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信長出現

 拝殿前の廊下を奥へ進むのは、これが初めてのことだ。しかし、ここが現実の場所ではないことくらいもう分っている。少々のことでは驚かないぞと思いながら進んだ。

 拝殿のすぐ横に仕切りと思われる敷居があった。その敷居を跨いだとたんムカッと吐き気を感じた。ほんの一メートルほど先にある敷居までそれが続く。かるい船酔いのような感覚だ。が、次の敷居を跨ぐと嘘のように吐き気がおさまった。まさか、また別の空間に移動させられたのではないだろうかと神経がビリビリ張った。

 行く手に外光が射している。坪庭でもしつらえてあるのだろうと思いながら進むと、ようやく全貌が見渡せた。

 廊下は正面の突き当たりで左に折れ、更に左に折れる回廊になっていた。その間に挟まれた庭は、本来の意味での壷。まさしく壷庭だ。その長手方向の両端に木が植わっていて、片側は紅梅、もう片側は白梅の花が咲いている。

 ここはどこなのだ。半袖姿で寒くない気温なのに、早春の花が咲いている現実。梅雨明けにもかかわらず、穏やかな陽射し、爽やかな風。土地が広がったの、身体が縮んだのという単純なことではなく、季節まで無茶苦茶になっている。ここまでくれば、もう私の常識では推し測れなくなってしまった。

 ギシギシと音をたてながら進んだ先に、戸を開け放した座敷があった。


「いやぁ、習字のお稽古させられてるわ」

 一足先に廊下を進んだ百合は、そう言いながら廊下を進んだ。手招きされるまま行ってみると、葦戸の隙間から室内の様子がうかがえる。狭い庭に面した小座敷では、差し込む日差しの下に文机を挟んで二人の女性が対面していた。

 片方が実乃莉であることは間違いないが、対面する女性は初めて見る顔だ。それが、我々の登場を怪訝そうに見た。

「何者か。立ったままとは無礼であろう」

 小柄ななりに似せず、張りのある凜とした声だ。幾分地味な柄の小袖に幅の狭い帯。束ねた髪先は、正座している足裏に触れていた。

「これは、成田の……甲斐姫どすか?」

 すっと正座した百合が訊ねると、女性は鷹揚に肯いた。

「みなさん、こっち。こっち、おいない」

 百合は祖父母と両親を手招きして実乃莉の後に並ばせた。


「実乃莉ちゃんの養い親。甲斐姫どす」

 真面目くさって百合が紹介したのだが、真に受ける者など一人もいない。いくら不思議を見せつけられたとはいえ、ずっと昔に死んだ者を出現させるなどありえないと、頭から否定した。

「宮司さん、こんな真昼間から怪談ですか? ぼちぼちそんな時期だけど、勘弁してくださいよ」

 きっとこれは百合の仕組んだ芝居に違いない。演劇かぶれの学生でも雇って、更に信じこませる魂胆だろう。ただ、そんなことは見抜いているぞ。祖父の言葉の中には揶揄が混じっている。

「阿呆な、ほんまもんのお(ひぃ)さんどすえ」

 むしろアタフタしているのは百合のほうだ。姫武将が出現したというのに、敬意を示すどころか冗談だと切り捨てられ、立場をなくしてしまったようだ。


「やめてくださいよ。養い親っていったら、はるか昔に死んだはずでしょう? だったら、ゆ、幽霊じゃないですか。それにしちゃあなんだ、あまりに生々しいや。なぁ」

 祖父は、ズケズケとしたもの言いをする性格のようだ。自分が思い描く、いわゆる亡霊とはまったく違うのが納得できないらしく、妻に、そして息子夫婦にも同意を求めた。

 実際、甲斐の右手には小筆が握られている。壁や障子をすり抜ける幽霊なら、物を持つこと自体ができないはずだ。それに、化粧っ気のない顔は瑞々しい肌が張り切っていた。

「せやから、ここはほんまの場ぁと違いますよって、昔の人かて普通の身体をもったはる……、信勝さん、あんさん、信長さんと会ぅたことはおへんやろ。ちょうどえぇわ、実験台になったげて」

 口で説明しようにも、あたまから否定されてしまっては為す術がなく、苦肉の策として、信長を出現さそうと考えたようだ。

 本当のところ、私だって俄かに信じがたい。しかし、困りきっている彼女に貸しをつくるのも得策と、言うがままにしてやることにした。


「百合さん、変なことは厭だからね」

 そう念を押すと、ただ黙って鏡に顔を映すだけでいいと百合が言った。

 小座敷の庭を向いた面に小さな神棚がしつらえてある。いつも進物が届くのはお宮の拝殿で、そこには差し渡し一メートルはある階段が何段かあって、どこもかしこも綺麗に磨かれている。それに較べ、小座敷の神棚は十分にすすけていた。一般の参拝者が立ち入らないので掃除がおろそかなのか、もしかするとずいぶん昔から祀られてきた社なのかもしれなかった。その小さな社の前に、少し黄ばんだ鏡が鈍く光を返していた。

「この鏡だね、顔を映すだけでいいのだね」

 念のために訊ねてみると、なんでもいいから早くしろとばかり、手先を激しく振っていた。


 こんなのが鏡として機能するのだろうかと首を傾げながら、私は鏡の前に立った。形こそ真ん丸で鏡の格好をしているが、間近でよく見ると表面がヤニのようなものでくすんでいる。鏡といえばガラス鏡しか知らない私は、金属製の鏡なんてあまり意味のないものだと思っている。きれいに磨いてあるならともかく、こんなに曇っていて顔が映るか甚だ疑問だ。これならむしろ水鏡のほうが良いと思ったくらいだ。

 これで映っているのだろうかと、顔の位置を上げたり下げたりしても、滲んだような影が表れては消えるだけだった。


「いつまで覗いておるつもりか」

 背後から甲高い声がした、しかも間近だ。その声は、コメカミを突き刺す激痛を伴う、信長の声そのものだ。しかし信長の姿など見たことがない私は、声が後から聞こえることを信用していない。信長は亡霊のようなものだから、私の頭の中でしか存在できないものだととらえているからだ。が、その一切をぶち壊すかのように、真後ろで声がした。

「其の方、父に挨拶もできぬか」

 信長だと名乗ったときは絹の咽から発した声だった。しかし幾度か頭の中で鳴り響いた声と同じものが背後から聞こえる。もしや、信長なのか?

 百合の言ったことを、どこか冗談の延長と軽い気持ちで捉えていた私は、ギリッギリッと首を捻じ曲げていった。

 視界に端に、日焼けした顔がゆっくり現れた。思い描いていた肖像画と似ていなくはないが、髭はなく、まだ三十代の若々しい顔だ。細い目、薄い唇。鼻はいくぶん上向きで、顎は小さめ。眉は、あるか無いかというほど薄く、眉間に大きな黒子がある。広めの額は剃られた月代につながり、頭頂の先に茶筅のような髷が突き出ている。

「なんとした、あまりマジマジと見るは無礼であろう」

 にこりともせず言い放つや、手にした扇子で私の肩をピシリと叩いた。

 この人物が、織田信長なのだろうか。嘘とも本当ともわからないまま、私は深くお辞儀をした。


「おお、仲人をしてくれたお女中、依り代を務めてくれたお女中」

 百合に、そして絹に向かって会釈をしたところをみると、私の養父ということで間違いないのだろう。しかし、オカルト番組でもあるまいし、ずっと昔に死んだ者が出現するとはどういうことだ。しかも自分と同じく肉体をもっている証拠に、打たれた肩がまだジンとしている不思議。


「織田、信長さんどす」

 百合が紹介したとき、実乃莉も含めて山田一家の全員が固まっていた。私自身は信長がどうやって現れたのかを見ていないのだが、その瞬間を目撃してしまったために、完全に固まったようだ。

「で、でた。ゆ、ゆうれい」

 祖父は、そう言ったきり口をパクパクさせ、祖母もその場に崩れてしまった。両親も真っ青になってブルブル震えているし、実乃莉は実乃莉で、正座したまま後ずさりしている。

 それにひきかえ、どうして自分は驚かないのだろうか、それが不思議でもあった。


「そうかそうか、儂が目利きは当たっておった。信勝は剛の者だ。皆が腰を抜かしておるに、平気な顔をしておる。なかなかに胆がすわっておる。それに、(せん)は呻き声すら出さなんだこと、褒めてつかわす」

 再び扇子で私の肩をポンと打ち、庭を背にして廊下に座った。


「信長さん、そんなとこやのうて、こっちへ」

「かまわん。そのような柔らかいところは尻が痛ぅなる。風も吹くゆえ、ここが良い」

 百合が座敷に誘っても、柱に背をもたせかけておいて、片足を立てた。着ているものは麻だろうか、太い棒柄に染め抜かれた小袖が、擦れるたびにサラサラと乾いた音をさせた。

 実際のところ、この人物が誰なのかは誰にもわからないのだが、堅苦しいことは好まないようだ。自分が気儘にするのだから、皆にも気儘にせよと言ったきり口をつぐんでしまった。


「信長だなんて、下手なことを言ったら殺されるのではないかね」

 祖父の背に隠れるようにして、祖母が不安を口にした。

「それはないでしょう。そんな人物なら養父に選ばれるわけないでしょうし、実乃莉ちゃんを救えたのも信長さんのおかげですから」

 そう言うと、祖父母と両親の目が一斉に信長に注がれた。

 そもそも、絹を救えたのも信長の耳打ちのおかげだし、実乃莉が狙われているとわかったのも信長のおかげだ。ましてや全力以上で走ることができたのも、信長が私の身体を活性化させたからに違いないからだ。そう説明すると、四人がおずおずと頭をさげた。


「かまわん。それより信勝、まだ身体が痛むであろう。手当てしてやるゆえ、これへまいれ」

 私が言ったことなど気にも留めていない様子で、なんだか機嫌よさそうに廊下を指差した。あんな酷いことからまだ四日目なので、動かしようによっては筋肉が悲鳴を上げるのは事実だ。喚けば楽になるというのなら喚きもしようが、そんな醜態を曝したところで楽になどなるわけがない。ならばぐっと堪えるしかないと今でも思っている。実際のところ、女房が不在の間の出来事で良かったと思っているくらいだった。だから当然、信長の手当てなど受けるつもりはなかった。


 来い、行かない。来い、遠慮する。来い、勘弁してほしいと何度かやり合った末にとうとう癇癪をおこしたのか、信長が廊下を平手でバチンと叩いた。凶暴だというイメージが拭えないものだから仕方なく彼のすぐ近くに進み出ると、その場でうつ伏せになれという。


「本当に大丈夫ですから」

 それが嘘だというのは、息を止めなければ伏せることができなかったことで皆にばれてしまっただろう。

「やせ我慢をするでないわ。イザという時に動けぬでは面目なかろうが。手当てくらいはしておかねば、……これは酷う打ちつけたものだ。これで呻き声を上げなんだは見上げたものよ。よし、すぐに治してやるからな」

 問答無用でシャツを剥ぎ取った信長が一瞬絶句した。それほど酷い痕になっているのだろうか。他の誰も声を発しないのが不満でもあったが、とにかくじっとしているしかない。

 パチンと両手を打ち鳴らす音がした。そして素早く擦り合わせる音が暫く続いた後に、熱いものが押し付けられた。その大きさ、柔らかさからして、きっと手の平だろう。それにしても、こんなに熱くなるのかと思えるほど熱をもっていた。

 硬いものが当たると鈍い痛みがぶり返していた。それが背中を横切っているのだが、熱い手の平が情け容赦なく痛みの帯を何度も擦った。すると、知らぬ間に痛みが引く。やがて背中全体がぽぉっと温かくなってきた。


「よし、痣が消えた。程なく痛みは引こう」

 満足げに言った信長は、最後に背中をパチンと叩いた。


「ありがとうございます。おかげで痛みが消えました」

 起き上がって礼を言うと、興味が薄れたかのように、顎から首筋をポリポリ掻いている。もしかすると、信長は照れ屋ではないかと思った。


「あの痣、どうしたのですか?」

 祖父が声を震わせていた。実乃莉を助けたときに、柵に打ちつけた痕だろうと答えると、祖父はあらためて頭を下げた。

「あんな酷い傷があるのに、よくまあ実乃莉を送り届けてくださったとは」

 祖母も頭を下げ、それにしてもと言葉を継いだ。

「いきなり人が現れて、織田信長だっていうじゃないの。こんな顔じゃなかったよ、肖像画。それにさ、あんな酷い痣がみるみる消えていくんだから、たまげるったらないよ」

 何もないはずの神前にいきなり三方が出現しただけで、大騒ぎするような不思議だ。それがこんどは生身の人間が出現した。その瞬間を見てしまったのだから、度肝を抜かれただろう。


「信長さんのことを納得しやはったのなら、甲斐さんかて本物やゆうのがわかってもらえますわなぁ」

 どうだと言わんばかりに、百合は得意げだ。

 一時は蚊帳の外に追いやられたかっこうの甲斐は、自分に注がれる視線に変化を感じたようで、幾分表情が和らいでいた。



 山田家の者が状況を理解するまでにしばらくかかったが、信長にしても甲斐にしても害意などなさそうなことが判ると抵抗感が薄れるようで、ぼつぼつと会話が交わされた。心の垣根が取り払われると普通の相手のように話せるから面白い。話すうちに冗談が混じるようになって、やがて話は実乃莉の日常生活になった。


「なにを益体(やくたい)もないことを話しておるのだ。左様な話などいつでもできようが。なにゆえ死人が続いたかを突き止めるが先決。されば、その娘が襲われた意味が見えてこよう」

 信長の発した一言に、私はハッとなった。そもそも繰り返される踏切り自殺を調べることが発端だったはずだ。その途中で実乃莉が襲われるのに遭遇した。そして、それを助けたことによって、死んだ者の身元が判明しただけだ。まったくの偶然なのか、それとも誰かの意志によるものなのか判らないままなのだ。

 誰しも気楽なことが楽しい。つい、目的を忘れて楽な方へ傾こうとする。それを信長は気付かせてくれた。


「じゃあ話を戻すけれど、自殺したことになっている人たちに共通することはありませんかね」

 私たちはまだ自殺した人について詳しいことを何も知らない。もし、共通したことがあるとすれば、実乃莉が襲われたことと関係するかもしれないと私は思った。

「共通ったって、なぁ」

 祖父母は顔を見合わせていた。菊屋は酒屋、高見屋は米屋。営業品目が違えば当然のことに仕入先も違う。付き合いのある業者は同業だろうし、商店会の会合に出席するのもまちまちだった。ましてや、城戸卓司という人は、定年まで会社務めをしていたのだから商店会とも関わりはない。


「それ、手がかりが出てきたではないか」

 つまらなそうに信長が呟いた。

 えっと問い返してみたが、信長は口を開こうとしない。暫く待っていると、意外なことを言った。

「其の方も気が利かぬ奴だのう、口寂しくなりはせぬか? 最前より待っておるに、食い物が出てこぬとはなにごとか」

 要は腹がへってしかたないということだろう。そういえば昼食を摂ってから随分話し込んでいた。

 そのときのことだ。寿司でも出前してもらうよう絹を使いにやろうとしたとき、後で勘定をするのも綺麗でないので料金を前払いさせようとした。粒金を売った残金を封筒にしまってあったので、そこから札を取り出すと、その一枚を信長がひょいっと取った。そして、これはなんだとヒラヒラさせたり透かしたりする。それが現代の銭だと教えると、ただの紙ではないかと呆れ顔になった。

「なるほど、それではあのような粒金では使い道がないというのだな。それにしても、ただの紙が銭とは、呆れてものが言えぬ。ならば、紙の銭を遣わす」

 懐に突っ込んだ手を無造作に出すと、帯のついた新券を鷲掴んでいた。


 死んだ者に共通するてがかりを信長が示唆したのは、届けられた寿司を一つまみしてからだった。しかも、こんな旨いものを食べているようでは、病気になって当たり前だと小言を言ってからだ。

「あれも違う、これも違うと、着ているものを脱がせてみよ。殊に商人(あきんど)ではない者がおるなら好都合だ。商いのことではないからのう。また、会社とやらも関わりあるまい。そうして身ぐるみ剥いだら何が残る?」

 せっかく奮発して上握りを届けさせたというのに、信長は付け合せに注文した海苔巻きを喜んだ。その信長が、次の一つを取って祖父につきつけ、もっと単純に考えろと言った。

「でも、それではどうして実乃莉が」

 祖父は気後れしているのか、一つか二つ食べただけで、もっぱら熱いお茶を啜りながら反論した。

「それは考えるな。とにかく、三名の者が重なることは何だ」

 口の中に巻き寿司を入れたまま反論を一蹴した信長は、吸い物を啜って塩味が濃いと顔をしかめた。なら飲まなきゃいいのに、汁椀はほとんど空だ。食べる合間に話すものだから、途切れとぎれなのだが、それだけに無駄を省いた言い方をした。


「そういうことなら大規模店反対委員会かもしれないけれど、それと実乃莉は関係ないのだから……」

 祖父は、ふっと気付いたように呟いた。だが同時に、それと実乃莉が重ならないことを気にしている。

「孫娘のことは忘れよ。してその三名、集まりではどのような役どころであった」

「まあ、盛んに不満を言っていましたねえ。特に城戸さんは積極的だった。あれが組合のやり方かねぇ、理屈で攻めようとしていましたね」

 大きな湯呑を持ったまま祖父が答えた。

「あるではないか、重なるところが。では、別のところで死んだ者のことを考えてみよ。同じように重ならぬか?」

 機嫌よく応じた信長は、海苔巻きを全部平らげたことに気付き、同じ海苔で巻いてあるから安心したのか、鉄火巻きを口に入れた。そしてモグモグと噛んだとたんに鼻をおさえ、湯呑を傾けてまた顔をしかめた。

 茶のような色をした液体が並々入っていて、ほんのりと茶の香りもする。しかし持つには熱すぎて冷めるのを待っていたのだ。その間に他の者が啜るのを見て、湯の代わりに飲むものだと理解はした。しかしどんな味がするやら分らずに手を出しそびれていたのだった。信長にすれば、茶は心を落ち着けるためのものであり、食事のときに咽を潤すものではない。食後ならば喫みもするが、それにしては色が薄く、量が多すぎた。

 辛いのは治まったが、なんというシャビシャビの茶だ。口洗(くせん)茶でさえもっと芳醇な薫りがするのに、これは茶の色をした湯ではないかとブツブツ独り言を言った。


「荒物屋の石亀さん、お好み焼き屋の北村さん、餅屋の横山さん。そういえば、どなたも強く反対していました」

 そう言ってから祖父は表情を硬くした。

「なんですか、委員会で強く反対していた人ばかりということですか?」

 言い終えてうぅむと低い唸り声を上げた。


「山田、其の方はどのような役どころだ。他に号令する立場か、従う立場か」

 それにひきかえ、信長の話し方はいたってのんびりしている。自分に関係ないといってしまえばそれまでだが、それくらいのことでは動じないふてぶてしさがある。

「そりゃあ、商店会の役員だからねえ……」

 厭そうに祖父が応じたことで実乃莉が襲われた理由が浮かび上がってきた。祖父の代わりに実乃莉を襲うことで、商売を続ける意欲を殺ごうとしたとも考えられる。もしその推測が的を射ているとすれば、委員会の主要メンバーを排除して結束を乱そうとしていると考えられる。が、何のために。


 経営者は押並べて年老いている。祖父のところもそうだが、跡継ぎは別に居をかまえ、定年まで会社勤めをするだろう。商店街が賑わって、客がどんどん来れば別だが、跡継ぎさえもが居つかないような土地で商売を続ける価値があるだろうか。となれば、遠からず店をたたむのは自明のはずだ。あと十年もすれば自然にシャッター街になるだろうに、どうして性急に事を運ぼうとするのだろう。それが納得できてこそ、誰かが意図して血生臭い暴挙におよんだと推測できるのだと私は思った。


 そして、買い取った土地をどうしようとしているのかを知りたい。

 商店街ということから考えて、その一帯の用途区分は商業地か住宅地だろう。新たに商店を開業するのだろうか。それとも住宅として転売するのだろうか。もし住宅として転売する場合、リフォームしてそっくり同じ広さの家として売るのだろうか。それとも分筆して新築を二軒建てるのだろうか。

 一軒あたり八十坪の広さがあると祖父は言った。土地の価格が坪四十万だとすると、土地代だけで三千二百万。それにリフォーム代がかかり、土地にも工事のも業者の儲けを上乗せされる。実質的に給料が目減りするご時世、勤め人にはおいそれと手が出ない値段になるだろう。分筆するとなると、更地にして新築ということになるが、家の品質を匙加減すれば、勤め人にも手が届くかもしれない。

 いずれにせよ、買い取った物件を遊ばせておくはずはなく、改築なり新築の申請をしているのではないかと思った。

「山田さん、商店街を担当している役所って、地域振興課ですかね」

「あぁっ? そうだけど、それが?」

 ついさっきまで事故や自殺の話をしていたものだから私の問いかけは意外だったようで、祖父はきょとんとしていた。

「どうだろう、心安い人はいないですかね。というのはね……」

 考えていたことを説明すると、それも理屈だと呟いて大きく息を一つ吐いた。


「よし。明日は休みだからなんともならないけど、月曜の朝には探りを入れてみますよ」

 食べるでもなく箸を動かしていた祖父は、自分にできそうなことが見つかったからか、しっかりと顔を上げてそう言った。

 これで少しは方針がみえてきたと、理由もなく思う。次に何か事件がおきたら、それはその時に考えればいいや。なんだか気持ちが軽くなった気がして、私は半分ほど残った寿司桶に手を伸ばした。


「それが何ですの? 業者やら役所やら、話が広がったのはわかんのどすけど、そんなんで解決しますのんか?」

 男たちの話に嘴をはさまず、ただ聞き役に徹していた百合が皮肉な言い方をした。

「いや、解決なんかはしませんが、とりあえず情報を集めなければ対策を講じることはできないでしょう」

 これだけ話し合って導いた結論だと私は思っている。だから百合の真意を考えることもなくすぐさま返事をした。すると、百合の片頬が吊り上った。

「そうどすか……。ほな、情報を集めてる間は、誰ぁーれも狙われへん……、そういうことどすな?」

 きつい眼差しで我々三人を順に睨みつけ、なさけないと小さく呟いた。

「ちょっとお(たん)ねしますけど、何をどうしたいんどすか? 大事なことやさかい、きっちり聞かせてもらいまひょ」

 三分の一ほど食べた寿司桶を脇にやった百合が、小柄な成りにもかかわらず我々に正面切って挑んできた。


「私は、商店街を勝手にかき回されたくないだけで」

 祖父としての正直な気持ちだろう。何等かの理由で商店街を壊されたくない。それ以外に理由があるかと言いたげだ。

「私は、商店街が崩壊するならそれも仕方ないと思います。あと十年もしたら店をたたむところも多いと思います。だから、自然にまかせればいい。成り行きにまかすしか方法がないと思います。なので、外部から圧力をかけることには反対です」

 我々の町も少子化や高齢化により、自力で再生できなくなっている。これを限界集落と呼ぶのだそうだ。とすれば、商店街だけが活き活きしていること自体が不合理だ。町も商店街も我々と同じく老化する。だったら、そっとしておいてほしいというのが、私の思いだ。

「儂は、市を奨励した。問屋を廃し、心ある者が気兼ねなく市で売ることを奨励した。戦とは無駄に銭をばらまくものだ。その銭で民が潤えば、人が集まってこよう。さすれば豊かな国となる。それがため、撰銭令を出した。……どうやら信勝は儂と背中合わせのことを考えておるようだな」

 信長は彼なりに自分が出した布令の自信がある様子だ。

 百合は、じっと三人に厳しい眼差しを注いだまま、ほんのりと顔を赤らめていた。

「なんやの、あんたら。いっぱしの男はんやて思うてたけど、まるっきり子供やないか。ようそんなんで町歩けますなぁ、恥ずかしぃもない」

 じっと溜めにためた言葉がそれだ。彼女は殊のほか怒っている。祖父はもちろんのこと、私も唖然とした。正面から見据えられている信長も、どう対応すれば良いか困っているようだ。


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