真性・遺伝療法
折れた先にはやはり廊下が続いている。左側に葦戸が立てられた部屋があった。かなり広い部屋で、八畳間を二つつないだくらいある。その先で巫女が歩みを止めた。
祈祷でもするための部屋なのか、やはり広い部屋だ。部屋の奥には白木の祭壇があり、中央に丸い鏡がきらりと光を撥ね返していた。
と、そこでも混乱が生じる。路地の呑み屋街は、間口があまり広くとられていない。せいぜい四メートルくらいしかないはずだ。だというのに、私はどれだけ店の中を進んだだろう。靴脱ぎが約二メートル、待合室のようなところが約二メートル半。そして八畳間の巾を通りすぎたところに今立っている。その先に拝殿というか、祈祷所のようなものがあって、それだけでも四メートルはあるだろう。つまり、間口四メートルの土地なのにもかかわらず、巾は八メートルを越す。間口といい奥行きといい、とても考えられないことだが、巫女は、それをなんとも感じないのだろうか。
祭壇の両脇に大きな御幣が立ててあり、一対の灯明皿から芯が下がっていた。そして洗米を盛った皿、塩を盛った皿が並んでいる。祭壇の左側には大きな榊。その床は素木の板張りで、柱で区切ったこちら側の細い通路は、結界を意味するのだろうか。
通路の手前に粗末な椅子が何脚か用意されていた。そこで待つよう巫女に言われ、しばらくすると女性の神職が現れた。
にこやかに笑みを絶やさぬ神職は、そっと会釈をして向かい側の椅子に腰かけた。
「ようこそおいでくださいました。受付であらましはお聞きのことと思いますが、今日はどういった御用でしょうか」
言葉使いは標準語だった。が、アクセントは完璧に京都訛りだ。巫女よりは年嵩だが、それにしては若い。そんな若者が何をするというのだろうか。だが彼女は、小首をかしげて私が何かを言うのを待っている。
「いえ、そのぅ……。表に小さな貼紙があるだけでしたので、どういう店なのだろうと覗いてみたというのが正直なところです。巫女さんに病を治すお手伝いをするところだと聞きました。どこか具合の悪いところはないですかと訊ねられ、膝痛と初期の糖尿病だと白状したのです。すると、そんなものは病気のうちに入らないとばかりに笑われました。祭主さんとお話をすれば、良い方法がみつかるだろうと勧められましてね。お願いするかどうかは、お話の後で決めれば良いと」
掻い摘んだところを話すと、微笑みながら一度頷いたきり、じっと私を見つめている。もっと聞きたいことがたくさんあるだろうとでも言いたげだ。私も余分なことを言いたくはないので、自然と双方が黙り込むことになった。
「阿呆なことやて思わはりますか? いや、隠さはらんかてよろし、そない思うて当たり前どす。そやけど、嘘ついてるんやおへん」
沈黙を破ったのはいいが、今どき使うだろうかという京言葉が流れ出してきた。このような言葉を流暢にあやつるのは、芸妓や舞子といった色町の者に限られるのではないだろうか。そんなことから、私はこの娘たちの出自を勝手に想像してしまった。それにしても、いやに自信たっぷりなもの言いだ。
「そうは言われても……」
「へぇ、口の先だけなら何とでも言えますし」
つい口篭ったことを彼女は代弁してくれた。正にそうなのだ。口先だけなら空をも飛べる、不老不死も自由自在だからだ。
敢えて反論せず、じっと相手の目を見ているうちに、彼女はふっと息をついて手元に視線を移した。
二人の間を隔てるテーブル。そこには巫女が煎れてきた湯呑みがある。
肉が透けるように薄い湯呑みには、底に僅かな量の液体が入っていた。彼女はなにも言わずにそれを取り、慎ましやかに糸地に手を副えた。
「ほな、ちょっとだけお教えしまひょ」
こくりと咽仏を動かした後、目を閉じて煎茶の余韻をあじわっているようだったが、ゆっくり目蓋を開けると湯呑みを茶托にそっと戻して目尻を下げた。そしてそう言ったのだった。どこか年齢相応の茶目っ気のようで、もったいぶったところはまったくない。
「実言いますと、うちも、あの娘ぉも大病を患うてたんどす。うちは白血病どした。あの娘ぉは子宮頸がんどすわ。目の前真っ暗になりましたわ。けど、お医者に縋るしかおへんがな。と言うても、骨髄移植を受けようにも、型の合う人がみつからんまま、徐々に弱っていきましたんや。困ったときの神頼みどすわ。信仰心のかけらもあらへんのに神頼みやて、ほんまに辛気臭い話どすなぁ」
小首をかしげてはにかむ様子をみせる。神職の装束を身につけていなければ、老舗のお譲さんという感じだ。
「もうあかんのやろうな、そない思うて当然どっしゃろ? 気ぃが弱いの小さいの、せんど周りから言われましたけど、生きられへん、生きてたかてしゃあない。そない思うようになりましてな、ある日若狭へ行ったんどす。なんやったら、身投げでもしょうかて思うたんどす。そんときですわ、小さなお宮を見つけたんどす。あんじょう死ねるよう神頼みどす。なんや、けったいな話どすけどな。そこに歳いった神主さんがいたはって、なんとのう話してるうちに、その病を治したろ、言うてくれはったんどす。アホなこと言うてて苦笑いしてたんどすけど、神主さんがお姫様みたいな人をつれてきはって、このお人と養子縁組したら病は治る、そない言わはったんどす。誰が考えたかて、アホな話どすがな。てんご言うたら笑われますえて言い返したんどすけど、神主さんは大真面目。なんやなぁ、どうせ生きられへんのやさかい、かまへんか。その話、お受けしたんどす」
そこで私の様子をうかがうように言葉を切った。自分の話をまともに聞こうとしているのか、値踏みをしているようにも見える。
「そないなことをしてくれはったんどすから、身投げなんぞでけしめへん。家へ帰ったんどす。それから日ぃがどんどん過ぎて、一と月経ったんどす。お医者へ行って薬を貰わなあかん。それで診察と検査どす。ほしたら先生に呼ばれましてなぁ、血液検査の異常がのうなったて言わはるんどす。鳩が豆鉄砲てこのことや。もう、びっくりしましたわ」
さあ、そろそろお定まりの引き込みが始まった。怪しげな宗教にひきずりこむには、摩訶不思議な出来事を語らねばなるまいが、このようにして語ってくれた。が、そろそろ潮時かなとも思った。
「なるほど、いろいろとお話が伺えて、思いもかけぬ不思議があるものだと驚きました。ですが、そろそろお暇をせねばバスに乗り遅れてしまいますので」
そう言って腰を浮かせながら時計に目を奔らせた。時刻を確認するつもりなど毛ほどもなく、暇乞いのきっかけにすぎない。ところが、私は目を疑った。バスの時刻まで三十分もあったからだ。入り口でひとしきり話しこみ、場を変えてまたしても話しこんだ。かれこれ小一時間はたったと思っていたのに、まだ二十分しかすぎていなかった。
「そないに慌てはらんでも、まだ間ぁがおすやろ」
「はぁ……、しかしご迷惑でしょうし、非科学的な話は苦手ですので」
どう断ったものかと迷ったのだが、敢えて本音を出すことにした。それに妙な宗教勧誘はごめんだ。すると彼女はきょとんとして眉根を寄せた。
「ほんま、けったいなことしか言うてまへんなぁ。しやけど、あとちょっとで終わりますよって、我慢して聞いてもらえまへんやろか」
たしかにここで何が行われるのかということをまだ聞いてはいないし、無理して知る必要などなにもない。その一方で、もう少しならと好奇心が頭を引っ込めていないのも事実だ。
「すんまへんなぁ、辛気臭い話に付き合わせてしもて。子供の頃からそうなんどすけど、途中を端折るんが大の苦手どして……、いや、またしょうむない話に逸れてしもた、堪忍どすえ」
はにかむ顔には初々しさが残っている。いっとき黒目を上げてぶつぶつ口の先を動かしていた彼女が、また笑顔になって話を再開した。どこまで話したか、自分でわからなくなっていたのだろう。
「病気が快方に向こうてる。神主さんにお礼言いに行ったんどす。ほしたら、そんなん当たり前やゆう顔したはって、そないな病気になったんやったら会社にもおられへんようになったやろう、この先どないして生きてゆくんやて心配してくれはりましてん。まあ、しょっちゅう休んださかい困るて言われて会社も辞めてましたし、そのまま親元で暮らすしかない思うてました。そんとき神主さんが誘うてくれはったんどす。うちにはなんや力があるんやそうどす。それを活かして、病の人を救うてあげたらええのんちゃうか。心配せんかて、妙な道には引き込まんさかい、考えてみぃな、て。この話聞いてて、けったいな宗教の勧誘や、思うたはりますやろ? よろしがな、うちもそうどした。けど、宮司を務められるだけの資格をとったらええ。宮司ゆうたら神さんのことでっさかい、おかしな宗教と違いますしなぁ。どうせ仕事もなくしてましたやろ、神主も悪ぅないなぁて。資格取るのに二年、取ってから神主さんの指導が二年。そうして独り立ちしたんでおす」
なるほど彼女の来歴は理解できた。だが肝心なことには触れていない。
「いやぁ、怖い顔しやはったらあきまへん。肝心なのはこれからどすがな」
どうも感情を表に出す癖が直っていないとみえる。彼女ののんびりした話し方に苛ついているのを見透かされてしまったようだ。
「うちの勤めというのは、病の人を昔の人の養子にしたげることどす。昔の人いうたら、足腰は今の人より達者どすやろ? それに、けったいな病なんぞなかったやおへんか。そんなお人の養子になると、体質が遺伝するのどす。そのかわり副作用もチョイチョイおす。養い親の気質もなんぼか遺伝しますけど、そんくらい我慢できますわなぁ」
たしかさっきも養子縁組と言っていた。しかも昔の人との縁組みなど、はたして可能なのだろうか。それに、養子縁組をすることで、どうして体質や気質が遺伝するのだ。これでは明解に説明するどころか、無茶苦茶な内容だ。そうした疑問を投げかけると、彼女はすましてこう答えた。
「昔いうたら昔どす。商才を望んでおいやすお方なんぞ、紀伊国屋さんやら三井さん。鴻池さんと縁組みさへてもぅたお方もおいやしたなぁ。芸能人なら出雲のお国さんが評判よろしいなぁ。たまに宇受売様とどないしても親子になりたいて、我侭なお人もおいやすけど、相手は神様どっせ、そんなんあかんにきまったぁるがな。まぁまぁ、そんなふうにして元気にならはったお方がぎょうさんいたはります」
また見え透いた嘘を言った。その人物はいつの時代の者なのだ、養子縁組などできるわけがないではないか。そんな見え透いた嘘に引っ掛かる者こそ愚かだ。どうせそんな口車に乗せて、身ぐるみ剥ごうという魂胆だろう。それを押さえてさえおけば騙されることはあるまいが、それにしてもけしからん女狐だ。
「なんでそない怖い目ぇで……。あっ、こんどは改宗やらご喜捨のこと疑ぅてはりますやろ。難儀やなぁ、いっつもこれや。最初に言いましたわなぁ、うち自身が信仰とは無縁やて。ここ、お宮どっせ、参拝のたんびに改宗せぇなんぞ言えますかいな。それになぁ、宗旨も宗派も問わんのが神道やおへんか。銘々、好いたん信心したらえぇんと違いますか。お金のことなら……、ちょっと絹ちゃん、あんたあんじょう説明せぇへんかったんか?」
部屋の隅に控える巫女に声をかけると、巫女はふるふると首を振った。
「初穂料の他は一切無用やて言いましたぇ」
即座にそう言い、私を窺った、まるで救いを求めるように。
「なんでも、全部で八千円だとか、それ以外は一切必要ないと」
「へぇ、それ以外には一切貰ぅてまへん」
巫女がきちんと説明していることがわかり、神職はほっとしたようだ。
「だから怪しく思えるのですよ。失礼ですが、お客……、呼び名はともかく、お客がこないのにどうして成り立っているのですか?」
「成り立つ……、どういうことどっしゃろ」
「ですからね、あなたがたの生活費、この店の賃料、電気や水道料金。どれも成り立つわけがないと思いますが」
「うちらは神社本庁からお給料を貰ぅてます。ここは本庁が買ぅたし、電気や水道も本庁が払ぅてますけど」
「でも、この通りお客はいないです」
「へぇ……そうどすなぁ」
「つまり、収入が、売り上げがないわけでしょう? 仮に私が皆さんの勧めに応じたところで、収入は八千円しかないではないですか」
そう疑問をつきつけると、二人はじっと見合っていた。苦しい言い訳を始めると思って黙っていると、二人はクツクツと笑いだした。
「すんまへん、気ぃ悪ぅせんといとくれやすな、は、八千円て、うちらのお茶代で無ぅなってしまいますがな。そんなん無ぅても、ちゃあんと収入はおす」
二人して苦しそうに腹を押さえている。
「いや、だけど八千円しか」
「へぇ、初穂料を納めて貰ぅてます。けど、縁組みゆうたら結納がおすわなぁ。それを本庁に納めて、そっから給料いただいてるんどす。結納は本庁へぜぇーんぶ納めますけど、仮にも仲人どすからなぁ、別に礼が。あの娘ぉにも引き出物やらお多芽やら……ハァ。しやからこんなふうに暮らせるのどす」
言い終わっても思い出し笑いだろうか、時折りクスクスと笑い続けた。
結納……、養子縁組にも結納があるのだろうか。それはどれくらいの額なのだろう。そして引き出物とはなんだ。更に、おためという言葉を私は聞いたことがない。
「結納どすか? そらぁ高低おますけど、五つくらいちゃいますの? 仲人料や言ぅて包んだぁるんが、だいたい百でおすからなぁ」
「五つというのは、五百ということですか?」
「へぇ、そうどす」
「その百というのは、何が百なんですか?」
「たいてい小判どすけど」
それがなにかと言いたげだ。とすると、引き出物とは……
「それはなんとも言えまへん。絵ぇやったり、皿やったり。隣の間にいくつか置いてありますけど、見やはりますか?」
彼女が葦戸を引くと、違い棚や屏風が目にとびこんできた。
「風神雷神図……」
「へぇ、国宝のんと対になったぁるのどす。あっちのは客間用、見せるためのもんどすなぁ。こっちのは、寝間で枕屏風として使ぅたはったそうどす。小判ならここに。よう知りまへんけど、慶長小判ていいますのんか、それやそうどす」
俵屋宗達の風神雷神図屏風が小型のものと対になっているなど、初めて聞いた。脇にある違い棚は、漆黒の中に螺鈿がちりばめられ、本物だとすると想像もつかない値がするだろう。金継ぎのほどこされた茶碗も見事なものだ。彼女は棚から春慶塗りの文箱を手にした。そっと蓋を開けると、封をされたままの小判がびっしりと並んでいる。包み紙がくすんでいることから、かなりの年代物であることが容易に察せられた。黄ばんだ包みに慶長小判金とたしかに読める。たしか一包みに二十五枚入っているはずで、ちょっと見ただけでそれが二十は並んでいる。
「よくもこんな高価なものを」
それきり何も言えなくなってしまった。しかし彼女は当たり前のように言った。
「せやかて、死んだお人にとっては意味のないものやおへんか。持ってたかて役に立たんのやから、ゴミみたいなもんどすやろ、厄介払いということかもしれまへんぇ」
ほかにはと言いかけたのを彼女が遮った。
「そらぁ、刀やら羽織やら、身近なもんやったら印籠とか根付とか、仰山溜まりましたけど、そろそろバスの時間が。あと、正味二十分くらいやおへんか。ぼちぼち決めてもらわんと」
元の椅子に私を促し、彼女は後から部屋を出た。当然だろう、小判の一枚でも私が失敬するかもしれないのだ。
どうしよう。宗教に勧誘しないと約束しているし、法外な要求もしないと約束している。こちらとすれば、僅かな出費で病気が治るというのなら損なことはないだろう。昔の人の体質を受け継ぐということだから、基本的に丈夫ではないだろうか。それに、薬に対する免疫がないから、どんな薬を服用しても何倍も効くかもしれない。コスプレパブで遊んだと諦めがつく金額でもあるし……
「では、最後に教えてほしいのですが、誰の養子になるのでしょうか」
これは大事なことだ。いくら丈夫になるからといって、石川五右衛門の養子になどなりたくはない。
「そればっかりは、うちにもわからしまへん」
正直なところかもしれないが、彼女の答えはあっさりしすぎていた。
「では、誰が決めるのですか」
「縁組みゆうたら決まってますやないか。大国主の神様やおへんか」
「大国主ですって?」
彼女の説明はこうだった。
若者の就職事情が厳しさを増すにつれ、結婚しないことを選択する若者が爆発的に増えたことが原因で、大国主は暇を持て余すようになったそうだ。だからこのような養子縁組にも気軽に応じるのだという。それに、死後の世界は退屈だそうで、ちょっと声をかければホイホイと希望者が殺到する状況だという。だいたいから希望者が極めて少ないので、超がいくつもつくほどの売り手市場なのだそうだ。となると、超セレブしか競争に加われないのだという。当然のことだが支度金を惜しむ者などいないそうだ。最終的に采配をふるうのが大国主で、人気急上昇。でも、この女性神主の心変わりを恐れてもいるのは事実で、たえず彼女の近くで目を光らせているのだそうだ。
そんな莫迦なと否定したら、彼女はこう言った。
「そないな強がり言うたかて、気付いたはりますやろ。広い敷地やなぁ、時計が進まんなぁて」
彼女は気付いていたのだ、私がずっと違和感を感じていることに。
「大国主様が言うたはります。この男は使える男やて。これやったら、天下逸品の男と縁を結ばしたろてな」
ふっと向けられた笑みに、私は抗うことができなくなった。
「そういうことなら、宜しくおねがいします。ですが、まことに恥ずかしいのだけれど今日は持ち合わせが。後日でかまいませんか?」
「ほな、日ぃあらためてお茶でもご馳走してもらいまひょ」
快く応じて、巫女に千早の用意を命じた。
巫女が仕度を整えている間に、彼女は紙を一枚用意した。版木に油で溶いた墨を擦りこんで呪文で埋め尽くされたようなものを擦り、その中央に大きな印を捺した。時代劇に時折り登場する誓紙だそうだ。くるりとひっくり返してさらさらと筆を走らせる間に、巫女の仕度が整ったようだ。
梅雨の終わりにふさわしい、涼しげな千早をまとい、どこで手に入れたのか、生の紅梅をあしらった冠を額につけていた。
てっきり舞いの奉納でもするのだろうという予想を裏切り、巫女は、拝殿に一度深く頭を下げただけで私の向かい側に腰掛けた。そして神主である彼女も祝詞をあげる素振りすらみせず、書き上げた誓紙に息をふきかけて乾かしていた。
「では、ここに新たな親子の契りを結ぶ」
アクセントはさっきまでと同じ京ことばだが、言葉使いは尊大になっていた。
「大国主の大神のお導きにより、ここに新たに親子の契りを結ぶ。子となる者、名を名乗れ」
神主が体の正面をこちらに向けた。
「菅原宣勝」
私が名乗ると、小さく頷いて巫女に向き直った。
「親となる者、名を名乗れ」
「織田上総介信長」
巫女が、男にしては甲高い声を発した。先ほどまで聞いていた巫女の声では決してなく、確かに男の声だ。それよりも、私は相手の名前に仰天した。織田信長といえば、明智光秀の謀反がなければ日本の社会形態を大きく変えたのではないかといわれる武将だ。性狷介にして冷酷と評判の武将だ。一時は天下を掌握したほどの武将が養父に指名された。それほど驚きのことが他にあろうか。
「両名、大神のお導きである。依存ないな?」
互いに見ず知らず同士、無理やり縁組みをされたのだから不満かもしれないので、念押しということだろう。
「剛愎そうな男ではないか。儂より老いておるが、それも一興。我が名を一字遣わすにより、信勝と名乗るがよい」
「宣勝、不服か?」
私がなにも言わなかったからか、神主が険しい声を飛ばした。信長ほどの男が二つ返事で請け負ったのだから、否か応かをはっきりさせよということだろう。私としては、ただただ驚いて声を失っていたのだ。
「せっかくの御縁ですので、宜しくお願いします」
こんな平易なもの言いで良かったのかは知らないが、神主は鷹揚に頷いてみせた。そして先ほど作った誓紙を取り出すと、互いに署名することを求めた。
織田上総介信長。巫女の手は、いかにも書き馴れた様子で躍った。字の大きさ、線の太さ、跳ねや払いの仕方など、巫女が男字に似せて書いているとは思えない。それほど巧みに筆が躍った。そして署名のすぐ下に妙な記号を書いた。花押というのだそうだ。
私も定められたところに署名する。ところが使い慣れない筆書きなので、悪筆が更に悪筆となった。
「されば、些少ではあるが仕度の用に用いるべし。並びに酒肴料を遣わす。また、契りの労を取り持ってもろうた礼と、依り代となってくれた女中への礼を神前に」
つられて神前を見ると、錦の袋がいくつか並んでいた。神前など最初にちらっと見たほかは気にも留めなかったし、神主も巫女も立ち入ってはいなかったはずだ。
「我が力が入用ならば、いつでも吾が名を呼ぶが良い」
巫女はそう言って腰を浮かせた。
「信長さん、帰らはりましたわ」
巫女は元の声に戻っていた。その足で神前に現れた品物を下げてきた。
大きな袋は支度金ということらしい。大きいといっても寿司屋の湯呑みくらいだろうか。だが、ずっしりと持ち重りがする。その他に、鶏卵ほどにふくらんだ皮袋が三つ。そしてみすぼらしい焼き物が二つと、舞扇があった。
「なんやろ、見てみまひょ」
言われて革袋を開けてみると、小粒の金がザラザラと零れ出た。
「いやぁ、こんなん初めてやわぁ」
はじめのうちこそ粒金を手に受けて弄んでいた神主が、急に腑に落ちない表情になった。
「さすが信長さんやと思ぅたけど、値打ちにしたら小判のほうが上やないの。そんなんおかしいわ、絶対おかしい」
つまり、小判百枚ほどの価値はないというのだろう。天下を掌握するほどの男が、こんなしみったれたものでお茶を濁すはずがない。そう考えたようだ。
おかしい、おかしいとぶつぶつ呟きながら焼き物を手に取ってひっくり返したりしている。
「ただの焼き物やろ? せやけど、なんでこんなん付けたんやろ?」
答がみつからずに呟き続けていた。
「姉さん、ちょっと気付いたんやけど」
巫女、たしか絹ちゃんと呼ばれていた。漫画のような名前が珍しくなくなった現代には浮いたような純和風の名をもつ娘が遠慮がちに口をはさんだ。
「なんや。うち、こんなん苦手やし。そこいくと絹ちゃん、あんた妙に詳しいなぁ」
尊大に構えていた神主はすっかり姿を消して、年齢相応の娘に戻っている。
「これなんやけど、茶器と違いますやろか。信長さんいうたら、たしか名器を仰山集めたはったと覚えてます。なんでも、茶器一つが一国と同じくらいの価値があったて、授業で習ぅた覚えがおす」
そういえば、秀吉も武将の褒美に茶器をやったように覚えている。所領よりも価値の高い論功行賞ではなかったか。とすると、そのような名器は国宝に匹敵するかもしれない。
「いややわぁ、そんなん嫌や。誰にも見られんようにせんならん。嫌やわぁ」
本当に国宝級の代物だとすれば、神主が不思議に感じたことは辻褄が合うことになる。が、それもさることながら、私はバスの時間を気にしていたを思い出した。
「しまった、バスに乗り遅れた」
がっかりしたように聞こえたのだろう、二人してクスクス笑い始めた。
「信勝はん、時計見やはりましたんか?」
そうしていかにも可笑しそうにコロコロと笑い声を上げた。
「ほな、来週の火曜日。お医者へ行かはるのどすやろ? 帰りにお茶をご馳走してもらいますえ。約束どすえ」
長い廊下を戻り、靴に履き替えた私に、二人はにっこりと笑った。
バス停には、既にバスが停まっている。慌てて乗り込んではみたが、バスはいっこうに動かない。不思議に思って前を見ると、まだ定刻の五分前だった。
さてその効果というのか、異変はすぐに表れた。
まず、でっぷりとつき出た腹が引っ込み始め、そのぶん体重が減ってゆく。すると膝の負担が減って痛みがやわらいだ。しかし私の膝は軟骨が磨り減って、骨と骨が擦れ合った状態だったはずだ。軟骨の代わりに薬液を注射して関節に隙間をつくっていたはずだ。
はたして体重が減ったから膝が楽になったのだろうか。それとも、軟骨が再生したのだろうか。
歩くことにビクビクしなくなったおかげか、日を追うごとに体がひきしまってくる。そして薬を飲むと気分が悪くなってきた。飲まずにいると不調はないのだから、自然と薬を飲まなくなった。
急に膝を庇わなくなったことに、妻が気付いた。そして腹がみるみる締まってくることを奇異な眼で見たものだ。また、用足しの後の異臭が薄くなったことを訝しげに語る。
妻の疑問にどう説明して良いか答が出せないまま、あっという間に一週間がすぎた。