死線
外套を幾枚か重ね
白銀の街にできた轍に沿ってトルム氏は大学まで向かう。
モスクワの冬、今年は例年以上に厳しさを感じずにはいられないほどに体が強張り、空気は肌が白くかさつく程に乾燥している。長い間蓄えている白髭の先も
幾らか凍結しているような気さえしてくる。
まばらに点在する足跡を逐一考えもなく眺めながら
歩く事でなんとか寒さを紛らしてはいるものの
こんな日には特に途方もない心持ちになってくる。
冬は命を感じない。
春や夏には生命力で盛っている白樺の木々も、季節の移ろいとともに命を散らし、この冬の無機質な様相を作り出す、とトルム氏は考え、白く空に混じる息をはき出す度に自身の自明性の概念について頭の余白に言葉を敷き詰める。
命を考える時会いには、もちろん生と死または
自然と戦争を引き合いに出される事が大抵の場合で
あるがトルム氏の見解は違っていた。
彼の倫理学者としての名を一躍世に知らしめた
レポートでは、彼は“唯一つの死”であると語っている。死のみだ、命を裏付けるものは常に死のみで
そこに対する生の作用は存在しない。その常軌を逸した論文によって彼の研究室には多くの奇特な学生が在籍していた。加えて彼の講義を受けるためだけに大学に入学する学生も多く、(最も国内最難関のモスクワ大学に入学できる人間は限られているが)その為トルム氏の社会的地位は相当に高いところにある。
つまり彼の生活は学研や学生達からも親しみを
持たれ新聞社や出版業界とも様々な繋がりあり
概ね良好だった。
けれどもここ数ヶ月で彼の生活を一変させるような
頭を悩ませる大きな事象が降りかかり、そのせいで夜もろくろく眠りにつく事ができないでいる。
丁度夏休みも終盤に差し掛かり、そろそろ後期の授業に備え大学全体がじりじり動き始めている頃、
バイガル湖に旅行に行っていたトルム氏の研究室の
学生十人がその消息を絶ったとモスクワ警察本部から
直々に知らせが入った。
新聞各紙も早々にこの事件を記事にし、
警察本部の連絡から翌一週間後にはロシア国内全域に
知れ渡るようになった。
実際問題、大学への抗議の手紙や電報も多数寄せ付けられ、なかにはトルム氏の生徒管理に言及したものもあった。トルム氏自身も自分の頼れる情報網を徹底的に手繰ったが真相にたどり着くには一枚も二枚にも手掛かりが足りずにいた。
もちろん警察の捜査も全く進展を見せず
形に現れるものと言えばモスクワ中から大学に寄せられる非難の手紙と 風評によりほぼ失墜仕掛けているトルム氏の権威だけである。(例を上げるならば、彼の後期授業の受講者は前期の半分にも及ばない)
それらは彼の心身を疲弊させ陰鬱へと追いやるのには十分な材料ではあったが、それでも彼が大学へと
毎日足を運ぶのは、この不可解な事件を1日でも早く解決させるためだ。
そもそも夏のバイガル湖とは比較的穏やかな生態系のもと真昼には燦々と日差しが差し込み、夜には満天の星空を移し出す程に優れた観光地で、集団自決でも
計らない限りそうそう危険な目に遭う事も少ない。
尚且つ仮に彼らの身に何かしらの以上が起こったとして、水中まで時間をかけて捜索している警察隊が
なんら痕跡を見つけられないという不可解さも脳裏に
こびりつき気が気ではない。
つまりトルム氏が導き出した答えは、学生達は夏に課した合同研究レポートの為バイガル湖に赴き、その研究の過程でバイガル湖とは、また別の場所で事件に巻き込まれたというものであった。
そしておおよそ、彼らの研究資料は学内に潜んでいるとトルム氏は踏んで、環境倫理学の膨大な文献を学生達のレポートに照らし合わせると言う胃が縮まるような作業を夏明けから続けている。
大学構内に入ると、大きな尖塔を形どったモニュメントをくぐり抜け、サクサクと雪を踏み鳴らしながら自らの研究室にいかにも訝しげな顔をして入る。
いつもと同じように、コーヒーの香りが十分に染み込んだビロード張りの褐色のソファに腰掛け、構内用
ポストに入っている学生の提出レポートや他大学の
教授からの電報に目を通す。
その中に見慣れないほど大きな茶封筒が入り込んでいた。普通、学生がレポートに使うような用紙にしては一回り大きく中には何かノートのような物が入っているようだ。封筒自体、心なしか薄汚れていて細かいシワが全体的に目立つ。宛名にはトルム氏の名前が神経質的な、か細い字で書かれ指定住所もしっかり
この研究室を示しているようだ。軽く息を吐いたあと
裏の差出人の名前を確認した時トルム氏は目を見開いた。イワン・イリッチ、失踪した学生の内の一人の名がそこには記されていた。
殆ど興奮した状態でトルム氏は封筒を破った。
やはり中にはボロボロのノートが入っていて、そこには合同研究レポートと題されてある。
しっかりと日付けも記されていて、それは夏休みの始まる一週間前からの記述の様だった。
以下はノートの記述によるものである。
敬愛なるモドリッド・トルム先生に我々の研究レポートを託したいと思う。どうかご拝読いただくとともに、この研究についての考察を示していただきたい。
我々と言ってもこの記述を記しているのは私イワン
一人ですが今となってはいなくなってしまった、仲間達もそれを望んでいると思います。なによりこれは、これから、いなくなってしまうであろう私自身の最大の望みです。どうかこの不可解な事象について先生も考えていただきたい。そしてそれを公にするもしないも貴方の自由です。
表紙裏に雑に書かれていた文章はそこで終わっていた
まるで何かに急かされている様な字体だった。
最初のページから察するにこの研究は日記形式で
記されている様だ。
七月二十一日
夏休みも、もう時期始まる。皆の期待も高まってるし、何しろ一番俺が興奮している。そして、もちろん課題をこなさなきゃならんわけだが、俺達の研究チームは早々にテーマを見つけた。アシュリーには本当に
感謝してるよ。こんな面白い物を見つけてきてくれたんだから、世紀の大発見だ!イワン先生も肝を冷やすはずさ!とりあえず皆で順番にこのノートにこれからの記録を取ってそれをレポートにまとめる予定だ。
チームの皆その程でよろしく。じゃテーマをとりあえず書こう。死だ!俺達は箱の中に死を閉じ込める事に
成功した。これから夏休みの間この箱の中の死について研究したいと思う。これはアシュリーの庭で起こった出来事なんだ。ある日アシュリーの弟が虫かごの中にコオロギを2匹入れて納屋にしまっていた。するとその日の朝コオロギは2匹とも死んでいたんだ。まぁ
そんなに珍しくもないよな俺にも覚えがあるよ。そして、また別の日に弟君はカマキリを入れていたんだな
せっかく可愛がっていたカマキリは翌朝には死んでいた。それで弟君があまりに号泣する姿を見てアシュリーは不思議に思ったんだ本当にこんな偶然があるのかってさ、俺はまぁそんな事普通だと思うけど。勘のいいアシュリーはその虫かごを大学に持ってきたんだ、
それで研究チームの俺達にその話をボヤいた後例の
虫かごを見せてくれた。最初に興味を示したのはクレハだったと思うんだ、俺達はただの偶然だってアシュリーをバカにしてたけど(だってそうだろ?虫が二回だけ籠の中で死んだだけだぜ?)クレハだけは妙に真剣だったな。理学部からモルモットを借りてきてくれたんだ、サッとモルモットを入れてさ、三十分くらい
たってかな?あっさりモルモットは死んだよ。正直、戦慄を覚えたね、みんな黙り込んでたしアシュリーは
殆ど泣き出しそうになってた。それでクレハがニヤけながら言ったんだよ、「皆研究テーマが決まったな」
って。その後飲みに行ったんだっけな?男連中は皆
ウォッカばっか飲んでたな。
イワン・イリッチ
七月二十八日
夏休みが始まって五日がたちました。とりあえず
今日の研究内容を、今日はついに私たちは虫かごの中の死を別の籠に移す事に決めました。初めにモルモットが死んだ日から私たちは、あらゆる生物を虫かごの
中に入れ殺してきました。(フナ、セミ、蛙、キャベツ)そこでチームは一つの結論に至ります。この虫かごの中にいる死は生きていると。それは昨日アーロンが記述した通りです。そしてこの生きている死をどうにかして移動させる事が出来ないのかと、言い出したのはクレハです。クレハはなんでも思いつきますね。
つまり私達の研究は次の段階に進んでいて、もっと大きな生物を箱の中に入れなければならないのです。
それにはあの虫かごでは無理がありますね。私達は
木材屋に行って自分達で大きな箱を作りました。
調度、イワンの家の犬小屋くらいの大きさですね。それでも犬を殺してしまうのは心が痛むので止めておきたいですね。結論から言うと実験は成功しました。
つまり、私たちの主張の裏付けにもなる訳です。死の移動に成功した訳ですから。実験はとても簡単でした
虫かごをひっくり返して箱の中に落とすだけですから
途端に虫かごは機能しなくなりました。(虫かごとしての機能は十分発揮できるのですが、つまり虫を入れても死なないようになりました。虫かごは弟に返そうと思います。)箱の中に私たちは、ゴルビリーゲンが
釣ってきた雷魚を入れました程なく雷魚は死に至りました。死に至るまでの時間が早まっているような気がしたのは私だけでしょうか?私達は実験成功を喜びその夜飲みに行きました、酔った勢いでゴルビーにキスをせがまれたのはここだけの話に留めておきましょう。アシュリー・リングレッド
八月九日
アシュリー本当にあの日のことは記憶に無いんだよ
謝りたい思う。こんど釣りがてら飯にでも行こうお詫びとして奢るから。
僕たちは今バイガル湖にきてる。ここから一週間くらい皆で実験をしようと思う。もちろん箱はクレハが
トラックに積んで持ってきてくれた。今のところ死は
成長を続けている箱の中に生物を入れた後今じゃ数分後には生物は死に至る、それどころか死は命を食べるようになったんだ、(まるで人間みたいだな)今日は
野良猫を入れたんだ、驚きだよ猫は瞬間消えたんだ!
こうなってくるとトルム先生の長年の主張がある意味
覆せるかもしれないしある意味肯定されるかもしれない。命を肯定するものは生を孕んだ死なんだ、死は生を食べて存在して、命とはそれに裏付けされているのだ。これから一週間僕らはこの豊かな生態系の生き物
をこの箱に入れたいと思う。僕らは一つの結論に辿り着きつつあるんだ。夜には皆で飲み明かした、リキュールを持ってくるのを忘れて度の強いワインで皆吐き
まくった。ゴルビリーゲン・カルフス
八月十二日
最悪の気分だ。俺達は馬鹿だった、いや本当にただの
好奇心だったんだよ初めは、あぁ俺なら良く考えたら
分かった筈なんだ。死が箱を飛び出しやがった、
朝起きたらアーロンが居なくなってた、服だけが全部
残っててまるで虫の脱皮みたいだったよ。こんな事を
警察に相談しても無駄なのは俺達が一番知っている
俺達でどうにかするしか無い。このまま放っておいたらあいつはこのバイガル湖を食べてしまう。捕まえるんだ一刻も早く箱に閉じ込めて湖に沈めるんだ。
もう帰るべなのかもしれない。あいつが来るんだ
次は誰がやられるのかも分からない。
クレハ・ジェミー
八月十六日
今日皆でめでたく帰る予定だった。皆で栄誉を称えあって飲みに行く予定だった。皆いなくなった。俺以外
クレハ、ゴルビー、アーロン、アシュリー、メデル、
カシュリーシャ、ロビンソン、ソトニコフ、アレン
俺たちはあいつを見つける事が出来ないまま、あいつ
に捕まってしまった。気持ちが悪い、ずっとあいつに
見られてるみたいだ。俺も間違いなく奴に捕まる。
けど帰る訳にはいかない。俺らが始めた実験なんだ
研究者の端くれとしてここで退く訳にはいかない。
八月十七日
俺はついに死を見つけたんだ!
長かったよ、うろついていたら目の前で確かに蝶が消えたんだ!俺は急いでそこに飛び付いた死は思っていたよりも小さかった、というより俺は気が付いたんだ
ゾッとしたよ。こいつは分散してるんだ着実に分散を繰り返しあらゆる物にくっ付く、初めあの虫かごに入っていた、死も分散したものだったんだそれを俺たちがまんまと育ててしまった。飽和した死はやがて分散するんだ。 俺は喰った、捕まえた死を喰ってやった。それ以外思いつかなかった。そしてこのバイガル湖に分散した死を俺は全部喰ってやるんだ!それまでは帰れない。俺はこの研究成果をトルム先生に送る事に決めた。いつ死ぬかも分からない。近くにポストがあって良かった。トルム先生、これが俺たちの研究です。俺たちの命を託します。 イワン・イリッチ
全てを読み終えたトルム氏の体をとてつも無い寒気が襲った。違和感だ、この違和感は何だ。自分を落ち着かせる為に立ち上がりコーヒーを淹れようと伸びをして振り返った瞬間、トルム氏は目を見張った、
ばさりと落ちるノート音だけが研究室に響き渡った。