わたしだけ
新村さんはそれきり語ろうとしなかった。他の話題を出すのも重苦しく、お互いにしばらく黙っていた。先ほどみどりが目覚めると、新村さんはみどりの相手をしてくれている。しっぽを取られないようにしながら、軽い動きでひょいひょい動き回る。あちこち飛び回って逃げる新村さんが面白いのか、みどりはずっとご機嫌だった。
その後姉が迎えに来ると、みどりは喜んで甘えに行く。姉もどこかほっとした様子でみどりを抱き上げた。
「ばいばい。」
みどりが最近覚えたという、数少ない言葉を駆使して新村さんに手を振っている。
「またな、みどり。」
新村さんも返事をしながら、それに応えるかのようにしっぽを大きく一振りしている。
わたしはぎょっとして新村さんを見た。次いで姉も見る。さも当然そうに喋る猫を、姉はどう思っただろう。おろおろしていると、姉が不思議そうにしながら声をかけてきた。
「どうかした?」
「え?いや、どうって・・・」
「そういえば、あなたいつの間に猫を飼っていたの?知らなかったわ。名前は?」
新村さんの頭を撫でながら姉が問うと、新村さんが答えた。
「新村市之進と申す。」
ますますぎょっとして固まってしまったわたしに、姉は少しむっとしたような顔をした。どうやら、わたしが姉の話を聞いていないと思ったらしい。
「ねえ、ちとせったら。聞こえてるでしょう。この子の名前。付けてないの?」
「え、あ、ああ。聞いているわよ。新村さんっていうの。」
「へえ。変わった名前つけたのねえ。苗字みたい。」
苗字で合っている。だが、言わない方がいいだろうと思い、わたしは黙っておくことにした。
「またね、新村さん。みどりと遊んでくれてありがとう。ちとせをよろしくね。」
「なんのこれしき。任されよ。」
新村さんはどんと胸を張っているかのような雰囲気をまとって返事をした。しかし、姉はわたしと二、三言葉を交わしてから、みどりを抱いて帰って行った。
「ねえ、新村さん。」
「ん?」
「お姉ちゃんには新村さんの言葉が分からないのかな。」
「そのようだな。」
「わたしにはわかるのにね。」
「散歩の途中、財布を落とした男を見かけたときに声をかけたことがあった。だが、やはり全く通じなかったよ。君には通じるのだから、それは気のせいかとも思っていたが、どうやらそうでもないらしいな。」
「なあんだ。心配して損しちゃった。冷や汗をかいたわ。」
「そうか?それより、ちとせさん。」
「なあに?」
「そろそろ、この首輪を外しては貰えまいか。俺は猫だと諦めて努力はしてみたつもりだが、やはり息苦しくてならない。」
耳をぺたんこにした新村さんに、じいっと見つめられる。
「えええ、かわいいのに。」
「俺はかわいくなくていい。頼むよ。」
「余所の猫と見分けが付かなくなったらどうしよう。」
「この毛色は我ながら珍しいと思うが、この時代にたくさんいるのか?」
「ううん。見たことない。」
「ならば、大丈夫だろう。俺はどこにも行くあてはないし、よその猫と見紛うこともあるまい。」
わたしは彼の首輪をはずすことにした。初めは彼を猫だと思い、首輪を用意した。けれど、元は人間だったと言うのだから、やはり違和感はあっただろう。
「ふう、スッキリした。やはり首輪なんぞ慣れるものではないよ。」
新村さんは、肩こりを治すように首を左右に振ってそう言った。うんと伸びをして、気持ちよさそうにしている。
「そう?それはよかったわ。でもちょっと残念ね。せっかくかわいかったのになあ。」
そうは言ったものの、新村さんは心底嬉しそうにしていいる。これはこれでいいか、と思った。