プロローグ
どうしてこうなってしまったんだろう、と思う。
***
豪奢なシャンデリア、煌びやかな装飾、優雅に揺れるドレス。どれを取っても美しい空間の中で、私に向けられる周囲の目だけが恐ろしいほどに冷ややかだ。
「エリシア・ヴォ・プレンダーガストン公爵令嬢。只今をもって婚約破棄とする」
群衆の中心にいるプラチナブロンドの髪の青年が、そう告げた。凛然と響くそれは、決して声を荒げているわけではないのにこの大きなホールの端から端まで聞こえていたに違いない。
王太子マクスウェル。つい今まで、私の婚約者だった人。
その周りを取り囲んで同じくこちらを睨めつける、騎士見習いのアーロン、侍者のイザヤ。学園の先輩ライランド、後輩のカーニー。親しい女友達だったネル、アラニ、グェンドリン。
そしてその中心にいる――かわいい、フランチェスカ。
ああ、やっぱりこの世界は”貴女”のために出来ているのね。”貴女”がみんなに愛される、ただそれだけのために。
フランチェスカは潤んだ瞳できょろきょろと周りを見渡して、震えている。走り出そうとするその小さな体躯をぐっと抱き寄せたマクスウェルが、彼女を安心させるかのように優しく微笑んだ。怖がる様子のこの健気で幼気で可憐な少女に、今この瞬間、この大広間にいるすべての人間が心を傾けている。そして彼女に同情すればするほど、私のことが憎くて憎くて仕方ない。
「怖がらなくても大丈夫。僕も、ここにいるみなも、君の味方だ」
ついにぽろぽろと涙をこぼし始めたフランチェスカは身体を震わせて、小さく「違うの。お義姉様は悪くないの」と呟いた。
かわいいかわいい、フランチェスカ。
今から断罪されようという悪女の従姉を、いじらしくも庇おうとして。周囲の人々は皆、心優しい貴女のとりこ。
少しだけ癖のある、淡い栗色の髪。こぼれ落ちそうなほど大きな翡翠の瞳。玉のように艶やかな肌に、透き通る小鳥のような声。
ここは、”貴女”が主人公の世界。”貴女”は誰を好きになってもいいし、誰と結ばれてもいい。不都合なことはやり直せばいいし、望まない結末ならリセットすればいい。そのためだけに作られた国。
――そして私は、”貴女たち”に断罪されるためだけに、生まれた存在。
いわゆる悪役令嬢転生ものだって、すぐに分かった。前世を思い出したあの時、ああここはあのゲームの世界だ、私はあの悪役の”エリシア”なんだと。
自分が断罪される結末のこと以外はあまり覚えていなかったけれど、”貴女”を初めて見た時だって、すぐに分かった。ああ、この子が”主人公”だ。一目見ただけで、その輝きに眩暈がしそうだったから。
かわいいかわいい、みんなのフランチェスカ。”貴女”のためのこの世界で、どうして私はこんな記憶を持ったまま生まれてきてしまったのかしら。
「かしこまりました」
そう言うと、マクスウェルを始めとするその場のほぼすべての人間が目を丸くした。こんなに素直に受け入れるとは思わなかったのだろう。驚いて二の句が継げぬ聴衆たちに一礼し、ホールを出ていこうとする。カツカツとヒールの音がやけに響くのが、今どれほどこの空間が静まり返っているのかが分かって嫌だった。
あの義妹が、何かを必死に叫んでいるのが聞こえる。
かわいい、かわいい、フランチェスカ。
ここは”貴女”のためだけの世界。悪い結末にならないように、誰からも嫌われないように、必死に足掻いてきたつもりだったのだけれど、”私”の居場所なんてきっと最初からありはしなかったのね。
この後自分がどうなるかなんて、分からない。この世界で十数年の人生を過ごすうちに、前世の記憶なんてほとんど薄れてしまった。断罪の内容はルートによって違いがあったはずだし、それに今私が生きているこの世界線は、恐らくどのルートでもないだろうから。
小雨の降る中、控えさせていた公爵家の馬車に近づくと、男が慌てて飛び降りてきた。当たり前だ、雨よけの傘もささず、パーティの途中に一人で帰ろうとする令嬢なんて普通はあり得ない。「お嬢様、いかがなさいましたか」と、見目麗しい青年が尋ねてくる。見栄えで選ばれた、王宮に向かう時だけの御者だ。
「直ぐに出してください。屋敷に戻ります」
「えっ、か、かしこまりました」
「急いで!」
珍しく声を荒げる私に驚愕しながらも、青年は大急ぎで戸を開けて私をエスコートした。早く、一刻も早くこの場を離れなくては、と、気が急いている。今すぐここで命を狙われると思っているわけではない。どこか遠くへ逃げるためにわずかな時間も惜しんでいるわけでもない。
あの子が、絶対にやって来る。このままでは、絶対に――。
「お義姉様!」
鈴を転がすような声が、強くなってきた雨脚の合間を縫って響く。
ああ、間に合わなかった。やはり貴女は追ってきた。その顔なんて、今は一番見たくないのに。追って来なくていいのに。
「お、おね、お義姉様っ、待って、お願い!」
震えて掠れたその叫びに、私の心臓がぎゅっと縮こまるような気がした。
やめて、お願い。私にまだなんの用があると言うの。私のことはもう放っておいて。
「やだっ、お義姉様、待ってぇ! 行かないでぇ……!」
小窓から、御者の男がちらりとこちらに視線を向けた。出発の手筈が整ったのだ。私が大振りに頷くと、ガタン、と馬車が揺れる。
「嫌! いやっ……! 待って、置いて行かないで……一人にしないでぇ……っ!」
がむしゃらに走ってくる女の子の姿が見えた。涙なのか雨なのか分からないくらい、濡れている。仕立ててもらった素敵なドレスも、整えてもらった綺麗な髪も、花のように綻ぶかわいい顔も、ぐちゃぐちゃにして。届きもしないのに、必死に馬車に手を伸ばして。
「エリーお義姉様ぁっ!」
私の濃紺のドレスに、小さなシミが出来た。この馬車、雨漏りしているのかしら。そう思って顔を上げて、頬を伝うしずくの感触で、自分が泣いているのだと分かった。そしてそれを認識した途端、ぼろぼろ、あふれてあふれて止まらなくなる。
馬はどんどん調子を上げて、あの忌まわしい王宮から離れていく。フランチェスカの姿も、みるみる見えなくなっていく。
あの子の姿が毛先ほども見えなくなってから、私はたまらなくなって声をあげて泣いた。
ごめんなさい、フランチェスカ――かわいいかわいい、私のフランチー!
貴女を置いて行くこと、胸が張り裂けそうなほどに苦しい。私のために全身を泥まみれにして飛び出してきてくれた貴女を、抱きしめてあげられないなんて。今すぐ引き返して冷たくなっているだろうあの小さな身体を包んであげたい。ふかふかの布で優しく拭いてあげたい。暖かい暖炉の前で同じ毛布にくるまって、顔をくっつけあって一緒に眠りたい。夢の中でも、貴女に「お義姉様」と呼ばれて微笑まれたい。
ここが貴女と二人きりの世界だったならばどんなに良かったでしょう!
”私”がどれだけこの世界から冷遇を受けようと、迫害されようと、私は知っている。悪いのはこの世界だと。私にも、もちろん貴女にも、悪いことなどひとつもありはしない。
例えこの一件の片鱗を知って”私”を哀れんだ誰かが貴女を糾弾することがあったとしても、私は命が尽きるその時まで、こう言い続けるでしょう。
フランチェスカはなにもしていない、と。