田島健二と朝の憂鬱
俺は毎朝、絶望の淵に立たされる。
ここは戦場。生きるか死ぬかの戦いだ。
そんな壮絶な戦いを俺は毎日繰り広げている。
「まもなく列車が参ります。黄色い線の内側にお下がりください」
どうやら今日も戦わなければいけない時間が来たらしい。そう、俺は毎朝戦っている。満員電車とーーー。
「ドアが開きます。ご注意ください。」
来た!!今日もすごい人の量だ。しかしここに突っ込んで行かなければならないこの勇気。そして後ろからも前からも横からも人、人、人に押されまくる。この小さな箱の中に人間が沢山詰まっている。もしも人間を食べる巨人がいたとしたら、この人間がすし詰め状態の箱は恰好の餌食になるだろう。社会人になってから俺も長いが、朝の満員電車だけは慣れるものではない。ああ、早く着いてくれ。お願いだ神様。
ふと見ると、なんと!前方に女性がいるではないか!!これは大変だ。すぐさま両手をバンザイ。この満員電車で、男にはもう1つの戦いがある。みんなもニュースでよく見たことがあるだろう?痴漢に間違われた男性が逃げるために線路を突っ切ったなどという話だ。側からみたらお馬鹿な話だと思うかもしれないが、俺たちおっさんにとっては深刻な問題だ。なぜなら容姿が如何にも痴漢しそうだからだ!おい、誰が痴漢しそうだって?!まあ、いいや。とりあえずそれだけ間違えられる可能性も高いというわけなのだ。もし痴漢に間違えられでもしたら全くたまったもんじゃない。だからこうして両手を上げているのは、自分は痴漢してませんアピールだ。必死の抵抗だ。
でももし、本当に痴漢で免罪になんかなってしまったらどうやって切り抜ければいいのだろう。きっと警察にやってないって言っても、取り合ってくれないに決まってる。きっとそうだ。だとしたら俺は、、、
◇◆◇◆◇◆◇◆
(※ここから田島さんの妄想に入ります。)
俺はいつものように人の波に押し流されながら、すし詰め状態の箱の中に引きずり込まれた。座れる人は羨ましい。スマホをいじる人、本を読む人、音楽を聴く人。椅子に座れるだけで、こんなにも時間が潰せるというのに、この満員電車で立っている人たちは何もできない。ただひたすらに自分の降りる駅が来るのを待つだけだ。こんなに人で溢れかえっているのに、電車の中は不気味なほど静寂に包まれている。ところがしばらくすると、ある人がこの静寂を破った。
「この人、痴漢です!!」
「え?」
朝の満員電車で、俺は突然、見知らぬ女性に手を挙げられた。
「え、、何々痴漢?!誰?」
周りがざわざわと声を上げ始め、次第に騒がしくなる。
「君!次の駅で降りてもらうよ。」
「いや、私は、、違う」
如何にも好青年らしい男性にそう言われた俺は、抵抗もおろか無理やりに降りるはずのない駅へと降ろされる。え、、俺?いや、違う!そんなはずはない。だって俺はさっきまでずっと携帯を見ていたんだぞ?!昨日見たアニメの感想まとめサイトを見ていたんだぞ?!アニメのヒロインは知っていてもそんな女性は知らない!知るわけがない。そんな俺の考えとは裏腹に男性は強く俺の腕を掴み離さない。
「駅員さん呼んできます!」
駅を降りて、何人かの人が女性の方に付き添い、もう1人の男性が駅員を呼びに行くらしい。
「ああ、ありがとござます。」
俺の腕を掴んでいる男性がそう言って、少し安心したのか、掴んでいる手を少し緩めた。
ーーーー今だ!!!!
ほぼ無意識に、反射的に俺はそう思った。そして、次の瞬間には男性の手を振りほどき、走り出していた。
「あ、おい待て!!そいつ痴漢だーー!捕まえてくれー!!」
男性がそう叫んでいるのが、すごく遠く感じた。それだけではない。周りの人々の雑踏、駅のアナウンス、全てが遠くから聞こえているような、しかし音だけは確実に頭の中にガンガンと響き渡っている。
やばいやばいやばいやばいーーー!!!
早く逃げなければ!!俺の頭の中にあったのはただそれだけだった。運動神経が悪いのと運動不足が相まって、もうずっと息は切れて体はとっくに限界だった。しかし、俺は足を止めなかった。改札を出て人混みの中に紛れ、どこかもわからない路地に着いた時、ようやく後ろからだれも追ってきていないことに気づいた。
大変だ。大変なことをしてしまった。何もしていないのに。大変なことに、なってしまった。俺は絶望の渦に飲み込まれるかのように、路地裏にズルズルと座り込んだ。これからどうすればいいのだろう。まず、会社に電話?いや、なんて言えばいいのだ。痴漢に間違えられて逃げてきたから遅れます?でももし、警察の手がすでに回っていて、会社に着いたとたん捕まるなんてことがあるかもしれないじゃないか。じゃあ親に電話?それこそ、何だ。匿ってくれとでもいうのか?何もしていないのに親に頼るのは避けたい。ただでさえ家族ヒエラルキーの中で一番低いというのに、これ以上迷惑をかけたらもう合わせる顔がない。あいにく俺には、頼れる恋人も友もいない。ああ、絶望だ。クソ、こんな人生、、クソだ!!
俺はどこかもわからぬ場所をしばらくさまよい歩いた。気づくと空は暗くなっていて、自分の家の近くまできていた。コンビニで、ヤンキーっぽい少年たちがたむろしている。それをぼんやり見ながら、俺は思い立ったように家に走り始めた。家に着くと、すぐさまに倉庫にしまってあったずいぶん昔旅行に使った大きいバックを取り出し、家中の必要なものをかき集め始めた。支度は思っていたよりすぐに済んだ。貴重品に、1番好きなアニメのヒロインのフィギュアに、少しの生活用品。いざ本当に大事なものをかき集めて見ると、こんなバック1つにまとまってしまうのか、と少し寂しくなった。本当は漫画も持って行きたいけど重いからよそう。そして俺はこの家を出た。もう二度と帰ってくることはないだろう。そう覚悟した。
街へ出ると、人々の視線がやけに気になる。まるで街中の人々が、俺のことを狙っているような、つけられているような、そんな感じがした。ああ、人の目、目、目。気になる。すでに指名手配されていて、賞金首がかけられていたらどうしよう。などと考えていると、目の前から警察官が歩いてくるのが見えた。やばい!咄嗟に振り返り、足早にその場を立ち去る。これから警察官を見るたびに俺は逃げながら過ごさなければならないのだろうか。そう考えたら目が回りそうだ。
この街を出ようーーー。今すぐに。
*
「山田さん、今日もお野菜とごはん持って来たわよ。ほらお食べ?」
「ああ、おばあちゃん。いつも悪いね」
あの事件から3年の時が経とうとしていた。街を出た俺は、すぐに、何もないところへ行こうと決心した。都会のニュースなど流れないような、警察も住民もただのんびりと暮らす、そんな田舎へと俺は自然と流れ着いていた。名前を聞かれて、とっさに山田という偽名を使い、今では別人としてここで暮らしている。とはいえ、スーパーまで自転車で1時間もかかるような場所だったと気づいたのは、住む家を決めたかなり後だった。あの頃の俺は、ただひたすらに放浪するしかなかった。だれも俺のことを知らない場所へ。ここに住むことにしたのは、隣に住むおばあちゃんがいたからといっても過言ではない。何日もご飯を食べずに、歩き回っていたことでずいぶんと痩せた俺は、腹を空かせてこの田んぼと畑しかない田舎をさまよっていた。そんな俺を見つけて、あったかいご飯と住まいを与えてくれたのがこのおばあちゃんだった。隣に住んでいるといっても、おばあちゃんの家の隣にある倉庫のような、プレハブ小屋のような場所に住まわせてもらっているのだ。見ず知らずの男を自分の敷地内に住まわせ、ご飯まで恵んでくれるというのだから、世の中には全く出来た人間がいたものだ。ここなら警察に見つかる心配もないし、住んでる人も老人ばかり。本当におばあちゃんには感謝しているのだ。おばあちゃんがいなかったら俺はとっくにのたれ死んでいただろう。あったかいご飯と寝床。それさえあれば十分だった。あんなに大好きだったアニメも漫画もここには無いが、それでもいい。生きているのならそれで。このおばあちゃんとの生活が、もしかしたら今での俺の人生で1番幸せなのかもしれないとさえ思っているのだから自分でも驚きだ。あんなことがあったけれど、俺はもとよりこうなる運命だったのかもしれない。
「おばあちゃん、ご飯ごちそうさま。今日も畑仕事を手伝うよ。先に行って畑に肥料を蒔いておこうか?」
「ありがとうねえ。本当に山田さんが来てくれて助かるわぁ。じゃあお願いしようかねぇ。」
「気にしないでくれ。お礼をしたいのは俺の方なんだ。これでも感謝しきれないくらいだよ。」
俺はそういうと、いつものように畑へと向かった。畑仕事をすることでおばあちゃんに少しでも恩返しがしたいという純粋な気持ちからだった。
しばらくすると、畑の近くに黒い車が止まった。
ドキッと胸が飛び跳ねた。こんなど田舎だ。普段は車などほとんど通らない。通ったとしても畑仕事に来るおじいさんの軽トラックくらい。あんなにいい車が来るなんて、ここに住み始めて初めてだった。
まさか、と最悪の予感が俺の頭をよぎった。黒い車からスーツの男が2人、降りてきてこちらへ向かってくる。俺は何も知らないふりをして、ひたすらに畑仕事に打ち込んでいる姿を見せる。俺じゃない!俺じゃない!きっと何か別の事件の調査か何かで来たに違いない。そう、俺はただここに住む山田として振る舞えばいいだけだ。男たちは畑の近くまでくると、
「すいませーーん、ちょっとお話いいですかー?」
と叫んでいる。畑には俺しかいないので、間違いなく俺に話しかけているのだろう。俺はこの村の住人を装い、いかにも何も知らないという腑抜けた声でいう。
「はーい、すいません!今ちょっと手が離せないんですよー」
「わかりましたー!ではそちらに行きますー!」
え、来るの?そこは帰るとこじゃないのか?!待て待て、まだ心の準備が、、。
「すいません、お仕事中に。私こういう者ですが」
そういうと2人は知らし合わせたかのように警察手帳を見せて来た。ドキリと心臓が音を立てた。
「はあ、こんな田舎に何のようですか?」
「いやあ、ある事件の捜査でしてね。ところであなたお名前は?」
「へえ、山田というもんです」
「山田さん、ですか」
2人は顔を見合わせて頷いたかと思えば、次の瞬間信じられない言葉を口にした。
「空芝居はもう辞めにしませんか?田島健二さん」
な、、に、、?バレている、だと?!そんな、なぜわかった?!どうして、、
「この人でいいんですよねえ?おばあさん?」
「ええ、その人です。早く捕まえてくださいな」
その声は、、。後方を見るとおばあちゃんが立っている。どういうことだ?!
「おばあちゃん、、、?これは、!」
「こちらの女性から通法いただいたのですよ。犯罪者を確保しているから捕まえに来てくれってね。あなたは痴漢の容疑で指名手配をされている。ギリギリ事項前で助かりましたよ、おばあさん。田島健二容疑者、12時56分逮捕!!」
「そんな、、!」
俺は言葉が出てこなかった。あんなに信頼しておばあちゃんに裏切られたなんて、、。なんで、なんでなんだおばあちゃん!!あんなに優しくしてくれたじゃないか!!そんな目でおばあちゃんを見た。すれ違い様におばあちゃんは俺に向かって言った。
「あなたが犯罪者だってことは知っていたのよ。ただ賞金額が膨れ上がるのを待っていただけなの。ごめんなさいね。ありがとう。」
「う、、うわぁぁぁぁぁあああ」
俺はその場で泣き崩れた。初めて信頼できた人だったのに。こんなにも俺に優しくしてくれる人がいるのかと、感動したのに。あれもこれも全部嘘だったのか、、。俺は人を初めて信頼し、また、初めて裏切られたのだ。信頼している人に裏切られるという行為が、こんなにも苦しいだなんて俺は初めて知った。皮肉なことだ、初めて信頼した人に、初めて裏切られた。こんな惨めなことはない。もう俺には、何も、ない。
その日、全てを失った田島健二は、捕まった。
ー完ー
(※この話は田島さんの妄想であり、現実とは一切関係ありません)
◇◆◇◆◇◆
「まもなく〜新宿〜新宿〜」
ああ、なんて負の妄想をしてしまったのだ俺は。
会社に行きたくない気持ちと相まってこんな最悪の事態まで考えてしまうとは、全く朝から嫌な気持ちになる。ともあれ、こんな最悪の結末を防ぐためにも俺は毎朝戦い続けなければならない。
「お待たせ致しました〜新宿〜新宿です。ドアが開きます。ご注意ください。」
さて、どうやら朝の戦いは終わろうとしているらしい。
しかし俺の戦いはこれでは終わらない。会社に行ってからもまた戦いの連続だ。
だが、勝てなくてもいい。今日もせいぜい負けないように努力しようか。
痴漢も怖いですが、免罪も怖いですよね。お嬢さんもおじさんも救える方法があるといいですね!