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第8話 唯一の味方

隣国ガルディアへの出発の日が、刻一刻と近づいていた。屋敷の中は、私の存在を無視するかのように、普段通りの時間が流れている。家族は誰も、私の部屋を訪ねてくることはなかった。まるで、私がもうこの家にはいないかのように扱われている。


がらんとした自室で、最低限の荷物をトランクに詰める作業を、私は一人で行っていた。侍女たちも、母の指示がなければ手伝おうとはしない。そんな中、ただ一人、ずっと私のそばに寄り添ってくれる人がいた。


「お嬢様、こちらもお持ちになりますか? 冬のガルディアは、エスタードよりもずっと寒いと聞きますから」


そう言って、厚手のショールを差し出してくれたのは、マーサだった。彼女は、私が物心ついた頃からずっと私の世話をしてくれている、年配の侍女だ。白髪が増え、背中も少し丸くなったけれど、その優しい眼差しだけは昔から変わらない。


「ありがとう、マーサ。……でも、そんなに心配しなくても大丈夫よ」


私は力なく微笑んで見せたが、マーサは心配そうな顔を曇らせたままだった。


「いいえ、心配ですとも。あのような形で婚約を破棄され、その上、お会いしたこともない、しかも悪い噂ばかりの公爵様の元へお嫁に行かれるなど……。旦那様も奥様も、どうしてあんなにあっさりと……」


マーサは、言葉を詰まらせた。彼女は、私が幼い頃からどれだけ努力してきたかを知っている。私が決して「地味で華がない」だけの令嬢ではなく、むしろ聡明で、心優しく、そして誰よりもレオンハルト殿下のことを想っていたことも、きっと分かってくれている。だからこそ、今のこの状況が、彼女には納得できないのだろう。


「……いいのよ、マーサ。もう、決まったことなのだから」


「しかし、お嬢様……!」


「大丈夫。きっと、何とかなるわ」


私は、自分に言い聞かせるように言った。根拠なんて、何もないけれど。


マーサは、しばらくの間、悲しそうな目で私を見つめていたが、やがて諦めたように小さくため息をつくと、懐から小さな布包みを取り出した。


「お嬢様。これを……」


差し出された包みを開くと、中には古風なデザインの、小さな銀のロケットが入っていた。それは、私が幼い頃に亡くなった実の母の、数少ない形見の一つだった。いつの間にか失くしてしまったと思っていたけれど、マーサが大切に保管してくれていたらしい。


「お母様は、お嬢様のことをいつも案じていらっしゃいました。きっと、ガルディアへ行かれても、このロケットがお嬢様をお守りくださいますでしょう」


「マーサ……ありがとう……」


こらえていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。この家で、私のことを本当に心配し、想ってくれるのは、もうマーサしかいないのだ。その温かい気持ちが、凍てついていた私の心をじんわりと溶かしていく。


「まあ、お嬢様、お泣きにならないで。……お嬢様は、とても賢くて、お強い方です。たとえ殿下や旦那様がお嬢様の価値をお分かりにならなくても、世の中には、必ずお嬢様の素晴らしさを理解してくださる方がいらっしゃいます。私は、そう信じておりますとも」


マーサは、しわくちゃの手で、私の涙を優しく拭ってくれた。


「ですから、どうか、ご自分を卑下なさらないで。胸を張って、前を向いてくださいまし。お嬢様なら、どこへ行かれても、きっと幸せになれますわ」


その言葉は、まるで魔法のように、私の心に染み込んできた。そうだ、私はまだ終わったわけじゃない。新しい場所で、新しい人生を始めるのだ。たとえ今は不安しかなくても、マーサの言葉を信じて、前を向いて歩いていこう。


「ありがとう、マーサ。本当に……ありがとう」


私は、涙で濡れた顔で、それでも精一杯の笑顔を作ってマーサに感謝を伝えた。彼女の存在が、これから始まる未知の旅路において、私の唯一の、そして最大の心の支えになるだろう。


銀のロケットを、ぎゅっと強く握りしめる。ひんやりとした金属の感触が、不思議と私に勇気をくれた気がした。

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