よろしく頼む
「ただいま、ジュウベエ。」
わたしは小さな居人に声をかける。彼は最近、わたしを玄関まで出迎えてくれるようになった。外の足音でも聞こえているのか、わたしが玄関を開けると必ず上がり框に座っているのだ。大学を出て、就職を期に一人暮らしを始めて半年程になる。少し寂しく思っていたところだったので、それが思いのほか嬉しかった。
「ありがとう、ジュウベエ。」
ジュウベエの顎下をくずぐってやる。彼は気持ちよさそうに目を細めた。少しくすぐったそうだが、嫌がる風でもない。
いつまでも「猫ちゃん」ではいけないと思い、名前を付けた。最初は、体が黒いので「クロ」にしようとしていた。だが、試しに呼んでみると「それは自分のことか」とでもいいたげな顔をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。
次いで「ムサシ」と呼んでみたが、これもあまり良い反応ではなかった。じろりとわたしを見る目は虚ろで、哀愁すら感じた。
最後に「ジュウベエ」と呼んでみた。これは許容範囲だったらしい。しばらくの間じっと下を向いて悩んだような素振りをした後、にゃーと鳴いた。これを了承と捉え、以来彼をジュウベエと呼ぶことにしている。今思えば、もしかしたらあれは諦めだったのかもしれないが、まあいいだろう。ジュウベエは時々、言葉を理解しているのではないかと思う節がある。かといって、彼はにゃーとしか鳴かないので、確かめる事も出来ないのだが。
「ねえ、ジュウベエ。今日はお土産があるんだよ。」
わたしは鞄から小さな包みを取り出した。首輪を買って来たのだ。薄い紫色で、小さなリボンがついている。それに小さなアメジストを自分で取り付けた。
「どう?可愛いでしょう。ジュウベエの毛の色に合わせたのよ。」
首輪を見るなり、ジュウベエは引きつった顔をしたように見えた。しかし、わたしだってこの子がうちの子である目印は付けておきたい。わたしは逃げ出しそうなジュウベエを素早く捕まえた。ジュウベエは鋭く、怒号のような鳴き声を上げる。逃げ出そうと暴れ始め、必死で抵抗しているが、ここはわたしも譲れない。激しい攻防戦の末、わたしはジュウベエに首輪を付けた。
とっても可愛いと思うのに、首輪をつけたジュウベエは酷く気落ちしたようにしょげている。首もしっぽもこれ以上下がらない、という程ぺたんこに下げて全く元気がない。ジュウベエの周りだけが、急に真冬の夜にでもなったかのように冷え切ってしまっている。声をかけてみたが、恨みがましい視線でじろりと見られてしまった。わたしは、ジュウベエがこんなに落ち込むなどとは思いもよらず、さすがに心配になってきた。
「ねえ、ジュウベエ。首輪・・・そんなに、嫌?」
「嫌だ。君だってそうだろう。それに、俺はジュウベエではない。何度言えば分かるんだ。」
「・・・え?」「・・・お?」
わたしは耳を疑った。目も疑った。ここはわたしの家だ。わたしの他に、喋りそうなものはない。残る可能性としてはジュウベエだが、猫が喋るなんてとても考えられない。混乱するわたしをよそに、ジュウベイエはさらに喋った。
「俺だ。他に誰もいない。」
「どうして・・・。」
「俺だって不本意なんだ。猫なんて。」
「どういうこと?ジュウベエ、猫に見えるけど。」
「だから、俺はジュウベエではない。むろん猫でもない。」
ジュウベエは、名前ばかりか猫である事まで否定した。わたしはますます混乱する。もともと不思議な子だったけれど、その上喋るなんて思いもしなかった。
「・・・猫でないのなら、何なの?」
「人だ。」
「冗談キツいわよ。」
「本当さ。俺、君には感謝しているんだ。嘘はつかない。」
「そんなこと言われても、猫にしか見えないもの。」
「でも、人間なんだ。正確には、人間だった、かな。」
と、言って猫はわたしに近づき、目の前でちょこんと座った。金色の瞳で、わたしの目を真っ直ぐに見つめる。
「俺は薩摩藩士・新村市之進。改めて、よろしく頼む。」
猫は涼しい顔でそう言って、ペコリと頭を下げた。