さなテーブルに向かう。
弁当の蓋を開ければ、海苔の下にはおかか。
白身魚のフライに、ちくわの磯辺揚げ。
醤油を少したらして、白身魚のフライを口に運ぶ。
サクッとした衣の食感と、素朴な塩気が口の中に広がる。
「……うまい」
強張っていた神経が、ゆっくりとほどけていくのがわかる。
豚汁をすする。
根菜の甘みが体に染み渡る。
窓の外を見る。
月が出ていた。
静かな夜と、平穏な満腹感。
明日もまた、いつもどおりやろう。
そんな気力が湧いてきていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
もし少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけたら、
ブクマと下の【☆☆☆☆☆】で評価して応援いただけると執筆の励みになります。




