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欲には勝てぬ

 黙って親の話を聞いていた百合はほんの少しの間目を閉じていた、そしてパッチリと目を開いて私に小さく頷いてみせた。

「お母さん、どうやら心配いらないようですよ。ほら、百合さんが頷いた」

 辛そうに状況を説明している母親にそう告げると、はっと百合に向き直った。そして、どうか、どうかと頭を畳にこすりつけた。一方、父親は懐疑的なようだ。無理はない、それで当たり前なのだ。

「ちょっとぉ、やめといとくれやす。うちが何かするのんと違いますしぃ。神さんがな、えぇ男を連れてきたる言うたはりました。ほな、養子縁組しはりますか?」


 子供の病気が良くなるというのなら、母親なればこそ縋りたくもなるだろう。そういう人が悪質な宗教に絡め取られ、抜き差しならなくなるのではないか。母親の姿を見て、ふとそう思った。

 とはいえ、父親も敢えて反対しないので、早速儀式を執り行うことになった。


 千早の用意を言いつけられた絹が私の横にやってきた。

「信勝さん、うちなぁ、さっきからきりきり舞いしてんのどすえ。少しは手伝(てっと)ぅてもらわんと」

 耳元でこそっと囁いて盆を差し出した。見るとそこに信長がくれた袋と麻糸が載っている。どうやら御守りを作れということのようだった。



 これから何が始まるのか、少年の両親はもとより実乃莉の両親や祖父母も興味津々のようで、誓紙を作る百合の手元に釘付けになっていた。


「菅原さん、誰が親になるのでしょうか?」

 祖父が率直な疑問を口にした。いかに形式的とはいえ誰の子になるのか、親であれば気がかりなのは当然のことだ。しかしそれは、私に訊ねられても返答のしようがないことだ。仲人である百合にも知らされていないことだと答えると、皆の顔が強張った。どんな極悪人と縁組みさせられるやらという不安がいっぱいだろう。私の返事に納得したのか、しないのか、一座の者は百合が書く文字を追っていた。


「信勝さんに見劣りせん男を親にしたるて、神さんが言うたはります。心配せんといとくれやす」


『子の生ある限り影に陽に守護致すべき事を、大国主大神の御前に御誓い申すもの也……』

 最後の一行を書き終えた百合は筆を置くと、不安そうな親にそう言って身支度を整えに下がって行った。

 


 額当(ぬかあて) 格子(かくし)に浅葱の袴。右の手に杓を持った百合が、威儀を正して廊下を進んできた。


 神前に向き直り、そこで深く一礼して神前に進む。正式に神事を執り行うのかと思ったら、榊を手にして廊下へ戻ってきた。そして誓紙を書いていた席に落ち着いた。


 涼しげな千早をまとった絹も、神前で一礼しただけでこちらへ来た。


 少年を呼び止せた百合が、辛かったら座ってかまわないと言いおいて椅子の前に立たせると、絹は心得たもので机を挟んで少年と対面する。やがて独特な抑揚をつけた祓い詞の奏上が始まった。


 どうやら私のときには手抜きをしたものとみえる。もっとも、百合にとってこれだけの人数に注目されているのだから気合が入ったことだろう。それに、お宮の宣伝効果を期待したのかもしれない。


 そして、やはり私のときには省いた祝詞を奏上した。


 ところが、儀式めいたものはたったそれだけで、すぐに互いが名乗りあった。


 こんなこと、百合と絹が示し合わせた猿芝居に映るに違いない。なるほど実乃莉という前例はあるにせよ、効果が期待できるには時間がかかるではないか。それに、事が重大であればあるほど、人は権威めいたものを求めるものだ。対人関係は、第一印象で決まってしまう。営業で生きてきた私には、それは絶対に譲れないことだ。


 百合の信用と、両親の安心を共に満足させる方法はないかと考えた私は、あることに気付いた。それは、養い親からの礼物である。何もなかった神前に、いきなり何かが出現したなら、きっと両親は驚くだろう。猿芝居のように見えるが、本当に不思議なことがおきていることを実感するだろう。納得するだろうと思った。


「神前に何もないことをよく見ておいてくださいよ。そして誰かが神前に近づくかも見ていてください。そうしたらきっと納得できますから」

 既に祝詞が始まっているのに私がしきりと囁くものだから、皆が怪訝な表情をした。けれども一様に神前に目をやった。何も置いていないことを、きっと目に焼きつけたはずだ。


 少年は、宮迫正行と名乗った。年齢相応に大人っぽい声質をしてはいるが、か細い声だ。

 対する絹は、自分のことを真田安房(あわ)と名乗った。張りのある野太い声だ。

 真田安房……、さなだ……。まてよ、真田昌幸がたしか安房守(あわのかみ)と名乗っていなかっただろうか。小国の主でありながら軍略家だった真田安房守昌幸ということか。信長に見劣りしない男だということは、十分に肯ける気がする。そしてこう続けた。

「真田安房である。なんと奇遇な、まさゆきとは儂と同じ名ではないか。なれば、昌の一字を与えるゆえ、これより昌行と名乗るがよい。骨は細そうだが、なかなか賢そうな面構えだ。追々様々教えてやろうほどに、よっく学ぶがよかろう」


 そして最後に互いが署名する。信長のときがそうだったし、甲斐のときもそう。そして今も流れるような筆の運びを絹は披露してのけた。文字の勢いや癖、濃淡をこれほど違えて書けるのかと感心するしかない。


 初めて縁組みの儀式に立ち会った親たちは、あまりに呆気なくそれが終わったからか、顔を見合わせていた。詐欺であれば殊更権威めいたものを演出するだろうに、威厳もなにもなくて、これではただの自己紹介だからだ。人が困っているのを弄んでいると勘繰られてもしかたないだろう。だが一方で、実乃莉の体調の変化を現実に見ているからややこしい。目の前の出来事をどう受け止めれば良いか戸惑っているようだ。


 

「皆さん、誰も席を離れていないことを見ていましたよね。神前には何もなかったですよね?」

 そう念を押すと、なにを莫迦なことを言っているのだとばかりに冷ややかに私を見た。そして反動で神前に目をやって異変に気付いた。たしかに何物もなかったはずの神前に、いくつもの三方が並んでいたのだからいけない、ざわざわと騒がしくなった。

 


「すんまへん、これは本庁に納めることになってますさかい」

 絹が下げてきた三方がテーブルの上に並んでいた。飴色に使い込まれた一番大きい三方を百合は脇によけた。残った三方は三つ、どれにも丁寧に袱紗が掛かっている。

「仲人の謝礼と、依代を務めた礼を頂きます」

 三つの内から大きい順に二つをよけて、残った一つを少年の前に置いた。


「これは昌行はんへの支度金どすやろ」

 そう言って袱紗を取るよう促した。


 三方の上には、タバコの箱を一回り小さくしたくらいの包みが二つと、毛皮で作った小袋が一つ載っている。

 昌行が袋を開けてみると、白と緑が綺麗に混じった石が出てきた。犬歯のような形をしたそれには小さな穴が穿ってあって、首にでも掛けるためか革紐が通してある。


「いやぁ、勾玉やんか。昌行はん、えぇもん貰たなぁ」

 百合が歓声を上げたのも無理はない、親指ほどもある大きな翡翠の勾玉だ。

 次に紙包みを解くと、皆が目を見張った。時代劇でおなじみの小判。切り餅と呼ばれる、おそらく二十五枚の包が重ねてあったからだ。


「これやけど、せっかく貰たんやけどなぁ。……これはお渡しでけまへん。欲や意地悪やのうて、こんなん持って()んだら災いの元でおすからなぁ。諦めておくれやす」

 顔を曇らせて百合が呟いた。

 こんなものを持って帰れば、きっと他人に見せたくなる、自慢したくなる。すると必ず無用な嫉妬に駆られる者を生み出し、引き寄せる。そうすれば平穏な暮らしに波風がたたないとは限らない。そんなことより健康を取り戻すほうがどれだけ良いか。だから置いてゆけと言った。

 ところが、理屈で抑えきれないのが欲だ。小判という宝を見てしまったからいけない。特に父親は、病気を治すという目的を忘れて、もの欲しそうな顔になっていた。


「たしかに仰るとおりでしょう。ですが、それは息子にくれたものなのでしょう? なら頂いて帰ります。これまでも治療費が家計を圧迫していましたし、息子の進学も考えてやらねばなりません。そのお金があれば助かります」

 横で妻が袖を引いて黙らせようとするのを振りきり、父親は頑として持ち帰ると言い張った。


 初めこそ小首を傾げて父親の考えに耳を傾けていた百合は、いつのほどにか首を真っ直ぐに立て、冷たい目をするようになった。

「事情はお察ししますけど、息子さんの治療が生活費を圧迫してるて言わはりましたわなぁ。これで病気が治るんやったら、治療費がいらんようになるわけや。ほしたら生活かて楽になるはずや。それに、なんですて? 息子の進学のためにお金が必要? そんなん、世間の人は皆自力でやったはる。親の務めやおへんか? あんさん、赤の他人に貰たお金で上の学校にやりますのんか? これ、筋違いちゃいますか?」

 四十男を相手に、まだ小娘のような百合が皮肉な言い方をした。

「いや、だけど……」

 それでも何か言いかけた父親を、母親は厭そうな表情で押しとどめ、何度もすみませんと詫びた。


 困ったなと呟いた百合は、すっと立ち上がって春慶塗りの文箱を持ってきた。

「どないしてもて言わはるのなら、一枚づつ差し上げます。ただし、絶対に誰にも言わんこと、見せんことを約束してもらいます」

 百合としてはそれが精一杯の譲歩なのだろう。それにしても文箱を開けて見せるつもりだろうか。この場にいる者が奪うとは考えないのだろうかと百合を窺ったが、平気な顔をしている。

「だけど、息子が貰ったのは事実なんだから」

 いい加減にやめてと母親に強く制止されながらも、やはり父親は未練を断ち切れないようだ。


「宮迫さんでしたよね。どうにも二人の意見が噛み合わないから、ちょっと言わせてくださいね」

 百合に過激な発言をさせないために、私はつい口をはさんでしまった。


「商売の常道というものを知っておられますよね? 仕入れ値より安く売るなんてことは絶対にありません。千円の品物を二千円で売るのが商売です。初穂料はいくらでしたか? そう、八千円です。決して少ない額ではありませんが、つまり、お宮の純利益は八千円なのです。ところで、金の値段をご存知ですか? 相場が上がったり下がったりするから、ここは単純にグラム五千円としましょうか。ところで、この小判ですが」

 百合の承諾を得て持ち上げてみると、五百㏄の飲料二本分より少し軽かった。


「当てずっぽうですが、一キロほどありそうですよ。これが純金だとすると、えーっと、五百万の値打ちということですが、こんな商売ってありますか? 八千円払ったら病気を治してもらった上に五百万もの金が貰える。……どう考えてもありえないでしょう? それにね、こんなにたくさんの小判を売りに行ってごらんなさい。どこから持ってきたかと必ず詮索されますよ。だったら小口で売ればいいと考えるでしょうが、これが大間違い。最近小判を売りに来る人がいる。あちこちの店から情報が駆け巡りますよ。売るときには身分証明を提示しないといけないから、同じ人が売りまくっているというのがすぐにばれてしまいます。やれ投資だ、やれ寄付だ、別荘を買えのゴルフ会員権を買えの、いろんな欲の渦に引き込まれてしまいますよ。そうやってお金を使った後でやってくるのが税務署だ。結局、何も残らなくなるのは目に見えている。記念に一枚くれるというのだから、それで好しとすべきではないですか?」

 穏やかに説得してみた。実乃莉の祖父は私と同じように考えたらしく、しきりと肯いている。

「いえ、お金がどうこうではなくてですね、これは息子が貰ったもの。持ち帰る権利があるでしょう」

 と、父親はむきになって主張を曲げようとしない。そこで私も、つい余計なことを言ってしまった。

「なるほど、お金がどうこうではないのですよね、それなら安心しました。ではね、もう一度真田昌幸を呼び出して別の品物と取り替えてもらいましょうよ。筆とか扇だったら持ち帰れると思います。ねっ、そうしましょう」

「いまさら交換なんかしなくても。悪いけど、横から口を挟まないでください。これは私と宮司さんとの話なんですから」

 取り付く島もない頑なさだ。

 

「信勝さん、もうそのへんで。わかってもらえんのなら、縁組みをご破算にせなしゃあないけど、宜しいのやな? 誓紙を焼いてしもぅたら縁は切れますえ。うちは痛いことも痒いこともあらしまへん。息子さんが重症になろうが、ピンシャンしようが、どうでもえぇ。縁がなかっただけのことや。 これで最後にします。お金が大事か、息子はんの健康が大事か、どっちを取るか選んでおくれやす」

 完全に相手を見下したような冷たい目で言い放った。


 

 息子と目の前の現金を較べることなどできないはずだ。母親はしきりと百合に頭を下げて病気が治るようにしてほしいと縋っている。その隣では父親が迷っていた。あんな莫迦げたことで病気が治るわけがないと考えるほうが理性的だろう。しかし何もない空間に小判が出現したのは事実だ。だからといって病気が治る保証などない。そして目の前には小判の山がある。迷うのは当然かもしれない。


 しばらくして、父親はぶるぶると震える手を小判に伸ばした。

「そうどすか、ようわかりましたわ。ほな、それ持って帰っとくれやす」

 百合が言い放つや、父親は小判を鷲掴みにして席を立った。そして、ついに貌を覆って泣き始めた妻と息子を急きたてて廊下を去っていった。

「帰ることがでけたら、めでたいこっちゃけど」

 不気味な呟きをもらした百合は、気分治しだといって絹に冷たいものを用意させた。



 よく冷えた白玉と、氷水でたてた抹茶がテーブルに並ぶまでに、たっぷり二十分はかかっただろう。その間、実乃莉の体調変化で座が沸いていた。

 

「絹ちゃん、ぼちぼちあの人達()連れ戻したろうか。えぇ加減にしたらんと、倒れてるかもしれんしなぁ。それと、水汲んできてんか。御清めの水やで」

 なにやら意味ありげな言いつけに、絹は素直に従った。

 


 絹はまず人数分のコップを皆に配り、大きなヤカンいっぱいに水を汲んできた。それをコップに注ぎ別けておいて廊下へ出た。


「まだそんなとこにいてるのどすか、何をしてるのや? ちょっとこっちへ来てもらいます」

 絹に似せない険しい声で連れてきたのは、小判を持ち帰ったはずの父親と、疲れきった様子の息子をかばう母親だった。

 三人とも大粒の汗を額にうかせ、だらしなく開けた口で荒い息を吐いている。

 

「帰ってて言うたはずやけど、何をしてんのや?」

 百合の声が尖った。

「帰ろうとしているのだけど、曲がり角がないのですよ」

 父親はしきりと言い訳をした。だけど、廊下の曲がり角はすぐそこのはずだと皆が知っている。

「すぐそこやおへんか。えぇ加減な嘘言うたら恥かきますえ」

「だから、曲がれないからどんどん前へ進んだのだけど、それでも曲がれない」

「あほくさ。どんどん先へ行ったんなら、そんなとこにいるわけないやないの。何言うてんの、厭らしい」

「出口がないのだから仕方ないじゃないですか。こっちだって早く帰りたいですよ」

「それやったらしゃぁないわなぁ、二日でも三日でも歩くこっちゃ。そんなんしてるうちにそのお金、消えてしまいますえ」

「消える?」

「当たり前や。縁組みをご破算にすんのやったら、(もう)(もん)は返さなあかん。誰に聞いたかて、当たり前のこっちゃ」

「そんな、それはあまりに身勝手でしょう」

「どっちが無茶か、そんなことはどうでもえぇ。とにかく、お金を持ち出そうと思うても無駄や、絶対に出られへん。欲の間違いや」

 ぞっとするほど冷たい言い方でそれだけ言うと、百合は黙ってしまった。

 

 欲に駆られた亭主のことを母親が詫びた。金などどうでもいい、健康になれるならそれ以上を望むことはないと頭を下げ続けた。実乃莉の母親からも遠慮がちに取り成しがあり、祖父母も穏便な対処を求めた。

 


「ほな、水を飲んでもらいます。しょうむない欲から離れられるようにな」

 ずいぶんたってから百合が譲歩案を持ち出した。

「こんなんしとうないのやけど、三人には、お宮であったことを忘れてもらいます。せやないと、また欲に絡め取られてしまう。ここにいる者の迷惑になります」


「百合さん、忘れさせるなんて無茶だ。そんなことできっこないよ」

 もう勘弁してやろうよというつもりで言ったのだが、百合は皮肉な笑みで答えた。

「うちには何もでけまへん。するんは神さんどす。帰られへんのも神さんが意地悪したはりますんや」


 水を飲み干した父親の顔つきが変った。

 このままでは帰宅できないと諭されても諦めきれずに握りしめている包を、どうして自分が持っているのだと言いたげに三方に戻した。

「ほんまはな、お母さんと息子さんの記憶までは奪いとうない。けど、家の中に内緒事をこさえるんは罪つくりや。悪う思わんといてや」

 これは百合の本性なのだろうか、それとも養母の性格が影響しているのだろうか。この男は、或は女は、自分たちにとって都合が悪いと判断すると、情け容赦なく斬って捨てる。そんな仕打ちに思えた。

 


 宮迫家族を送り出してきた百合は、つい今しがたまでとは全然違う柔和な顔つきをしていた。そのまま席には戻らず、違い棚から懐紙を取ってきた。


「さて、約束やから皆さんにお土産をあげましょう」

 そう言って文箱の蓋を取ると、皆が息を呑んでしまった。

 宮迫の父親が必死になって持ち帰ろうとした小判の包がぎっしり並んでいたからだ。端のほうに包みを解かれた小判が黄金の輝きを放っている。

 百合はそこから一枚とって懐紙に載せ、祖父の前に滑らせる。祖母にも、両親にもそれぞれ一枚づつの小判を与えた。


「実乃莉ちゃんは無しや。こんなんより、健康な身体を貰たんやさかいな。信勝さんはどないします?」

 私だって膝がなんともなくなっただけでもありがたい。糖尿の心配がなくなったのもありがたい。それに、粒金を売ったことでわかったのだが、そんなものを貰ったところで容易に売り払うことはできないように感じた。


「そうやわな、信勝さんかて健康を貰たんやから、欲かいたらあかん。ほな、これも一緒に仕舞ぅとこう」

 宮迫が掴んでいた包みを文箱に納め、元のように棚に戻した。


「小判って、いくらくらいするのですか?」

 この場にいる者には少なからず興味のあることだが、そういう質問を躊躇うのが大人だ。一方で高校生の実乃莉にはそんな斟酌はないようだ。


「そんなん、考えたこともあれへんなぁ。絹ちゃん、あんたこういうこと調べるの得意やろ」

 百合が上手に質問をかわすと、生臭いと言いながら絹がコンピュータを叩いた。


「小判にもいろんな種類があんのどすなぁ。慶長小判どすけど、なんやえらい値ぇがついてまっせ。百……二十万やて」

 その額を聞いて、座は静まり返ってしまった。もちろん希望売却価格だろうが、桁を間違えているのではないかと思いたくなる。仮にその値段で売り払えたとすると、宮迫が持ち帰ろうとしただけで五十枚。換算すると六千万ということだ。


「百合さん、文箱の中には五百枚は入っているんだろう? 泥棒の心配はないの?」

 或はもっと多いかもしれないが、仮に五百枚としても、全部で六億ということになる。それだけの札束ともなれば、ジュラルミンケースがいくつも必要だろう。が、小判ならあの通り、百合でも持ち運びできる大きさなのだ。防犯対策をしっかりしておかねばいけないはずだ。


「信勝さん、ここは本当(ほんま)の場所やないことくらい気付いたはりますやろ。最前も出られん人がいたように、神さんがきっちり監視してくれてます」


 やはりここは我々が住む空間とは切り離された別世界なのだとあらためて思い知った。

 廊下を曲がったとたんに感じる目眩は、空間移動が原因だったのだ。とすると、清めの水は、本当の阿波岐原から直接引き込んでいてもおかしくはなさそうだ。


「見てみぃな。あんたがけったいなこと言うさかい、皆が固まってしもぅたやないか」

 百合が言うまでなく、祖父母も両親も塑像のように硬直していた。


「ところで、あの少年のことはどうするの? 縁組みを解消するつもり?」

「なんちゅうこと……、うちは鬼と違います。ちょっと脅しただけどすがな。訳が分らんうちに快方に向かうんもえぇやろう。うちはそない思います。それにや、そんなことしてみぃな、昌幸さんは面子つぶされて怒らはるわ」

 ちょっと睨んでみせて、私が手伝わされた永楽銭を手元に引き寄せ、紐の通ったものを小判に副えた。


「信長さんからいただいた魔除けどす。邪魔になるもんちゃいますから、お財布の隅にでも。……もう、小判みたいな無粋なもんがあったら話がでけへん。早う仕舞うといとくれやす」

 最後は追い出したような結末だっただけに、実乃莉の母親は胸を撫で下ろしたようだ。

 あんな素人芝居と呆れ顔だった祖父母と両親は、神前に忽然と出現した三方に魂が飛びそうだったと、神妙な顔をして語った。ありえないことが起き、実乃莉の体調が日増しに良くなっている事実。それを素直に受け入れたのだろう。


「ところで山田さん、先日の地図を二人に披露したら意外のご立腹でね、自分たちの調査能力を莫迦にされたと思ったようです。おかげで寿司を食べさせることになってしまいましたよ。そんなことはどうでもいいのですが、二人にも商店街のことを教えてやってもらえませんか」

 こうして膝を交えるのも二度目となれば、町内の人のように気楽な話し方ができるというのが私の強みだ。祖父も、この場のできごとの一部始終を見たからか、気軽に応じてくれた。


 窮屈だといって装束を脱いできた百合は、あらためて祖父から商店街の話を聞いた。

 祖父から貰った地図に、絹がマーカーで色分けをする。店をたたんでしまったところ、踏切りで死んだ人の店、交通事故に遭った人の店。色分けすると見易くなった。

 だが地図を見る限りでは関連などなさそうに感じた。


 実乃莉は、甲斐の養女になったことで心臓の疾患は綺麗さっぱりなくなっていた。だがすぐに座ったり凭れたりするのが無くなったわけではない。それは実乃莉の筋肉が脆弱なせいで、彼女の体内では運動不足ゆえに鍛えられなかった筋肉が増殖を始めたばかりだ。ところで、体の機能が整えば、じっとしていられなくなるのは生命の内なる衝動だろう。運動事のほとんどを見学ですごしてきた実乃莉は、じっとしていることや、面白くもない話に付き合うことに耐性がないわけではない。それどころか、なまじの社会人よりも我慢強いかもしれないのだが、内なる衝動に抗うことができなくなったようだった。落ち着きなく視線を彷徨わせ、しょっちゅうモゾモゾして落ち着きをなくしているようだ。

「実乃莉、大事な話をしているのだから、もう少しじっとしていなさい」

 そのたびに母親は娘をたしなめ、すまなそうに頭を下げた。それでも暫くすると実乃莉は我慢できなくなったようだ。ポーチからスマートホンを取り出していぢり始めた。ところがいくらも経たないうちに飽きてしまったのか、ポーチにしまって腰を浮かせた。


「実乃莉ちゃん、今、大事なとこやさかい、もうちょっと辛抱してて」

 大規模店の進出計画がもちあがったところまで話が進んだとき、実乃莉はとうとう我慢しきれなくなったようだ。実乃莉の行動の変化があまりに激しすぎて、母親はついてゆけずにまごついている。

 たった三日前は、ほんの三十分くらいの間座っているだけでだるそうにしていた娘だ。もちろん私は彼女の実生活など全く知らないのだが、あまり動き回るタイプでないことは、歩き方からも察していた。それが甲斐との縁を結んでから劇的に変化しているのは確かだ。

 スマートホンを買いに行くときは、亀のようにゆっくりとした歩き方だった。それは、長く歩くための正解だったのだろう。祖父の店への移動に際しても、たった三駅か四駅の間だというのに彼女はさっさと空いた席に座り、寝そべるように凭れていた。まるで眠り猫のように。

 それから三日。彼女は床の間の置物からごく普通の娘に変貌している。生活を共にしている者としては、あまりに急な変化に戸惑うのは無理ないことだ。


「実乃莉ちゃん、あっちの部屋行ってみぃへんか。他所の人に見せたことのない物が仰山あるえ」

 絹がすっと立ち上がった。

「何があるのですか?」

 ヒョイと投じられた餌に興味を示す。

「櫛やら簪。笛やろ、鼓やろ、仰山あるわさ」

 上手に気を逸らせるあたり、絹は若いに似合わず気配りのできる娘だなと私は彼女を見直した。

「そうやがな。絹ちゃん字ぃが上手やさかい、習うたらどぅえ。ほかにもいろいろあるし、びっくりしなや」

 百合も別間へ移ることを勧めた。

 グズル子供を静かにさせるには良い方法だとは思うが、字が上手だの、調べ物が得意だのと褒めるのは良い。では、百合は何が上手なのかなと考えてしまう。他にもいろいろ驚くとは何のことだろう。とにかく、場を静かにさせたいだけではなさそうで、言った後の奇妙な笑みが気になった。


「それで、大規模店の進出反対運動が始まったと。……その運動ですが、どれくらいの店が参加したのですか?」

 中断した話を元に戻して、私は運動推進派を色分けしてみることにした。

「集会には出てこないけど、進出されたら困るというのを含めると九割くらいいました。ただ、それから不動産屋がウロウロしだしてね。誰でも先細りの将来が不安ですからねぇ。値のつく間に老後資金を作ろうという人も出てきまして、今は七割くらい残っています」

 始めから他店の進出を諦めていた店はここ。中途で脱落した店はここ。祖父が示す店を色分けすると、蝕まれてゆく商店街の姿がよくわかる。最初は無秩序に消極的な店が点在していたのだが、今はその周辺をじわじわ侵食しているような感じだ。

「なるほどねぇ。お隣が店をたたむのなら、うちも思い切るということですね。やりきれないなぁ、こういうの」

 カラフルな色分けをされた中で、そこだけが虫歯のように見えた。

「手放すはいいけど、その先はどうするつもりでしょうね」

「まあねぇ、法外な値で売れるわけがないのだから、他所に家を建てることはできないでしょう。残った金を握りしめて公営住宅に入居するってのが、手堅い生き方でしょうね」

 商店主の辛さは、これから始まるのだろうなと祖父が呟いた。商店主は、会社員と違って国民年金に加入しているのだが、満額支払った末に受け取れるのが、わずか六万ほどだ。夫婦合わせて十三万で暮らしが成り立つわけがない。あんたたちのように高額な年金を受け取れる者とは切実さが違うと言った。

 しかし、年金については企業が半分を肩代わりしてくれたわけだし、自営業者には定年がないと反論すると、打てば響くように反論が返ってきた。

「菅原さんは税務申告の経験は? ああ、定年後の形式的なやつは経験されている。ということは失礼だが、申告には素人ということですね。あなた、企業が年金の掛け金を半分負担したと思っているのですか? 企業が丸損すると思いますか? その分は労務費として計上するわけでしょう。つまり、経費として利益から差し引いているではないですか」

「それが?」

「ここまで言ってピンとこないかなぁ。それだけ会社の税金が安くなっているということではないですか。税金でサービスしてもらって、決まっただけ受け取るのですから、国の金が無くなって当たり前。損してるのは国民なんですよ」

「父さん、その話は関係ないだろう。話が横道へすれてしまうよ」

 たまりかねたのか、息子が話を本筋にもどすよう促したが、祖父は、息子では踏み込んだ事情を理解できないと言い切った。

「ずれてなんかないさ。公務員にも会社員にも理解できない不安について話しているんだ。いいか、会社員並みに年金を受け取ることができれば、店を売らなくてもいいんだぞ。店は畳んだにしても、そこで暮らしていけるんだ。けどな、そんな雀の涙ほどの年金しか収入がなくなるんだぞ、目の前に札束ちらつかされて、迷うなって言うほうが無茶だろう」

 祖父は苦しそうな言い方をした。子を養い、家族を養ってきた店を手放す気持ちを思いやっているようだった。


「ところで、商店街に出入りするようになった不動産屋なのですが、それは一軒ですか? それと、値段なんかのことが噂になっていませんか?」

 商店街には、向かい合わせに八十軒ちかい店が客を呼び込んでいたという。その中で、早くに見切りをつけた店が何軒かあったそうだ。それでも大型店の話がもちあがったときには七十軒を超える店が反対をした。やがて切り崩しに遭って現在は五十四軒が反対している。つまり、切り崩しに遭ったのが二十軒ほどあるわけだ。それを買い取るとなるとそれなりの資金が必要なわけで、町の不動産屋の手に負えるかということに興味がいった。また、虫食いのように買い集めてどうしようというのだろう。一箇所に集められれば使い道もあるだろうが、それができないのが不動産だ。

「そうだなぁ、三軒くらい入り込んでいるかなぁ」

 祖父は、妻と顔を見合わせながら指を折っていた。ぶつぶつ呟きながら一本、二本と指を折り、妻に肩を叩かれて気付いたのか、四本目を折った。

「四軒だよ。派手に動き回っている三社に隠れるような不動産屋があったよ。だけど、値段のことは口を濁すからさ」

 二十軒を四社で割ると、一社平均五軒買ったことになる。商店街はほぼ画一化された敷地だそうだから、どの店も約八十坪の敷地だそうだ。土地の実勢価格が四十万として、一軒あたり三千二百万。五軒も買えば一億六千万もの資金が必要だという計算が成り立つ。

 では、それをどう回収しようとしているのだろうか。一社だけが買い漁っているのならともかく、四社が競って買うということは、使い方に暗黙の了解ができているのではないかと思えた。

「ところで……」

 町の土地計画のことを訊ねようとしたとき、実乃莉のうろたえた声と、落ち着かせようとする絹の声が重なって響いてきた。

 何事かと皆が腰を浮かせたが、百合は可笑しそうに笑うだけだ。

「慌てんかて、なんも心配なことやおへん」

 おおかたの察しがついているとみえ、百合は落ち着きはらっている。だが、あのうろたえ方は尋常ではなかった。家族もそう思ったようで、話を続けるどころではなくなった。

「しゃあないな、ほな、滅多に見られんものを見せてあげまひょ」

 百合が、やれやれとでも言いたげに腰を上げた。


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