第1話:決別の朝
肺の奥が冷え切っていた。
男が意識を取り戻した瞬間に、まず感じたのは『誰か』がここにいたという、残り香だった。
自分のものとは違う、しかしとても懐かしく感じるその残り香を確かめていると、ゆっくりと男の中に、『本宮静河』という青年の記憶が流れ込んでくる。
「ああ……」
それは、あまりに分が悪い取引の記録だった。
幼馴染の今仲麗美。
彼女の機嫌を損ねないための奔走。
家族からの、麗美を優先しろという無言の、あるいは露骨な圧力。
彼らとの関係において、静河は常に支払う側だった。
時間も、労力も、自尊心も。
それらをすべて差し出した果てに、青年は「あんたみたいな冴えない男と結婚するわけないじゃない」という言葉で、手持ちのカードをすべて焼かれたのだ。
「……お疲れ様。君はすごい。君はよくやったよ」
かつて日本という国で、泥を啜るような納期を何度もくぐり抜けてきた男——私が、もうどこにもいない青年のために、静かに祈りを捧げる。
「静河! いつまで寝てるの。麗美ちゃんが外で待ってるわよ。昨日のお詫びに、駅前まで荷物持ちするって約束したんでしょ!」
階下から青年の——いや、今は私の母親の、鋭く、しかし自分への関心を欠いた声が響く。
私はゆっくりと起き上がった。
手足の節々は重いが、頭は驚くほど冴えていた。
一階へ降りると、リビングにはすでに麗美が座っていた。
整った顔立ちを傲慢に歪ませ、鏡を見るようにスマホを眺めている。
彼女にとって、この家のリビングは自分の控室のようなものなのだろう。
「遅いんだけど」
麗美はこちらを見もせずに言った。
その声からは、当然のように相手が従うものであるという歪んだ確信が感じられた。
私は、冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いで飲んだ。
「ねえ、静河、聞いてる?」
「聞こえているよ」
努めて穏やかに、感情の波を立てないように答える。
新聞を読んでいた父親が、不快そうに視線を向けた。
「麗美ちゃんを待たせるな。お前が不甲斐ないから、麗美ちゃんが泣くことになるんだぞ」
彼らの言葉は、もはや私には届かない。
それは、かつての職場で見かけた、実現不可能な納期を押し付けてくる無責任な上司の怒号によく似ていた。
「申し訳ありませんが、その役割はもう引き受けられません」
「……は? 静河、あんた、何言ってるの?」
麗美がようやくこちらを見た。
その顔にははっきりと不快であると書かれていた。
私は気にせず、自分のペースで椅子を引き、彼らと向き合うように座った。
説得? 違う。もうその段階はとっくに越えている。
私は私として生きていくため、こちらの決定事項を通知する。
「麗美さん、君の荷物を持つことも、君の機嫌を取ることも、今日限りでやめさせていただきます。そして父さんも母さんも、私が麗美さんのために動くことを前提にした話はやめてください」
一瞬、家の中が静まり返った。
しかしその中で一人だけ、呟く者がいた。
「……私? え?」
麗美だけが、私という一人称に違和感を覚えたようだ。
「……静河、あんた、何言ってるか分かってるの?」
母親が呆れたように笑う。
「麗美ちゃんとの将来のことがあるでしょ。ここで機嫌を直してもらわないと」
「将来はありません」
いや、あり得ないというべきでしょうか、と私は続けた。
「彼女は私を拒絶しました。ゆえに、私は彼女から離れます。彼女にこれ以上何かを提供することはありえません」
「あんた……!」
麗美が立ち上がる。その顔を見れば、先程覚えた違和感はどこかへ消え、怒り——いや、自分の所有物が勝手に動き出したことへの戸惑いを感じているように見えた。
「……わからないようなら、こう言い直します。君の期待に応え、家族の不条理な要求を飲み込むことは、今の私には不可能です」
もう静河くんはどこにもいないのだから、と心の中でだけ続ける。
「私はここを出ます」
「そんなの許さないわ……!」
母親が叫んだ。
「なぜ?」
「え……」
と戸惑っているのは、言い返されると思っていなかったからか。
「あなたたちは私に理不尽な要求しかしない。そして私にはその要求に応えるつもりはない。そしてここにいる限り、あなたたちの要求は続く」
そんな苦痛をいつまでも引き受ける理由は、『私』にはない。
「だから私はここを」
「で、る?」
「そうです。理解していただけたみたいでよかったです」
感情的に叫べば、彼らは反論の糸口を見つけるだろう。
だから私は、事実だけを淡々と述べた。
これからの生活を考えれば、もう彼らの相手をするエネルギーすら温存しておく方がずっといい。
自室に戻り、最低限の荷物をまとめてバックパックに入れ、背負う。
静河くんの貯金は僅かだったが、それでも、それだけあれば数日は持ちこたえられる。
大丈夫。静河くんの知識が、私がこの世界で生きていく手段があることを教えてくれた。
玄関へ向かうと、麗美が追いかけてきた。
「ちょっと待ちなさいよ! 行くってどこに!? 冗談でしょ、どうせすぐ謝って戻ってくるに決まってるわ!」
私は靴の紐を締め直し、ドアノブに手をかけた。
私としては、このまま立ち去っても、何も問題はなかった。
しかし——彼のことを、彼の最期を思うと、どうしても一言だけ、言いたくなった。
「君自身、気づいていない気持ちに、いつか気づくだろう。だが、もう遅いんだ。どれだけ後悔しても、やり直したいと考えても、彼は——静河くんは、もうこの世のどこにもいないのだから」
私の記憶の中にある、静河くんの記憶。
そこにある、かつての思い出。
『ねえ、おっきくなったら、わたしがあんたのお嫁さんになってあげるんだから!』
『うんっ!』
私は少しの間、瞼を閉じる。
……静河くん、君の人生を使わせてもらうよ。
目尻に滲んだのは、果たして何だったのか。
私は鬼のような形相をしている彼女と、静河くんの家族に背を向け、家を出た。
「はあ!? 意味わかんない! 私みたいな可愛い子を捨てるなんて、あんた一生後悔するんだからね!」
背後で家族の罵声と麗美の叫びが混ざり合う。
外に出れば、春の朝特有の、少し湿った、けれど清涼な空気が頬を撫でた。
私は一度も振り返らず、駅へと向かう。
向かう先は、華やかな都会でも、誰かが待つ故郷でもない。
街の外れに口を開けている、『ダンジョン』だ。
静河くんの記憶にあった。
この世界にはダンジョンがあるのだと。
そこで探索者として活動するという、生きる道があるのだと。
英雄になる? そんなつもりはない。
誰かを見返すための力、そんなものも今の『私』には必要ない。
ただ、自分の足で立ち、自分が生きていくために食事を摂り、誰にも搾取されずに眠る。
そんな当たり前の生き方を、あの中で始めようと思う。
静河くんになる前の『私』が、サラリーマンとして生きてきた経験が教えてくれる。
無理な働き方は長続きしない。
だが、着実な準備と撤退のラインさえ見誤らなければ、人はどこでだって生きていける。
私は深く、新しい空気を吸い込んだ。
今日から、私の新しい「業務」が始まる。
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