第12話 縁談の真意
ライオネル公爵の黒い瞳は、まるで獲物を品定めするかのように、私をじっと見据えている。その視線に射竦められ、私は身動き一つ取れずにいた。何を考えているのか全く読めない、氷のような無表情。ああ、このままでは、緊張で気を失ってしまうかもしれない。
「……座られよ」
沈黙を破ったのは、やはり公爵の方だった。短く、命令的な響きを帯びたその言葉に、私は反射的に頷き、ソファに改めて深く腰掛けた。彼もまた、私の向かいにある一人掛けのソファに、音もなく腰を下ろす。その一連の動作には、一切の無駄がなく、まるで計算され尽くした機械のようだった。
再び、重苦しい沈黙が訪れる。何か話さなければ、と思うのだけれど、言葉が出てこない。この状況で、一体何を話せというのだろうか。お天気の話? 長旅の感想? そんなものが、この冷徹公爵の興味を引くとは到底思えなかった。
私が内心でパニックに陥っていることなどお構いなしに、公爵は静かに口を開いた。
「ベルンシュタイン嬢。早速だが、本題に入らせていただこう。……貴女が、我がヴァルテンベルク家に嫁ぐ意思を示されたこと、まずは感謝する」
その言葉は、やはり感情の起伏を感じさせない、淡々としたものだった。感謝、と言いながらも、その声色からは何の温かみも伝わってこない。
「は、はい……。こちらこそ、身に余る光栄と……存じます」
型どおりの返事をすると、公爵は小さく頷いた。そして、次の瞬間、彼は私の予想を遥かに超える言葉を口にしたのだ。
「貴女がエスタード王国で提出していた、数々の『献策』――特に、ここ数年間の穀物生産量の安定化に関する提案、および、近隣諸国との交易における関税見直し案については、以前から興味深く拝見させてもらっていた」
「…………え?」
献策……? 穀物生産量……? 関税……?
あまりにも唐突な言葉に、私の頭は真っ白になった。それは確かに、私がレオンハルト殿下の影として、彼の名で提出してきたレポートや提案書の内容そのものだったからだ。
(どうして……それを、この方がご存知なの……?)
それらは全て、エスタード王国の内政に関わる、極秘扱いの情報のはず。一部は、殿下の功績として公に発表されたものもあるけれど、その原案を作成したのが私であることなど、ごく一部の人間しか知らないはずなのに。
私の驚愕と混乱を読み取ったのか、公爵は淡々と続けた。
「我が国は、常に近隣諸国の動向を注視している。エスタード王国の政策決定過程において、ここ数年、時折目を見張るような分析と具体的な提案が散見されるようになった。それらが、表向きはレオンハルト王子の功績とされていることも承知している。……しかし、その文体、論理構成、着眼点には、ある種の『一貫性』が見られた」
まるで、全てお見通しだ、と言わんばかりの口調。その黒い瞳が、再び私を射抜く。
「当初は、王子に有能な側近でもついたのかと考えていた。だが、調査を進めるうちに、それらの献策の本当の立案者が、貴女――アリアナ・フォン・ベルンシュタイン嬢であるという結論に至ったのだ」
言葉が出なかった。ただ、心臓が早鐘のように鳴り響き、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。この人は、一体どこまで知っているというのだろう。ガルディアの情報網の恐ろしさに、私は戦慄を覚えた。
同時に、心の奥底で、これまで押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出しそうになるのを感じた。
(見ていてくれた……? 私の努力を、この人が……?)
誰にも評価されず、レオンハルト殿下の手柄として消えていったはずの、私のささやかな仕事の数々。それを、この異国の、しかも冷徹と噂される公爵が、正確に把握し、そして――『興味深く拝見していた』と、そう言ったのだ。
信じられない思いと、ほんの少しの……いや、もっと大きな、何かが私の胸を締め付ける。それは、絶望の淵にいた私にとって、あまりにも眩しすぎる光だったのかもしれない。
「……なぜ、私が書いたと、お分かりになったのですか……?」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
公爵は、初めて、その表情に微かな変化を見せた。それは、ほんの僅かな、氷が解ける瞬間のような――いや、やはりまだ氷は氷のままかもしれないけれど、少なくとも完全な無表情ではなくなった。
「……貴女の提出したレポートには、他の凡百な官僚たちのものにはない、『現場』を見る目と、弱者への配慮、そして何よりも『実現可能性』への深い洞察があった。それは、机上の空論を弄ぶ者には決して書けぬものだ」
その言葉は、私がこれまで誰からもかけてもらえなかった、最高の賛辞のように聞こえた。