20180813.医者教育論
これは仮定の話である。もし私が結婚して子供ができて、その子供が医学(医療系)を志すなら、私はどこまでも鬼になるだろう。
私は医療の道を、命を直接背負う道をみっともなく怖がり逃げた人間だ。医学部進学をどれだけ進められても頑なに拒みつつけた。命の重さ、それを背負うことが怖くて。それを背負って心が折れることを想像して。私に背負える重さではないと逃げたのだ。
そんな私がこんなことを言うのは間違っているのかもしれない。いや、間違っているのだろう。
だが、それでも医学を志す人々には伝えたい。
医者を目指す。それは立派な心掛けだ。故に問いたい。「命を背負うことを考えた事があるか?」と。目の前にほぼ百パーセント救えない患者がいる。それでも患者と家族が望むのなら奇跡めいた確率に臨む勇気はあるか。逆に患者と家族が望むのならその死を共に看取る覚悟はあるか。
医術は仁術なり。医者とは職業ではない。心の在り様である。たしかに医者の免許があれば医師である。だが、本当の意味で「医者」と呼ばれる人物は「心の在り様が医者」なのである。免許とは、ただ医療行為を行うことが国に認められたというだけであってそれ以上それ以下の何物でもない。その免許が人となりを認めるものではないし、同時に医者としてふさわしいかを認めるものでもない。免許をもち心をもち、そして命を救って初めて医者となる。
人間に絶対などということはない。それでも「絶対」といわなければならないのが医者だ。一パーセント未満でも助かる可能性を上げるために嘘ではないが真実でもないことを言わなければならないのが医者だ。
患者が救えたなら「患者の力」があったから。患者を救えなかったのなら「医者の実力不足」というシビアな世界。ただただ結果だけが求められる。途中なんてどうだっていい、最終的に「命を救えたか否か」それだけが問われる世界。それが医者だ。
今は「救う」という言葉の概念が非常に広くなっている。「長生き=救う」という方程式が崩れている。これが完全に崩れるのは時間の問題だ。何が「命を救う」ことになるのか。自ら考えなければならない。
私の敬愛する老精神科医は言った。「私の実力不足で自殺した患者を何人も診てきた」と。いくつもの命を救っても、救えなかった命が相殺されることはない。いつまでもいつまでも重くのしかかり続ける。増えることはあっても減ることはない。
ただ単に「医療行為従事者」になるのは簡単だ。資格をとって就職して仕事して終わり。それでいい。だが「医者」は違う。一見すれば「医療行為従事者」と何も変わらない。変わらないが、ただ一点だけ。「心」が違う。誰かを助けたいという気持ちは同じかもしれない。一番の違いは「死」に対することだ。死んだ命を背負うか否か。まったくの理想論と言われるかもしれない。そんなことをしたら心がつぶれてしまうと。そう「死」を「命」を背負うとはそういうことだ。どこまでもどこまでも心を苛み傷つけてくるなかで「自分」を守れるのか。「医者」の資質はその一点のみだと思う。
さて、では「医者」を育てるためにはどうするか。
まず「いじめ」は断固として許されない。他者を傷つける事、それは「命を救う」という事と真逆だ。人間、たしかに他人を傷つけてしまうことがあるだろう。そういうときにきちんと謝り反省し同じ過ちを繰り返さないようにすることが大切だと思う。これができないなら「医者」足りえない。何故なら、命が救えなかったときに正しく反省し次に繋げることができないからだ。そしてなにより遺族への対応が礼を失したものとなるだろう。一方で「医者」としてあるんのではなく「医療行為従事者」としてあるのならば逆だ。他人を傷つけることに無関心な方が出世する。他人の痛みに無関心で平気で他人を傷つけられるという事は、院長選などで平気で自分の競争相手を蹴落とせる心の持ち主だからだ。きっと出世することだろう。
次に「趣味」をもつことだ。医者になるための勉学ばかりで手一杯では余裕がない。心に余裕がなければ自分を労わることもできない。自分を労われない人間がどうして他人の痛みを和らげてあげられるだろうか。だからこそ趣味をもち、その趣味に没頭することも必要だと思うのだ。
あとは「寝る」ことだ。やりたいことがあったとしても0時までには寝ること。床に着くではなく睡眠している事。やりたいことがあるならばその分早く起きて行動すればいい。なかなか眠れない日でもちゃんと寝れるというのは大事だ。それになにより体を作るうえで0時までに寝ることは大事だ。その一方で年末など年に数度は徹夜をさせる。これは規則正しくしすぎて夜に起きていられない体になることを防ぎ、徹夜することを覚えさせる。どうすれば徹夜でき次の日も乗り切れるのかしっかりと体で覚える。
そして医者を目指して「学ぶ」のである。「国語」ができなければ些細な言葉のニュアンスから病状をくみ取ることができない。頭の言語の思考体系を作るにも国語は欠かせない。そうして基礎的な国語が終わったところで入るのが古文・漢文だ。いままで習ってきた現代語と似ている点がある一方で異なる価値観をもつ言葉。違う文化・価値観をもつ人間を理解するに必要なスキルを学ぶことができる。「算数・数学・物理」は理系として欠かせない。学問は測ることから始まった。学問の根底となす価値観を得るためにこの三科目の習得は必要である。もちろん「化学・生物」といったものも医学には欠かせない。生命は体内で無数の化学反応を生じさせて動いており、それをひとつの反応に注目する化学、個体として捉える生物は当然の如く欠かせない。そして「英語」である。基本的な言語の思考体系ができたところへ、まったく異なる思考体系からなる言語を理解する。多種多様な言語を習得するための土台となる技術を学べる。さらに「社会」は文化について学び取ることができ広い視野をもって物事を見ることができる。社会の仕組みについて知らなければ患者の社会的地位などを考慮して診察することができない。「美術」は空間想像力を高めてくれる。生物は立体物だ。だが私達は平面の写真などからしか情報を得られない。疑似的に立体的な情報を得ることができるがそれも上手に捉えられてこそだ。そうした立体的な空間把握を得るために必要である。「音楽」とて捨てていい物ではない。生物は様々なリズムをもっている。心臓の鼓動に始まり各種反応の連鎖。こうしたリズム感を得るためには必要なものだ。また体力をつけるというのも必要な事だ。医療は体力勝負な面がある。スタミナがあることは大切だ。そういった点で「体育・武道」というものにもしっかりと取り組むことが大事である。疲れている中でどうすれば集中できるのか、その方法は体で覚えるしかない。何一つ捨てていい教科などない。それが「医者」を目指す難しさだ。最もその科目で「学ぶ」べきことさえ学べたならばそれ以上深入りする必要もないというのも事実である。
何故どうして学ぶのか。決してテストで高い点数をとるために学ぶのではない。学んだ結果をテストで確認するのだ。必要な箇所を正しく把握できているかを確認するのがテストである。自分が正しく理解できている場所、理解が足らない場所を示してくれる指針である。
これほど多くのことをするのだから時間的余裕はない。そこで取捨選択をするのではなく「効率化」するのが「医者」というものだ。自分にとって「科目ごとに理解しやすい勉強法」を身につけ、大いに「趣味に没頭」し、友人と遊び、よく「睡眠」をとる。こうして上手な「時間の使い方」を学ぶというのも「医者」になるためには必要なことだ。
また「好奇心」というものも大事である。常に新鮮な情報を手に入れる。古いものに縛られず新しいものを手に入れる。一方で温故知新。古いものの価値を知りしっかりと取り入れる。古いものと新しいものへの好奇心。これもまた必要なことである。医学はまだまだ発展途上。故に現状でもっとも正しいであろう治療法に注目していかなければならない。何十年と「医者」をしていくと途中で大きな転換期が来ることもあるだろう。そうしたときに乗り遅れずにしっかりと地に足をつけて対応するためにも様々な物事を知っておくということは重要なことである。
実に多くのタイプの医療関係者が存在する。果たしてその中に何人の「医者」がいるのか私は知らない。だが医療を志すならば是非とも「医者」になって欲しいと思うのだ。決して「医療行為従事者」となってはいけない。それはもう「患者が必要なときに使用する医療器材」と何も変わらないものなのだから。いや、むしろ下手に意志がある分だけ厄介な存在かもしれない。




