雨降りの夜
それは大雨の夜のことだった。仕事を終え、帰宅したわたしはリビングのドアを開ける。足元に鞄を置いてほっと息をついた瞬間、視界の端で黒い影が動いたのが見えた。はっとして部屋の明かりを点けると、見覚えのない黒猫がソファにひらりと飛び乗ったところだった。真っ黒というよりも、僅かに紫がかった色をしている。その猫はこちらを振り向き、金色の幾らかつり上がった瞳で、じろりとわたしを睨み付けた。重心を低くして全身の毛を逆立て、今にも飛びかからんばかりに唸っている。けれど、僅かに揺れる瞳がどこか不安げで、怯えているようにも感じる。室内はざあざあと雨音が響いていた。
「おかしいわね。戸締まりはしてあったはずなのに。お前、どこから入ってきたの?」
猫は相変わらず唸り続ける。窓の外側がピカッと光り、わたしは思わず身をすくませた。猫はこちらを警戒し、尾をゆっくり揺らして耳を立てている。わたしから目を離さずに、且つ一定の距離を保とうとしているようだ。少し遅れて、激しい雷が鳴る。わたしはまた、びくりと肩を縮めた。
わたしは改めて猫を眺めた。首輪がないので恐らく飼い猫ではないのだろう。けれど、その割に艶やかで毛並みがよく、怪我もなさそうなので、野良でもないように見える。それにここは地上三階、マンションの一室だ。部屋のどこかが壊された様子もなく、玄関も窓もベランダも、全ての鍵は閉まっていた。この猫は本当に、何処から来てどうやってこの部屋に入ってきたのだろうか。
「あら、お前、濡れてないのね。ねえ、いつからここにいたの?。」
猫は、じろりとわたしを睨みつけるだけで、にゃーともいわない。猫は顔を強ばらせ、どこか落ち着きがないように見える。絶え間ない焦燥感が心中をかきむしるような、何ともいえない苛立ちのようなものを、猫から感じた。
雨はだんだん激しくなっている。雨粒がけたたましい音を立てて窓ガラスを叩く。まるでとりつく島もないような猫だが、こんな夜に外へ放り出してしまうのも忍びないだろう。取り敢えず、今日は家に置いてあげようと思った。
わたしは下ろしていた髪を後ろで一つに括り、雨に濡れた上着を脱いだ。代わりにエプロンをつけて、夕食の準備に取りかかる。
「猫ちゃん、あなたは牛乳でいい?」
お皿に牛乳を注いで、足元に置いてみる。しかし、猫は近づこうともしない。
「お腹、空いてないの?」
猫はこちらを気にしながらじりじりと近づいて、牛乳をちろりと舐める。恐る恐る、といった風だったが、気に入らなかったらしい。そっぽを向いて離れて行ってしまった。
「牛乳は嫌いなの?これはやっぱり猫まんまかしら。味噌汁、もうすぐ出来るから、ちょっと待ってね。」
猫は「そんなことはどうでもいい」と、いった風情で、再び部屋を歩き始めた。時折、視線を感じる。ふと見ると、猫と目が合った。猫はわたしを気にしながら、部屋中をうろうろしている。その様子は、まるで部屋数や家具の配置を確認しているかのように見えた。リビングの他は寝室と風呂場とトイレくらいしかないので、たいした探検にはならないだろうけれど。
やがて夕食が出来上がると、わたしは器にご飯をよそい、上から味噌汁をかけて置いてやった。すると、猫がまた戻って来た。ソファの影から顔を出し、じっと器を見つめている。わたしと器を交互に見ながら、ゆっくりと器に近づいてくる。わたしが器から離れると、猫は漸く猫まんまに口をつけた。それを確認してから、わたしもテーブルについて食事を始めた。少し食べてからもう一度猫を見た時には、既に器は空っぽで、きれいに平らげていた。そして、自分の食事に視線を戻すと、いつの間にか空いているもう一つの椅子の上に猫がいた。テーブルを支えに立ち上がり、わたしが夕食を食べる様をまじまじと見ている。
「もしかして、これも食べたいの?」
猫はにゃーんと鳴いた。今日のおかずはアジの開き、味噌汁、ごはん、ほうれん草のお浸しだ。アジはともかく、猫にほうれん草なんて食べさせて大丈夫だろうか。それにしても、いくら猫でもあまり見つめられているといささか食べにくい。あまりにじいっと見つめ続けるので、わたしは少し分けてやることにした。
「仕方ないわね。お皿に分けるから、ちょっと待ってて。」
皿に出してやると、猫はこれもペロリと平らげた。先ほどは気づかなかったが、何故か必死で前足を使おうとしている。けれど、どうも上手くいかないらしい。結局口を皿に運んで食べに行き、ようやく口に入った。しぶしぶ、仕方なく、といった様子で、未だにそのことに戸惑っているようにも見える。どこの猫かはわからないが、こんなに食べることが下手で生きて行けるのだろうか。わたしは少し心配になった。
当の猫は、少しだけ警戒心を緩めたようだ。それでも、時々わたしの様子を伺い、相変わらず一定の距離は保ったままだ。それでも、ひとしきり食べて満足したらしい。苛立ったような雰囲気は、多少ましになったような気がする。気持ち良いほどの食べっぷりだったが、よほど空腹だったのだろう。
わたしは、せっかく猫がいるのだから少し遊んでみようかと思った。じろりと睨む猫をひょいと持ち上げる。猫の身体はなんとも柔らかく、よく伸びた。けれど、猫は抵抗し、身を捩ろうとしている。わたしは構わず猫を頭からしっぽまで眺めた。
「あ、オス。」
そう呟くと、猫はバツが悪そうにわたしから目を離す。わたしがその目線を追いかけて猫の顔を見るけれど、その度に顔を明後日の方向へ向けてしまう。その様子はまるで恥らっているのか、それとも拗ねているのか、という風だった。毛の色も、食べ方も、恥じらうのも拗ねるのも変わった猫だと思った。けれど、愛嬌はある。
「ねえ、猫ちゃん。あなた、うちの子になる?」
わたしは猫を抱き直し、そっと背中を撫でてやる。猫はこちらを振り向いて、しばらく考えるような素振りを見せた。その後にゃあ、とひと鳴きし、また顔を戻す。それを聞いたわたしは、意思の疎通が出来たような気がして嬉しくなった。
「よし、決まりね。じゃあ、とりあえず、お風呂に入れてあげるわ。」
猫を抱いたまま、風呂場へと向かうが、猫は少し困惑しているようだ。やっぱりお風呂は嫌がる物なのだろうか、などと考えながら猫を脱衣所の床に下した。
どうせなら一緒に入ってしまおうかと服を脱ごうとすると、猫がゴクリと唾を飲んだような気がした。そして、その場でうろうろとせわしなく歩き始める。何か悩んでいるかのような仕草がおもしろく、わたしは思わず猫をじっと見た。すると、猫は急にピタリと動きを止め、さっと走り去ってしまった。なんだか慌てているようだったけれど、何だったのだろうか。わたしはひとまず脱ぐことを諦め、猫を探すことにした。
「猫ちゃん、どこ?お風呂に入ろうよ。」
猫はリビングにいた。わたしが来たことに気付くと、彼はびくっと体を震わせてそのままソファの影に隠れてしまった。金色の目が電灯に反射して光っている。
「どうしたの?とりあえずあなただけ洗っちゃうから出て来てちょうだい。そんなところにいたら、埃だらけになるわ。」
猫はこちらの様子を伺いながら、そろそろと出てきた。わたしはそっと抱き上げ、今度は直接お風呂まで行った。逃げるくらいだから抵抗されることも想定していたが、入ってみれば案外素直だった。体を洗ってやると、とても気持ちよさそうに目を細める。石鹸を流し終わると、自ら湯船に飛び込んだ。猫には少々深かったようだが、悠々と、湯船を泳いでいた。あれは猫掻きとでもいうのだろうか。
「きれいになったね。」
にゃーん、と猫は鳴く。気持ちが良いらしい。タオルで身体を拭いてやり、ドライヤーで乾かす。温まってきたのだろうか。彼はうとうとと船漕ぎを始めている。きっと疲れてもいたのだろう。初めはあれほど警戒していたのに、乾かし終わる頃にはすっかり眠ってしまった。
「ふふ、かわいい。そうだ、名前をつけよう。」
何がいいかな、と考えながら猫をベッドまで運んだ。わたしと猫の、同居生活の始まりだった。