標的
寝苦しい一夜が明けると、空を雲が覆っていた。気温はそれほど上がらないとはいえ、熱せられた湿気がどよんと沈んでいる。エアコンの効いた屋内から出たくなくなる陽気だった。
入社したての頃、じっとり滲み出す汗を拭いながら飛び込み営業をした記憶が甦ってきた。暑い最中なのにネクタイをしたままで、よく倒れなかったものだと笑いがこみ上げてくる。空を眺めて、傘をどうしようか迷うあたり、もう現役の頃の本能が失われているのを自覚させられる。なさけないなと自嘲するのが関の山だ。
バスを降りて路地へ行ってみると、絹が路地の一番奥を掃除しているところだった。
「おはようさんどす。もう、そんな時間どしたか。ちょっと掃除をしかけたら、なんや気になりましてな、ついでやよって」
長柄の庭箒と塵取りを提げると、時間を失念したことを詫びるように頭を下げた。
「綺麗になったら気持ち良いですからね。でも、まさかその格好で行くのではないでしょうね。ところで、百合さんは?」
「調べものしたはります。なんや、けったいな風向きやて、ぶつぶつ言うたはりますわ。す、すぐに仕度しますよって」
急ぐというわりにはのんびりした動作なのが絹らしい。それにしても、妙な風向きとはどういうことだろう。訊ねてみても、百合は答えようとしなかった。
絹が着替えを済ませ、それでは出かけようかという時になって百合は廊下を左に折れた。
玄関へ行くには右に曲がらねばならないのに、逆の方向へ歩いてゆく。両側とも雨戸なのだろうかと思えるような板壁が続き、百合は突き当たりまで進んだ。
「念のため、お清めをしてからにしまひょ」
振り返ってそう言うと、左側の壁に手を掛けた。
さっと眩しい光が射し込んできた。こっちへ来いと百合が手招きをするので行ってみると、そこに大きな水瓶があった。瓶の口からは絶えず水が溢れている。
「手ぇと口を漱いで、一口呑んどきまひょ」
まず百合が手本を見せ、絹も一口呑んだ。まるで御手洗で清めるような按配だ。
「信勝さんはゴクゴク呑んだほうがええ。これさえ呑んどいたら頭痛の心配せぃでもようなりますよってな」
まさか水を呑むだけで頭痛を予防できるわけはあるまいが、清めの真似事くらいかまうまい。そう思って手に受けた水をふくんでみると、なんということもない水だった。
「味のない水ですね。これがどうだというのです?」
ただの水のはずだ。が、カルキの臭いがせず、かすかな甘味すら感じられない水だ。それに、どこから瓶に流れこんでいるのか不思議でもあった。羊歯の葉が瓶に垂れ下がっているだけで、少なくとも上から注ぎ入れる仕掛けが見当たらない。きっと地中のパイプでも這わせてあるのだろうと思う。
「阿波岐原の水を直に引き込んでるのやそうどす。伊邪那岐の大神が禊をしはった水やさかいなぁ。混ざりもんがあったら禊になりまへんがな。せやさかい、味も臭いも無ぅて当たり前や」
百合は穏やかに言いながらペットボトルに水を満たした。
追突事故のあった場所、そして暴走車が歩道を蹂躙した場所を地図を見ながら確かめ、歩行者の飛び出しがあった場所へ移動しているときだった。
ギィーーーーンと耳鳴りが始まった。また頭痛が襲うのではないかと身構えたがそれはなく、耳鳴りはやがて小さくなった。だが耳の奥で鳴り続けている。
タッタッタッタッタッタッタッ……
ジョギングでもするような、軽やかな足音が異様に大きく響いてきた。
右側は車道、左は生垣。私たちはわりと幅の広い歩道を横に並んで歩いていた。対面してくる人はいるが、走ってくるような人はいない。では後かと振り返って向いてみても、背後から迫る人影はまったくなかった。ただ、横断歩道のむこうでステップを踏んでいる青年がいた。
『油断するな』 頭の中で信長の声がした。
信号が変って、脇の車道を車が勢いよく走ってゆく。それとともに足音も間近に近づいてきた。
一番左側を歩く絹をかすめるように、青年が追い抜いた。そして追い抜きざまに絹の前ですっと屈み、何かを置いてすぐに駆け出した。妙なことをするものだと思いはしたが、百合も絹も青年の奇妙な行動にはまったく気付いていないようだ。彼は何を置いたのだろうとそこを見ると、拳大の石が転がっている。気付かないわけなかろうと安気に構えていたら、絹が足をひっかけてしまった。
突然躓いた絹は、たたらを踏むように車道へ飛び出しそうになった。
「危ない!」
突然のことに百合も反応できず、私が掴まなかったら跳ねられているところだった。
危ないことをする奴だと、むっとして行方を見、そして絹を躓かせた石を見ようとした。が、そこには平坦な敷石の歩道しかなかった。
『あ奴め、あの娘を狙っておる。駆けるぞ信勝』
またしても信長の声だ。と同時に、心臓が激しく打った。
五十メートルほど先を女子高生が歩いている。その目の前はバーの降りた踏切りだ。
高校生は下ばかり向いているようで、どうやら歩きながらスマートホンに熱中しているらしい。それに元気のない歩き方だ。しかし後から誰かが来ることには気付いているようで、ほんの少し道を譲る素振りをみせた。
ランナーが絹にしたことを目撃した私は、信長に命ぜられるまま全力で彼を追った。俯きながら歩く高校生の足元に石を置くようなことがあればどうなるか、結果を予測する必要はない。
ランナーが高校生を追い抜き様、ごろんとしたものを道に置くのが見えた。
止まれ、立ち止まれ! 叫ぶことすら忘れて私は高校生を追った。
もうあと少しというところで、高校生が激しくつんのめった。驚いて頭を上げ、手を泳がせながらたたらを踏んでいる。が、泳ぐ手は空をつかむばかりで、半分くだけた膝は自分の身体を止められずに次の一歩を踏み出している。やっとのおもいで手にしたものは、遮断機のバーだった。
だけど、そのバーは人の身体を受け止められるほど丈夫にはできていないようで、掴った高校生といっしょに線路のほうへぐっと撓んだ。
電車はどっちから来るのだろうか。左からの電車なら向こう側の線路を通ってくれるが、右からの電車だったら……。
電車はどこまで来ているのだろう、間に合うだろうか。
バーで鉄棒をするように上体を巻きつけた高校生まであと少し。
突進していた私は、彼女の腰ごとひったくるように手元に引き寄せた。しかし急に止まれるものではなく、二の腕を掴んだまま勢いあまって遮断機の柵に激突した。
「貴様ぁ、人を殺すつもりかぁ」
鋼鉄の柵に身体をぶつけた私は、すっぽりと彼女を抱え込む体勢になっていた。その瞬間、電車が轟音を撒き散らしながら踏切りを突進する。
怒鳴ろうと気持ちは激しく昂ぶっているのだが、私は激痛で息を詰めていて声にならない。視界にチカチカと針のような光が舞っていて、ランナーを捕まえようとしても体がまったく言うことを聞いてくれない。
彼女を脇へ除けよう、ランナーに踏み出そうと心が逸るのだが、足から肩にかけて柵に食い込んでしまったかのように動かせない。くそっと歯軋りをする間に遮断機が上がって、ランナーは逃げて行った。
絹と高校生の二人を殺すことをしくじった彼は、赤く濁った目で私を恨めしそうに見ていた。そして、チッと残した舌打ちが大きく耳にこびりついている。
犯人には逃げられてしまったが、大事な命を救うことができた。バクバクと猛烈に打っていた心臓が徐々に穏やかになる。それにつれて何処といわず、猛烈な痛みが襲ってきた。
本当に痛いとき、悲鳴など上げられないということを私はこのとき初めて知った。
気合いを入れ続けていてさえ呻くことしかできない。そのために筋肉がガチガチに強張る。追いついた百合が高校生を引き離そうとするのさえ拒んでいるように見えただろう。
「どういうことどすか、信勝さん、説明しとくんなはれ」
いきなり絹が躓いて車道に飛び出しそうになったかとおもえば、次は高校生が踏切りに突っ込むところだったのだ。そのどちらも私が難を救った。ということからすれば、理由を知りたくて当然だろう。だが、高校生は突然のできごとに怯えて口をパクパクさせている。いつから明けたままにしているのか切れ長の目が真ん丸に見開かれ、瞬きすらせずに線路を見ていた。いや、見てなどいまい。目玉が細かく左右に震え、とても焦点を合わせてなどいないだろう。色白を通り越して、血の気の退いた顔は土気色になり、唇にはまったく赤味がなくなっている。私が抱えていたから立っていられたようで、膝頭がブルブル震えている。
平均的な身長である私の顎のあたりまでしかない背丈、掴んだ二の腕の細いこと、抱えているときでも持ち重りを感じなかったほどだ。全体的に華奢なことに加え、ショートカットだからか余計に幼くみえる。
「百合さんは見ていないのですか、あの男が石を置いたところを」
なにを暢気なことをと私は呆れたのだが、そんなものは見なかったと百合は言いきった。あれが見えなかったというのか。いくら気がつかなかったとはいえ、大人を躓かせるほどの重さがあったはずだ。大きさがあったはずだ。だが、自分が躓いたにもかかわらず、絹も見ていないと言い切った。
「なにを莫迦なことを言うのですか、間違いなく置いたじゃないですか。二人とも前を見ないで歩くのですか?」
「信勝さん、顔打ったのとちがいますか、鼻からえらい血ぃが出てますえ。野次馬が寄ってきたし、落ちついと」
「冗談じゃない、殺人未遂ですよ。続けざまに二人も狙った凶悪事件だ。警察へ届けを出しましょう」
唇にヌルッとしたものを感じながら、まだ耳鳴りが続いているのを感じていた。
通報で駆けつけた警察官は、奇妙な顔をして説明を求めてきた。
「ランナーが置いたという石なのですが、どこを探しても見つからないのですよ。石を置いたというのに間違いないですか?」
私ははっきりとそれを見た。絹の前にも、高校生の前にも石を置いた。追い抜き様の一瞬だったが、間違いなく私は見た。ところが、他の誰もそんなことはなかったと証言した。
「なるほど。何度も繰り返して申し訳ないのだけど、あなたは見たのですね?」
私に念を押した警察官は、こんどは高校生に質問した。
「あなたは何かに躓いた。それで踏み切りに突っ込むところだった。そうですね?」
高校生ははっきりと頷いた。しかし表情は弱々しく、顔色も蒼白なままで、浅い息を吐いていた。
いきなり地獄の口を見せられたのだから驚いて当然だが、絹が支えているからかろうじて立っていられる状態だ。そこで私は、パトカーで休ませてくれるよう警察官に頼んだ。
シートに凭れさせ、絹が水を飲ませると徐々に呼吸が落ち着いてきた。しかし色を失った唇はそれでも戦慄いている。警察官は、靴の表面に傷や擦れ痕が見当たらないので首をかしげていた。それは絹の靴も同じだ。体勢を崩すほど躓いたのなら、少なくとも石の当たった痕跡がなくては説明できないのに、それがないから警察官は混乱していた。
殺人未遂と通報したことで、何台ものパトカーが集まっている。歩道や踏切りをしきりと調べる者の他に、野次馬から目撃情報を聞き出している者がいたり、逃走したランナーを探しに出てゆくパトカーもあったが、野次馬から話を聞いていた警察官が一人の女性を連れてきた。
「おまわりさん、その人。絶対に間違いないですよ、その人です。その人が高校生を突き飛ばしたのをこの目で見ましたから」
私に指をつきつけてまくしたてた。
えっと思うと同時に例の耳鳴りが大きくなった。
「出鱈目言うのはやめてくださいよ。私は引き止めたのです。どうして突き飛ばす必要があるのですか」
あの時、遮断機はすでに降りていて、踏切りの付近にいたのは高校生とランナーだけだったことをはっきり覚えている。しかも、私が追いついたときには、高校生はすでにバーにのし上がるところだったのだ。その様子は踏切りの向こう側からでもはっきり見えたはずだ。よしんば私が突き飛ばしたとして、どうして震える彼女を抱えていられるのだ。突き飛ばした瞬間に手の届かないところへ行ってしまうではないか。誰が考えてもありえない、あまりにも無責任な発言だ。
しかし、証人が現れたことで私の立場は一変した。
表情を堅くした警察官の粘っこい質問責めに遭ったのは、一人だけ別にされたパトカーの中だ。相手の口調から丁寧さが薄れ、善意の協力者から容疑者にされたのを実感した。
所在地を尋ねられ、生年月日や職業も尋ねられた。
面倒なので運転免許証を提示し、定年退職後は無職であると答えると、ここへ来た理由を説明せよという。
嘘も隠しもない、事実だけを述べるのだから淀むところがない。時折り繰り出される質問にも、それはこうだと説明し、わからないことは素直にわからないと述べた。
「おまわりさん、よっく考えてよ。突き飛ばした相手を掴むなんてことができますか? それにだよ、あの子を抱えておもいきり遮断機の柵に身体をぶつけたんですよ。突き飛ばしておいて、手が届かない相手を掴んで、それから後ずさりして柵にぶつかってみせたとでもいうのですか? どうやったらそんな芸当ができるのですか。背中見てよ、まだジンジンしているんだよ」
そう言ってシャツを捲り上げると、警察官は同情するように唸った。
私が尋問されている間に、絹や高校生も事情を訊ねられていたらしい。が、一貫しているのは、彼女たちは石を見ていないことと、躓いたことだった。
時折り思い出したようにポツッ、ポツッと降っていた雨が本降りの様相をみせ始めたので、私は交番への移動を提案した。女性たちを雨の中に立たせておくのは気の毒だったし、野次馬の無責任な発言を遮りたいと考えたからだが、警察官はほっとしたような表情になった。
そして現場を離れるとき、百合がペットボトルの水を振り撒いたのを私は見た。
絹が躓いた場所を含め、これまでに事故があったあたりにも水を振り撒いていた。怪訝そうに理由を訊ねる警察官に、清めですと百合が言った。
一方で、咽が渇いた様子の高校生に、絹が水を飲ませている。渇きを癒すためか、それとも別の考えがあってのことかは私にはわからない。
『信勝、突っかけてきおったぞ、最前の女だ。それを操っておる者もそばに来ておる。あれしきの小者、舞扇で退治できるわ。扇を手にしておれ』
真横で大声を出されたようにガンガン響いた。さっきの中年女が来たというのだろうか。それにしても、交番の中にいる我々に突っかけるというのはどういう意味なのかわからない。舞扇など、あのまま置きっ放しになっている。
『たわけ! ならば水を含んでおけ。襲ってきたら霧を吹くがよい。儂は親玉を片付けてくる』
足元から陽炎が立ち昇った。いや、氷の像というか、水晶というか、いやいや、湯呑みの湯に砂糖を溶かしたときのもやもや、それが一番近い。
陽炎は、正体を想像できないように常に形を変えている。しかし遺志をもつようで、広がっていたものが一本に凝縮した。まるで透明なガラスのように透けて見えねばならない景色を歪曲させた。
スゥッと透明な凸レンズが入り口のガラス戸に当たる。こんな不思議なことは生れて初めてだ。百合も絹も気が付かないのだろうか。めったに見られることはないのにと思いながら私は混乱した。
私は入り口を背にして腰掛けている。なのに陽炎が停車している車に奔るのを見ている。はっきりとした形をなしていないが、ゆらぎが大きくなり、激しくなった。まるで太刀を抜いて振りかぶっているかのようだ。
すると、立てかけてある幟の影から女が現れた。踏切りで私を犯人だと名指しした中年女に間違いない。遠目に私たちが通りに背を向けているのを幸いに、大胆にも戸のすぐ外に近寄ってきた。
そんな光景が頭の中でくっきりとした像を結んでいた。
こんなことがあるわけがない。実際に警察官の顔を見ながら話しているのに、背後のイメージが浮かぶのだろうか。しかも、くっきり鮮明な映像が前と後を混乱させずに認識させている。人間にそんな能力があるだろうか。またしても混乱の種が増えた。それでいて、道路に背を向けていることを良いことに信長の忠告に従って水を口にふくんでいる。いったい、混乱しているのが本当の自分なのか、それとも開き直っているのが本当の自分なのか、どちらとも判断できないのがなさけない。
ごくりと咽が動いた。長く水をためておくのは簡単なようで難しいものだ。じわじわ滲み出す生唾だけでも咽に流しこもうとしたら、間違って貯めておいた水を半分ほど飲んでしまった。慌てて足そうとした瞬間、女の背から赤黒い煙が湧き上がった。
アセチレンが燃えたときのように真っ黒な細かい粒がフワフワ広がり、一旦はガラス戸で遮られたのだが、吸い寄せられるかのように真ん中に集まってきた。頭ほどの太さになった煙が侵入を試みたが、どうやら突き貫けることはできないようだ。
百合でも絹でも、誰でもいいから気付いてくれと私は願ったが、あいかわらず警察官の求めに応じて何度も繰り返し説明したことを話している。
煙がぐっと凝縮した。擂粉木ほどに凝縮した煙は、真っ黒な棍棒のようだ。それが勢いをつけてガラス戸にぶち当たった。
ヌルッ、ヌルヌルヌルヌル……。
ガラスを突き貫けた棍棒の先端が即座に煙に戻り、天井に上がった。
退治せよというのは、きっとこの煙のことだろう。私はおもいきり息を吸い込み、入り口に水を吹きかけてやった。
ブブーーーーッ
奇矯な行動を始めた私に注目が集まる。そうすれば黒い煙に気付きそうなものだが、皆呆気にとられたように私を見るだけだ。
「ちょっとご主人、なにをするの。落ち着きなさいよ」
突然の乱行に誰もが驚いた。突然振り向いて入り口に水を吹きかけるなど、子供でもしない異常な行いだ。しかし霧がかかったところからは、煙の侵入は止んだ。
ブブーーーーッ。ブブーーーーッ。
煙めがけて天井にも霧を吹くと、やがて煙は消えてしまった。
交番の外では、その元凶だった女が無表情で立っている。が、すぐに吾に帰ったようだ。
キョロキョロと周囲を見回し、どうしてこんな場所に立っているのだろうとばかりに首を捻っていた。
私と目が合うと、愛想笑いをうかべて会釈をした。足早に立ち去るときも、しきりと合点がいかぬげに首を捻っていた。
『あれも小者であった。どうやら、生者をたぶらかす一団がおるようだが、成敗するに限るな』
いつの間に戻ってきたのか、信長の声が頭に響いた。彼が追った相手も高が知れた小者だったようで、つまらなさそうな響きがこもっていた。
『どうやら狙われたはあの者。手当てをしてやらねば、この先もつけ狙われよう』
あの者とは立ち去った女のことだろうか。それはともかく、手当てなど誰ができるというのだろう。と、思ったとたんに信長が答えた。
『たわけ、そこな娘のことだ。それに、手当てをするは神官の務めではないか』
私の迂闊なことをからかっているようだ。信長という男、世間で考えられているような冷血漢ではなさそうだと思ったとたん、こめかみに激痛が奔った。声すら出せず塑像のようになってしまう。にもかかわらず、どこからか高笑いが聞こえたような気がした。
交番での事情聴取は、あまり熱意が籠らなかったように感じられた。なるほど被害に遭った者の言い分はどちらも同じなのだが、科学的証拠、物理的証拠がなにもないでは話にならない。しかも、所内で水を吹き出すとあっては常識を疑われても仕方ないことだ。
そんなときに、これまでの事故被害者について教えてくれと頼んでも、苦笑いされるだけだった。
なるほど警察が教えてくれれば手間が省けるというものだが、個人情報の漏洩を楯に口を濁す者に無理を言う必要はない。自分たちは公開された情報を知るだけで十分だし、そういう情報なら簡単に調べられるだろうからだ。
「あなたがた、本当は保険会社から調査の依頼を受けているとか?」
すっかり打ち解けた口調で年嵩の警察官が訊ねてきた。
「おまわりさん、うち、こんな形してますけど、これでも宮司どす。この娘は巫女で、こっちは氏子総代や。保険屋はんちゃいます」
心外そうに百合が口を尖らせたのを潮に、私たちは交番を出た。
とにかく、あんなことをする者がいるとわかっただけでも収穫だといえよう。
そして、高校生。
信長の忠告を百合に耳打ちすると、眉間に皺を寄せて少し考えていた。
「こないなこと、突然言うたらびっくりするやろうけど、あんたに悪さしたんは、どうやら鬼籍の者のようどす。それで……、気ぃ悪うせんといてほしいんやけど、最前け躓いたときになぁ、あんた縁を結ばれてしもうたようなんやわ。この縁は断っとかんと、そのうちまた狙われる。せやから、できたらお祓いをしときたいのやけど、どうやろ。無理にとは言わへんえ」
なんとなく駅へと歩きながら、百合は高校生に語りかけた。すると高校生の足が止まり、ちょっと距離をおこうとするのがよくわかった。無理もない。いきなり宗教の勧誘と間違えられても仕方がない流れだ。こんなアプローチでは一台たりとも車を売ることはできまい。だからといって私に名案があるかと問われると、答に詰まってしまう。定年を過ぎましたと頭を掻くくらいしかできない。そんなことより、警戒心を剥き出しにした高校生に、百合はあらためて自分が神職であることを告げ、絹は巫女だとも告げた。
「本当に変な宗教ではないですよね。神社なんですよね」
細い声でしつこく訊ねた末に、彼女のお祓いをすることになった。
彼女は、私たちより二駅ほど都会寄りの町に住んでいると語った。今日は夏休みのこともあって祖父の家を訪ねるつもりだったのだそうだ。そんな話題は絹が一番適任だろう。年齢が近いこともあり、百合よりも話し易そうだ。本人にそういう意識が働いているとはいえないようだが、上手に高校生の話を引き出していた。
「最近はお客がめっきり減ったそうだから、祖父も祖母も元気がないのです。だから今夜は泊まって、ゆっくり話し相手をしようと考えていました」
警戒心を解けば、なかなか素直で、ハキハキと自分の考えを言える娘だ。その話の中で、祖父は小さな文房具屋を営んでいることがわかった。災難に遭った踏み切りを越えたところの商店街に店があるのだそうだ。
飲み屋街というのが本性の商店街。その路地奥に案内されて、高校生は逃げ腰になっている。高校生でなくとも、大の男でも用がなければ寄り付かない場所なのだが、引き戸を開けたとたんに強張った表情が少し緩んだ。畳敷きの廊下というのが珍しいようで、わりと素直に神前に案内された。
少し待たされて、きちんと神職の装束に着替えた百合が登場すると、ほっとした表情をみせた。
まずは清めをということで、出掛けに水を飲んだところへ私も同行し、あらためて手を漱ぐ。それからお祓いに臨んだのだが、祝詞というものは、やはり渋い声に限ると思った。
形式がどうの、所作がどうのというつもりは更々ないのだが、重みがないと感じた。
「これで悪い縁は断ち切りました。もう狙われることはおへんやろう。ところで、立ち入ったことを訊ねますが、あんた、顔色は悪いし息も浅いなぁ。なんぞ病気を抱えているのんとちがうか?」
祝詞を奏上して祭主の座に戻った百合は、儀式が終わったことを伝えたのだが、そのときに、例によって病気について訊ねた。相手が高校生という理由でか、言葉つきが偉そうになっている。
「生まれつき心臓が悪いのです。でも、それがどうかしましたか?」
打ち解けると人は一気に警戒心を解きがちだが、若年者はその傾向が顕著なようだ。わざわざ言う必要のないことをペラペラ喋ってしまうだけ世間擦れしていない証拠ではあるが、大胆さにハラハラする。
「その病気やけど、治してあげまひょか? お金もかかるし、怪しい宗教やないかて用心もするやろう。けどな、ここにいる三人とも、元は病人どした。お金やったら信勝さんが出してくれはるやろ。無理にとは言わへんけど、どうします?」
百合もまた装飾など一切かなぐりすて、ずけっと本題を口にした。とてもではないが、営業職には不向きだと思う。
それから当然のように百合と高校生の間で様々なやりとりがあった。その結果、宗教の勧誘はしない、理由の如何にかかわらず現金を絶対に要求しないとの念書を百合が書かされることで決着した。つまり、百合は手玉に取られた格好だが、気にしていないようだ。
大国主の神が何か囁いたのかと訊ねてみたのだが、うふふと笑うだけで答えなかった。
「これより、大国主の大神のお導きにより……」
そこにいたら邪魔だと追い立てられた私は、仕方なく通路に立って成り行きを見物していた。といっても、何があるわけではなく、百合の言い方が尊大になっただけだ。机をはさんで対面している絹など、お茶を飲む時のように穏やかな眼差しであった。
「子となる者、名を名乗れ」
「山田実乃莉です」
「では、親となる者、名を名乗れ」
いったい誰が選ばれたのだろうと、私はじっと絹の口元を見つめていた。
「成田甲斐」
成田甲斐とは何者なのか。早速検索してみると、城主の留守を襲われながら、三成の攻めから見事に城を守りぬいた、城主の娘らしいことがわかった。忍城々主、成田氏長の娘が甲斐という名である。女でありながら城を護りきった武将として有名な人物だった。
その甲斐が帰ったことを告げるか告げないかの間に、絹が身を硬くした。
「申しておきたき儀あって、やってまいった。信長である。先ほどの曲者は成敗したが、あれは物見程度の小者であった。山の賊といえども頭立つ者がおる。まして相手のことはまったくわからぬが、彼の者一人のしわざではあるまい。よくよく用心してかかれ。よって、扇を遣わす。普段使いの安物ゆえ、常に身に付けておけ。鬼切丸、斬怨丸、茜丸、賤払い。邪なる者おらば脇差しと化す。生身は切れぬゆえ、安心致せ。また、銭を下しおく。魔除けとして身につけておけ」
言い終えて絹は椅子にへたりこんだ。
神前に三方が出現している。そのうち三つは甲斐が寄越したもので、質素な内掛けと護り刀、そして組紐が一本。結納や謝礼、そして支度金は慶長小判だった。残る一つの三方は信長がくれたもので、小ぶりな皮袋が一つと、人数分の扇が載っていた。
「あのう、信長と言っていましたが、誰のことですか?」
実乃莉はたった今の行事を理解していないのか、それとも歴史に疎いのか。自分が知っている信長は、織田信長しかいないと胸を張ったので、その信長だと説明したのだがケラケラ笑われてしまった。
それならばということで、調べたばかりの記事を見せると、またしても可笑しそうに笑った。
「笑うがいいさ。私もそうだったよ。だけど、もう甲斐さんの体質が影響を及ぼし始めているかもしれないよ。立派な姫武将だったそうじゃないか、その丈夫な体質に生まれ変わるかもしれない。これからは筋肉をつけて、もっと太らなきゃいけないね」
そう言ったそばから、実乃莉は座っているのが辛そうにしだした。
「それはともかく、扇に付箋がついたぁるわ。この渋いのんが信勝さんやな。こっちの白いんが実乃莉ちゃんや、失えんときや。朱色が絹ちゃんで、うちのんは薄紫かいな。それと、お金を一枚づつ、御護りやそうな」
付箋には鬼切丸とある。時代劇で武芸者が手にしているものとは違い、白扇に柿渋を塗っただけのように見える。扇ぐと涼しいというだけで、銘を入れるほどの物ではなさそうだった。そして銭には永楽通宝と鋳込んであった。信長が生きた時代に流通していたようで、ドラマなどでは信長の旗印に使われている。
「ところで信勝さん、あんさん、交番で何してましたの?」
あの子供じみた振る舞いのことを言っているのだろう。だけど、正直に説明して納得してくれるだろうか。白い目で見られるのではないだろうかと心配だ。
どうやら信長は舞扇を護身のためにくれたのらしい。たまたま持っていた水しか対抗手段がなかったこと。自分は、信長の指示した通りに行動したまでのことだと説明したのだが、不気味なものを見るような視線が痛かった。
実乃莉のスマートホンが壊れてしまったので、買い換えようということになった。といって誰かが費用を負担するのではなく、信長から貰った粒金を売ろうということになった。
利殖や装身具にまったく興味がない私は、百合に教えられた貴金属店で換金することにしたのだが、開店以来粒金を持ち込んだ客は初めてらしく、造幣局の刻印がないことを不審がられた。それでも、十粒が十五万円ほどに化けたのがありがたい。 それだけの資金があれば本体を即金で買い取り、壊れてしまったものを解約しても十分におつりがきた。




