第6話 決意の理由
自室の簡素なテーブルの上には、例のガルディア王国、ヴァルテンベルク公爵家からの書状が置かれている。上質な羊皮紙に、流れるような美しい、しかしどこか硬質な筆跡で書かれたそれは、間違いなく私、アリアナ・フォン・ベルンシュタイン宛の縁談申し込みの書状だった。
(ライオネル・フォン・ヴァルテンベルク公爵……)
差出人の名前を、心の中で繰り返す。鉄仮面、冷徹公爵、血も涙もない男――社交界で囁かれる彼の評判は、お世辞にも良いものとは言えなかった。そんな人物が、なぜ、よりにもよって婚約破棄されたばかりの私に求婚などしてきたのだろうか。
書状を何度読み返しても、その理由は一向に見えてこない。書かれていたのは、儀礼的な挨拶と、両家の結びつきを願うという形式的な言葉、そして具体的な結納や日程に関する提案だけ。私の『何』に興味を持ったのか、なぜ他の令嬢ではなく『私』を選んだのか、その肝心な部分については、一言も触れられていなかった。
(やはり、レオンハルト殿下のあの言葉が関係しているのかしら……?)
謁見の間での、あの侮辱的な言葉。『君のような女には、隣国ガルディアの“冷徹公爵”あたりがお似合いだろう』――。まさかとは思うけれど、殿下が何か裏で糸を引いている可能性も否定できない。私への当てつけか、あるいは何か別の政治的な思惑があるのか……。
いや、でも、あのプライドの高いレオンハルト殿下が、わざわざ他国の公爵に働きかけるとは思えない。それに、ガルディアのヴァルテンベルク公爵と言えば、一国の王族すら軽々しく扱えないほどの大物だと聞く。エスタード王国の王太子の一言で動くような人物では、到底ないはずだ。
(だとしたら、本当に、ただの偶然……? それとも、何か別の理由が……?)
考えれば考えるほど、頭の中は疑問符で埋め尽くされていく。まるで、深い霧の中を手探りで進んでいるような気分だった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、侍女が両親からの呼び出しを伝えに来た。重い足取りで父の書斎へ向かうと、そこには父と母が神妙な面持ちで座っていた。
「アリアナ、来たか。……その、ガルディアからの縁談の件だが」
父は、珍しく歯切れの悪い口調で切り出した。その顔には、驚きと困惑、そしてほんの少しの……安堵? のような色が見て取れた。
「我が家としても、ヴァルテンベルク公爵家からの申し出を無下にするわけにはいかん。相手は、あのライオネル公爵だ。下手に断れば、何をされるか分からんという噂もあるしな……」
「まあ、そうですわね……。それに、アリアナ。正直に言って、今のあなたにこれ以上の縁談が来るとは思えませんもの。これも何かのご縁なのかもしれませんわ」
母は、扇で口元を隠しながら、同情するような、それでいてどこか突き放すような口調で言った。
両親の言葉を聞いて、私は悟った。彼らは、この縁談の不可解さや私の気持ちなど、ほとんど考えていないのだ。ただ、厄介者となった娘の処遇が決まり、しかも相手があのヴァルテンベルク公爵家ということで、家の体面も保たれる(あるいは、公爵家との繋がりができるかもしれない)という打算で、この話を進めたいだけなのだ。
(ああ、そう……。結局、私はこの家にとって、そういう存在なのね……)
心の奥底が、すうっと冷えていくのを感じた。もはや、この家に私の居場所など欠片もないのだ。それを、改めて突き付けられた気がした。
ならば――。
ならば、もう迷う必要はないのかもしれない。
この縁談が罠であろうと、悪戯であろうと、あるいは本当に何かの間違いであろうと、今の私には、これ以外の選択肢がないのだから。
この息苦しい場所から逃れられるのなら。
私を不要だと言った人たちの前から、消えることができるのなら。
たとえ相手が冷徹公爵だろうと、悪評高い人物だろうと、どこへだって行ってやる。今のこの、生殺しのような状況よりは、きっとマシなはずだ。
それに、ほんの少しだけ、万が一の可能性に賭けてみたい気持ちもあった。もし、万が一、ライオネル公爵が、レオンハルト殿下や私の家族とは違う目で、私を見てくれるのだとしたら……。そんな都合の良い展開、ありえないとは分かっていても、心のどこかで期待してしまう自分がいた。
私は、ゆっくりと顔を上げ、両親に向かってはっきりと告げた。
「お父様、お母様。そのお話、お受けいたします」
私の言葉に、両親は明らかに安堵の表情を浮かべた。父は「そうか、それが賢明だろう」と頷き、母は「準備を急がせませんとね」と早速侍女を呼ぼうとしている。私の決意の裏にある葛藤や不安など、彼らの目には少しも映っていないようだった。
理由は分からない。未来も分からない。けれど、私は行く。この国を出て、隣国ガルディアへ。
それが正しい道なのか、間違った道なのかは分からないけれど、少なくとも、ここに留まっているよりは、ずっと良いはずだ。そう、自分に言い聞かせた。冷え切った心の中に、ほんの小さな、か細い決意の炎が灯った瞬間だった。