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副作用

「どうどした? 何ぞ変ったことおへんか?」

 約束通り、私は二人にお茶をご馳走していた。私服に着替えていた二人を誘い、駅前ロータリーの反対側にある喫茶室に誘ったのだ。そこはおかしな店で、コーヒーのほかに煎茶や抹茶も飲ませてくれる。ただし薫りが移ってはだいなしなので、和風と洋風の飲み物に併せて店が仕切られていた。

 てっきり抹茶を注文すると思いきや、彼女たちはイチゴパフェを美味しそうに味わっている。そして当然のように体調の変化を訊ねてきたのだ。

「それなのですが、翌朝からいきなりですよ、メタボ腹がしぼみ始めましてね、正座ができるようになりました。それからどんどん体が締まってくるのがよくわかりました。一日に一つづつベルトの穴を詰めるくらいで、ズボンが巾着みたいになってしまいましてねえ、昔のズボンが残してあって良かったですよ。それとね、医者の薬を飲むと気持ち悪くなるものですから、飲まなくなりました。それなのにですよ、今日の検査では健康人と代わりがないと。医者が首を捻っていました」

 さすがに無罪放免というわけにはいかなかったが、経過観察ということで投薬もやめになったのだった。

「まだ一週間やさかいなぁ。しやけど、もう治ったようなもんや。ところで、他に変ったことおへんか? 食べ物の好みが変ったとか、妙なこと言うようになったとか」

 病気のことは、治って当たり前だとばかりに神職が言った。

 そういうことについて、自分では変化がないように思う。食べ物の嗜好も今まで通りだし、思ってもみないことを口走るわけがない。でも、どうしてそんなことを気にするのだろう。それを訊ねようとして、私は大事なことに気付いた。彼女たちの名前を聞いていないことを。

「今頃こんなことをお訊ねするなんてトンマもいいとこですが、あなたたちの名前を知らないことに今になって気付きました」

 そうして知った名前は、神職が百合、巫女は絹だということだ。


 百合は木更津で生まれ育ち、今も親元から通っているというし、絹は広島の生まれだとか。そんな二人がどうして流暢な京ことばを話せるのかが謎だ。

 百合が言うには、自分たちは知らぬ間に京言葉を使うようになっていたそうだ。副作用というのはそういうことらしい。養い親の癖だったり日常の話し言葉が伝染してしまうのだそうだ。しかしあくまで自分は自分であるから、行動や思考形態に影響は及んでいないそうだ。

 ところで誰の養子になったのか訊ねてみると、百合は九条彦子(ひろこ)と縁を結んだと言った。

 私は九条という家のことをまったく知らないのだが、どうやら貴族の中の貴族だそうだ。そういう貴族が五家あり、摂政やら関白を務める家柄だそうで、この五家から皇后が出ていたらしい。九条彦子も鳥羽天王に仕える内裏女房だったそうで、なかなかの権力者でもあったそうな。

 絹は、和宮親子(ちかこ)の養子となったのだそうだ。和宮は、仁考天王の娘でありながら徳川家最後の将軍である家茂に嫁いだ人だ。御所のすぐ近くで生れ育った彦子と、御所で生れ育った親子。この二人なら流暢な京言葉をあやつるのは不思議ではなさそうだし、上品な振舞いも納得できる。しかし不思議なことが世の中にはあるものだと、あらためて驚いたのだった。


 ポツッと雨が落ちてきた。点々と木の葉がふるえ、やがてじっとりと滴を垂らす。

「雨やなぁ、梅雨が明けるんやろか。ジメジメしたんのもかなんけど、暑いのもなぁ」

 百合と絹が顔を見合わせて憂鬱そうにした。

「さて、そろそろバスの時刻だから、先に失礼しますよ。来週も寄りますから、お茶をご馳走しましょう」


 そういうことがひと月ほど続き、季節は夏になった。

 といっても、年寄りばかりの町に子供たちの声が響くことはない。病院からの帰りの電車だって、いつもとなにも変っていない。学生の姿は少ないと期待していたのに、相変わらず席を占領して声高に話す女学生が多い。膝の調子が良くなってからというもの、私は無理にでも座ろうなどとは考えなくなっていた。今回だって吊り革に掴まって流れる車窓を楽しんでいた。すると、聞くとはなしに女学生の話し声が耳に届いてくる。宿題の話、買い物の話、アルバイトの話。あっちこっちで他愛のない会話がなされていた。


 耳の奥でギィーーンと高い音がした。と同時に、こめかみに針を突き立てられたような痛みが奔った。

 大きな怪我を経験したことがない私は、激痛というものを知らないまま現在に至っている。これまでで一番痛かったのは、金鎚で指を叩いたことくらいだ。あれはたしかに痛かった。拍動とリンクして痛みが指先の一点に集中しているようで、寝られなかったくらいだ。だが、こめかみを襲った痛みは、そんなものとは次元が違っていた。声を出すことすら忘れ、動けない。下腹がギンギンに硬くなって息すら忘れていた。なんだこれはとか、どうなるのだろうと考えることすらできなかったというのが正直なところだ。

 時間にして一秒か二秒、三秒までは続かなかったと思う。が、その間は口を半開きにしたまま、息を詰め、ギギギッと突き刺されるような痛みに耐えるしかなかった。

 急速に痛みがうすれると、あれはなんだったのだろうと思う。脳の毛細血管が切れることは日常珍しいことではないそうだが、あれはその痛みだろうか。だとすると、脳梗塞で倒れたときは痛みが凄まじすぎて、もしかすると気が狂うのではないかと思う。しかし人とは面白いものだ。痛みが薄れると、すぐに忘れてしまう。そんなことより、まだ続いている耳鳴りに感心が移っていた。


 女学生たちは、私が突然の痛みに襲われたことなどまったく気付かず話を続けていた。

「だけどさぁ、どうしてあんな広いところで事故になるの? この前だって家族連れが事故に遭って、死人がでたのでしょう?」

「それだけじゃないって。そのちょっと先の踏み切りなんだけど、何人か飛び込んだそうよ」

 という会話が聞こえてきた。他の声にかき消されそうだから、ちょっと離れた席での会話なのだろうが、なにやら物騒な話だ。キョロキョロと見回してみると、連結部の近くにいる二人の口の動きにリンクしている。他人の耳を憚ってか、ボソボソと話し合っている。

 あんなに遠くの話し声がどうして聞こえるのだ。しかも連結部は騒音が酷いので普通ならかき消されるてしまうはずだ。

 話題にしている場所はどこか、何人くらい死んだのか。気になって聞き耳を立ててみたが、運悪く電車は駅に停まってしまった。


「ようこそおいで……どないしやはったんどすか? ちょっと待っとくれやっしゃ」

 案内に出てきた絹は、私の顔をみるなり眉を寄せ、吹きだすのを堪えながら奥へ姿を消した。すぐに戻ってくるとティッシュで私の鼻を拭き、血が付いているのを見せた。

「誰ぞ別嬪さんでも乗り合わせてたんどすか? 信勝さん、案外若ぅおすなぁ」

 よほど面白く感じたのか、会釈の格好のまま私を覗きこんだ。怒ったように眉間に皺を刻んでいるくせに黒目を真ん中に寄せてクスクス笑っている。

「鼻血? いや、鼻血なんて気がつかなかった。これにはわけがあるのですよ」

「そらぁ、理由(わけ)はおすわなぁ。えぇんどすか、男はんの恥になるんちゃいますの?」

「違いますって。絹さんねえ、あんたは孫くらいの歳なんだから、からかっちゃいけませんよ。ところで、今日はお客は?」

「どなたも来はらしめへんさかい、そろそろ閉めよかて」

「じゃあ、少しなら迷惑にならないかな」

 そう言って奥を指差すと、ちょうどわらび餅を食べようとしていたところだと絹が笑った。


「いや、ほんま。かなんなぁ。信勝さんが鼻血垂らして電車乗ったはったんか?」

 絹が面白おかしく囃し立てるものだから百合からもひやかされたのだが、そうなった経緯を話し始めると、百合が眉を寄せた。といっても、絹と同じ意味で寄せたのではなく、なにやら考え事をしている様子だった。

「摘んどくれやす。こんなん行儀よう食べたかて、なんも美味しいことおへんえ」

 そう言って小さな塊を摘んで口にはこぶ。口を上向けてポトンと落しては黄な粉を指で掃い、目を細めてモグモグする。無作法な食べ方のはずなのに、不思議なことに百合や絹がすると、それがとても上品に感じられた。


「ところで、頭痛うなったんは、なんでどすやろ。あ痛たたーーゆう痛みどすか?」

 プニュプニュして美味しいと言って、皿に山盛りになっていたものをあらかた二人で平らげてしまうと、指先をティッシュで拭いながら百合が呟いた。二人とも白衣を着たままなのに、よくも大胆な食べ方ができたものだ。

「とんでもない。うっと呻くのが精一杯、手で庇うなんてとんでもない。ギリッギリッとね、針を深く刺されるような感じ。声も出なかったです。だけど、二秒くらい、いや、三秒くらいで治まりました。急に痛みが薄れると、すっかり忘れてしまいました」

 百合は口元に手を当て、まぁと気の毒そうに私を見た。

「痛ぅなったほかに、変ったことはなかったのどすか?」

「耳鳴り……ですかね」

 最初に耳に響いた音が異様に大きかったことを話すと百合の顔がわずかに曇った。

「ギューーーーンどすか。……耳鳴りゆうたら、ピィーーーーって聞こえるのんと違いますの? そないな大きい耳鳴りて、聞いたことおへんなぁ」

 呟きながら視線を皿に戻し、わらび餅を口にはこぶ。そしてゆっくり口を動かしながらティッシュで指先を拭う。彼女が次の質問をしたのは、咽をこくんとさせてからだった。

「その耳鳴りどすけど、もう治まりましたか?」

「いえ、気にならないくらい小さくなっただけで、まだ続いています」

 と答えると、ふぅんと相槌を打って、これまで耳鳴りを感じたことはあるかと訊ね、誰だって経験しているよねと訊ねたことを恥ずかしそうにした。もちろん耳鳴りくらい珍しいことではないし、ピィーっという音なら絶えず聞こえている。それより、なぜか耳が鋭くなったことを思い出した。

 そのことを話すと、百合が私に視線を合わせてきた。

「その話どすけど、場所は何処なんかわかりまへんか?」

 私の話が終わると、なぜか聴覚のことより女学生が語っていた内容に興味を惹かれたようだ。

「そこのところは聞いていません。ちょうど駅に着いたこともあるし、もっと前に話されていたのかもしれませんね」

 そう答えると、黙って考えていた。


「耳鳴りがしたときやけど……、ひょっとしたら信長さんが出てきはったのかもしれまへんなぁ」

 百合はそう言って遠くを見るかのように視線を宙に向けた。

「信長ですか?」

「せや。なんとのう考えただけやよって、真面目に聞いてもらわんかてかましまへんけど、そないな気ぃがするのどす。信長さんはいろんな話を聞いたはったんとちゃいますやろか。それを聞かそうとして耳を鋭くした」

「待ってくださいよ。だったら、あの頭痛はどういうことですか。信長が出てくるたびに、あんな酷い頭痛がするのですか? 勘弁してくださいよ」

 泣き言を言うつもりはないけれど、つい言ってしまう。二度と味わいたくない苦痛だ。

「それや、信勝さんには気の毒やけど、耳を鋭うするために血が仰山いったんかもしれん。そのために心臓を動かしたら、鼻へも流れた。そういうことやないやろか」

 なるほど彼女の考えは理屈に合っているかもしれない。しかしあの痛みだけは二度と厭だ。

「じゃあお訊ねしますがね、信長が現れるたびにあんなことになるのですか?」

「そんなん、うちに言われたかてなぁ。わかるわけ、おへんやろ? そんときはそん時の絵ぇ描かなしゃあない。せやろ? そんなんより、ちょっと気になりまへんか。(おんな)場所(とこ)でたびたび人が()ぅならはったて、けったいやなぁ」

 そう言って場所の特定を始めたのだった。


「姉さん、これ、違いますやろか」

 そういうことを調べるのなら交通事故だけを検索すれば良いと、絹はノートパソコンをカチャカチャやっていた。そして見せたのが五日ほど前の事故だった。

 なるほど家族四人の乗った車がトラックに追突され、二人が死亡、二人が重体とあった。

 その住所での事故を検索すると、暴走車が歩道に突っ込んで死者が出ているし、横断中の歩行者が跳ねられている。その近くの踏み切り事故を検索したところ、半年ほどの間に三人も飛び込み自殺をしていたことがわかった。

 その二箇所は、町名が異なっているのだが、地図で見ればすぐ近くのようだ。

「ちょっと、こないに近いのんか? かなんなぁ」

 いかにも厭そうな言い方だった。私がそれに相槌を打つと、百合は私に向き直って、どうして厭なのか教えてくれと言った。そんなことを問われても、長年の癖だから仕方がない。自分としてはお愛想を口にしただけなのだから。

「えっ、そりゃああれですよ。多くの人が亡くなったのですから、気の毒だなぁと。もしかすると道路構造に問題があるのかもしれないですから、じっくり調査してもらいたいと。そういう意味ですが」

 あまりに当たり障りのない理由だということを知って、彼女はやっぱりなと冷めた目になった。

「言いにくいのどすけど、これはあんさんが持ち込まはったことどすえ。うちらは何も知らなんだのやさかい、あんさんさえ何も言わはらへなんだら、知らんまんま過ぎたことどす。しやけど、耳に入ってしもうたらあきまへんわ。あんじょう(きり)つけなあかん。せやから、かなんなぁて言うたんどすけど」

「限りというのは、どういう意味ですか?」

「せやから、そこへ行て、そこで仰山人が死なはる理由を調べなあかんやないか。妙なことになってんのやったら、ちゃっちゃと掃除せなあかんし」

 うっかり聞き流すところだったが、私が厄介事を持ち込んだのか? 定年を過ぎた男が自分の子供より年下の女性に揉め事の解決を頼むわけがないではないか。それに、井戸端会議のような話にも興味などまったくない。あまりにバカバカしいことだ。そこへとは、現場ということだろうか。そこでいったい何を調べて、何を掃除するというのだろう。

 そんな話には付き合いきれないので帰ろうとしたら、どうせ明日も来客はないだろうから、午前十時に来てくれと百合が言った。何のためにと訊ねると、早速現場へ行ってみるのだと当たり前のような顔をしている。

「物好きにも程がありますよ。どうしてそんな所へ行かなきゃいけないのですか」

 人がたくさん死んだ場所へノコノコ出かける必要はないと思う。知らないのならともかく、わざわざ出かける場所ではない。逃げ腰だと言われようが、敢えて近寄りたくない。すると百合は、女房の手前、出かける口実がないと困るのかと迫ってきた。女房は四日ほど前から実家の親の看病に行ったきりなので、そういう気兼ねなどは必要ない。

『かなんなぁ』とは、私が言いたいくらいだ。


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