ジン 前編
私が生まれたのは確か…… 埼玉? だった気がします。母の転職でよく引っ越していたので、よく覚えてはいませんねぇ。
ただ、前世の記憶に最も深く刻み込まれているのは、一度の離婚を経験し、もう二度と結婚などするものかと喚いていた母が再婚し、妹ができたことですかねぇ。
無口な子でした。私がなにを話しかけても口を開くことはなく、ただただ父に従い、行動する。まるで機械のような子でした。
母が再婚した当時の私の年齢が、確か十八歳なので、その頃のオリヴィア…… もとい、静江は十歳。
十歳でこの様子だと、まともな教育がされているとは思えず、私も最初は近づきませんでした。
しかし、母が再婚してから一年が過ぎたある日、私は見てしまったのです。母のいないところで、父に虐待を受けている静江を。
当時、正義感の強かった私は我慢できなかった。
私は台所から包丁を持ち出し、静江の父を背中から刺しました。そしてそのまま、静江の手を引き、逃げ出しました。まあ、その後のことはまったく考えていませんでしたが。
高校生だった私は、バイトで貯めていた貯金を叩いて、二人分のホテルを取りました。もちろん、家から離れた場所です。
この時、唯一の救いであったのが、私のサイコパス性が高かったことでしょう。
私は、自分のしたことが正しいと確信していました。おかげで、静江の父を刺したことに罪悪感など抱くことなく、論理的な思考のもとで逃げていました。
「ここにいればしばらくは安全でしょう。災難でしたね」
「………… どうして?」
「なにがです?」
「………… どうして助けてくれたの?」
静江は、本当にわからないといった表情で、私のことを見ていました。
それもそうでしょう。一言も話したことのない兄が、突然自分のことを助けたのです。私が静江側だったら、間違いなく困惑するでしょう。
ただ、この時の私は、無駄に正義感が強かったですからねぇ。
「虐待は犯罪です」
自分のことを棚に上げて、一体なにを言っているんだと、自分で自分にツッコミたくなりますが、当時の私には、そんなことはどうでもよかったのでしょう。
私の言葉を聞いた静江は、ただただ目を丸くしていました。
まあ、ツッコミどころ満載ですからねぇ。
しかし、たった十歳で虐待やら犯罪やら、難しい言葉の意味を理解するとは…… 静江も頭はよかったんでしょうねぇ。
それから、私と静江の逃亡生活が始まりました。
ニュースでは、謎の強盗が静江の父を刺し、静江を連れて逃走したとして、報道されていました。
これも、私が静江の父に顔を見られていないので、当然のことでしょう。
他のニュースでは、私が行方不明だということも報道されていました。
強盗事件となんらかの関わりがあるかもしれない、などと得意げに解説している人間がいますが、真実を知ったら赤っ恥でしょうねぇ。まさか、その強盗が私自身だとは。
しばらく逃げ回りましたが、静江はなにも言わず、私についてきました。
ゴミ箱から漁った、カビたパンを食べた時も、ゴキブリだらけのホテルに泊まった時も、なにも言いませんでした。
ただただ私を慕うように、まるでクジラについている魚のように、私の横を歩いていました。
この時、私たちは気がついていたのです。自分たちが、あの両親のもとにいてはならない…… いや、二人でいなければならないということを。
なにせ、こんな絶望的な逃亡生活を心から楽しいと感じていて、開放感を得ているほどですから。
そんなある日、ついに金も底をつき、森で野宿をしていると、静江が私に話しかけてきました。
「…… 兄さん…… ありがとう」
「なにを感謝しているんです? 私はあなたに、辛い思いをさせているだけですよ?」
「…… ううん、兄さんは私に、いろんなものをくれた。例えば…… 愛情とか」
「ふふ、家族ですからねぇ」
静江は、私が静江を連れ回し続けた結果、自らの母にも抱くことのなかった家族としての愛が、静江に対して芽生えていたことに、とっくに気がついていました。
「…… 私も、兄さんを愛してる」
「それは嬉しいですねぇ」
「…… だから、死ぬときは一緒」
「ええ、当たり前です」
その次の日、私は警察に見つかりました。いえ、見つかったというより、私から連絡しました。とある山の頂上で待つ、と。
警察は予想よりも早く、私が連絡してから、一時間程度で山を登ってきました。
そこには、私の知っている母と、静江の知っている父の姿もありました。
私と静江は手を繋ぎ、正面に母を捉え、崖を背にして立っていました。
「バカな真似はやめて! 仁!」
「母さん、それを言うのなら、息子の死に様をわざわざ見物しに来る、あなたの方が馬鹿なのではないでしょうか?」
私の皮肉も両親の耳には届かず、刑事さんがあたふたしながら口を開きました。
「仁君! 落ち着くんだ!」
「おやおや刑事さん、あなたの方が落ち着いてみてはどうですか? 私は今、人生で一番落ち着いていますよ?」
私が適当なことを言っていると、静江の父が前に出てきました。
「静江、父さんが悪かった。戻ってきてくれ」
そう言って静江に土下座までし始めました。無様ですねぇ。父として、謝ることしかできないとは。
「…… 頭を上げて」
「静江……!」
「…… うるさい」
静江の言葉を許すものと勘違いしたのか、感激したようすで顔を上げた静江の父は、再び発せられた静江の声によって停止しました。
「…… あなたは私に、なにもくれなかった。だからあなたには、私を止める権利も、私に謝る権利もない」
とても十歳の口から出る言葉とは思えませんねぇ。
「静江…… なら! 俺はなにをあげればいいんだ!」
泣き落としのつもりでしょうか? 静江の父は、涙を流しながら土下座を再開しました。
「……」
静江がそれを軽蔑の目で見ていると、静江の父は突然顔を上げました。その時に静江の父がしていた目は、今でもよく覚えています。
ええそう、まるで…… 道端で宝石を見つけた子供のような……
「そうか…… わかった! 愛だな! 私には静江に対する愛が足りなかったんだ! どうだ! 俺の元に帰ってきてくれるか!?」
静江の父は、おそらく静江がいない間、ネガティブな感情を処理し続けたのでしょう。
自分に愛がなかったのだとわかるようになったのなら、それは素晴らしい成長だと思います。ですが……
「…… あなたの愛なんて、いらない」
静江の父は、静江の冷たい視線の言葉によって、再び硬直しました。
「…… なん、だって?」
「……」
静江はそれ以上、口を開きませんでした。おそらく、これ以上話したくはないのでしょう。
仕方ありませんねぇ。私が代わりに説明してあげましょう。
「もう手遅れだということです。静江が、あなたからいくら愛を貰ったところで、所詮は偽善ですからねぇ」
「な! お前なんかに、静江のなにがわかる!?」
静江の父は、私を鬼の形相で睨みつけながら、叫びました。
ほら、すぐに本性が出る。
「少なくとも、あなたよりは知っていますよ。静江が欲しがっていた愛も、私があげているんですから」
「お前なんかの愛を、静江が受け取るもんか!」
無茶苦茶ですねぇ。まあ、よく言いますからねぇ。馬鹿は論破できないと。
「…… 兄さんと私は家族。それを否定するような言葉は、絶対に許さない」
静江は私の味方ですからねぇ。こう言うのは当然でしょう。
「な……」
静江の父は絶句していました。まさか自分が責められるとは、思ってもいなかったのでしょう。
すると、後ろから私の母が出てきました。
「静江ちゃん、この人がダメだというのなら、私が愛を注ぐわ。それも嫌だというのなら、仁と一緒に戻って来て。それが一番でしょう?」
「理想的だ」と「それが一番だ」
この二つは、母の口癖です。完全無欠の理想主義者。
私が、この母の性格のおかげで、何度餓死しかけたかわかりません。なにせ、自分の理想と少しでも違うと、すぐに転職を始めるのですから。
ですから、私は最大の皮肉を、理解できるようにして語ります。
「母さん、あなたは素晴らしい思想を持っています」
「なら!」
「しかし、それは理想的すぎる。完全なる理想は、身近で大切ななにかを壊すのです」
私たちは感情を…… 愛を壊された。
「え……?」
思っても見なかったでしょうねぇ。まさか理想を否定されるとは。
「人は誰しも、妥協して生きていくものです。私はあなたのその性格に、静江は父の虐待に、それぞれ仕方ないと思って生活してきました。しかし、もうそれともお別れです。私たちは生きづらいこの人生に、自分で決着をつけます。
さようなら、最悪の人」
私と静江は、立っていた場所から後ろに倒れ込み、頭から崖を飛び降りました。