半死半生
1.半死半生
夜も眠らぬ繁華街の裏側で、ぶち撒けた墨汁よりも暗い一角があった。半世紀も前より何も変わらぬゴミ溜めだ。時の流れに取り残された吹き溜まり。すえた匂いの漂う路地裏。
喉の奥の奥、肺臓から直接声を絞り出したような重い唸り声。両の目が見開かれる。暗闇の中、僅かな光を反射してうっすらと二つの光が現れた。
「……!?」
それは、まるで赤子が初めて世界に産まれ落ちた時のように呼吸を始めた。悪い夢を見ていたのだろうか。
一呼吸置いたあと、それは首を動かさずに目玉だけをギョロリと動かしてみせた。左も右も、上も下も。どこを見ても最悪のゴミ溜めだ。いくつものゴミ箱を逆さまにしてカマクラでも作ったのか。生ゴミが腐ってウジが湧いている。
どうやら俺はゴミ溜めのゆりかごでぐっすりと眠っていたようだった。一つも楽しくないお目覚めだ。腕を登ってこようとするウジ虫を手で払い除けて立ち上がった。
なぜこんな場所で寝ていたのだろうか、どうも思い出せない。酒にでも酔ってこんなゴミ捨て場に眠る事になったのか。自分の胸に聞いてみるが、何も返ってはこない。
「何……」
ぼそりと、つぶやいた。
何も思い出せないのだ。何故こんな場所で眠っていたのか。昨日のことも、いや。自らの名前すら思い出せない。ぽっかりと開いた空洞のように、記憶がない。だが、心の奥深くに怒りだけが残っている。何に対する怒りなのかわからないが……。いや、こんな場所で目覚める事になれば怒りも湧くだろう。
ふっと足下の水溜まりに視線が落ちた。月明かりに映し出された自らの顔をみて驚いた。
顔面の中央にあるべき鼻が無い。
いや、それどころか顔面の右半分の四割ほどが抉り取られている。耳たぶも削げ落ちて影も形もない。げっそりと赤黒い頬と合わせると、もはや質の悪いゾンビ映画のようだ。
「……おお……お!」
大きく仰け反って後ろに転びそうになった。半歩下がったものの、すんでのところで踏みとどまって生ゴミの海に再びダイブすることだけは避けられた。病気の鼠と油ぎったゴキブリの楽園には二度と足を踏み入れたくない。ふらつきながらも、両の手で自分の顔に触れてみる。やはりあるべき場所にそれらは存在しない。
「……!!」
声にならない声を出して天を仰ぐ。どうなっている!?足を折って跪き、顔を水溜まりに近づけて覗き込んだ。そこにあるのは僅かな光を集めてぬるりと光る二つの瞳だけだった。ふっと澱んだ空気に流れが生まれた、僅かな波紋が水面を這う。頼りなげに立ち上がった。ここはどこだ。俺は誰だ。幸いどこにも痛みは感じない、出血もない。ひどい面だが、最近の怪我ではないのか?いつからこんなふざけた顔面になったのだ。油ぎった壁面に手をついて体重を支えながら考えるが答えはでない。
とにかくこのクソッタレな環境から抜け出そう。家に帰るんだ。自宅の場所すら思い出せないが、腐った魚の匂いのするこの場所でこれ以上滞在する理由はない。
一呼吸置いて決心をつけると、足下に落ちていた真っ黒なパーカーを拾い上げた。いかにも薄汚れているが気にせずにそでを通した。ぐっと深くフードを被る。匂いは多少気になるが、自らの抉れた顔を見せつけられるよりはよほど良い。そのまま俺は光の見える表通りに足を向けた。