絆5
真由美の父親は、彼女が九歳の時に事故で急死している。その前年には、真由美と三つ離れた妹も、他界していた。
妹は真由美と一緒に公園でドッチボールで遊んでいた時に、道路に転がった球を取りに行ったところを、暴走車にはねられ亡くなった。
父親の死は、表向きには事故死となっているが、残された妻は、自殺であると確信していた。娘の供養のため、霊場からの帰り道で、ガードレールが施された車の通れない人道から断崖へ、真由美の父親は落ちた。
警察の初動調査のセオリーは、まず他殺から始まる。
しかし、その遥か後ろを歩いていた初老の夫婦とその友人三人が、「フラフラした足取りで、ガードレールにつまずいて落ちた。」と証言した。
警察はすぐに事故死と判断した。
真由美に降りかかった二つの悲劇の中で、真由美の心には決定的な二個の感情が植え付けられた。
一個の感情は「空虚」である。
今でも記憶の中に鮮明に甦る妹の最後。
ボールを取りに真由美を背にして慌てて走り去る妹。
バタン!という大きな衝撃音。
空中をスローモーションのようにして飛ぶ妹。
ドスン!という地に叩き落ちた濁音の響き。
血の色は赤ではなく、黒色という現実。
一瞬で永遠に去って、もう二度と笑いや怒りを共有する事の無い現実。
姉妹が居なくなって湧き出ずる「虚しさ」。
真由美は今でも、大きな音に怯える。
その「空虚」に二つ目のトラウマになる感情か入ったのは、すぐである。
「軽蔑」という感情。
父の目が真由美にそれを与えた。
妹が事故にあった原因は「お前にある!」と言わんばかりの、怒りに満ちた目。吊り上った眉。
無言であるがうえに、心の奥深くまで響く告発の目。無言は真由美に対して、弁解の機会すら与えなかった。
父親は「告発の目」をした後、笑顔を作り真由美に対して「忘れような!」といって真由美を抱いて、そして大声をあげて泣いた。
その笑顔も「告発」の一部のように感じた。
涙が首筋に滴るのが分かった。
耳に入る父親の慟哭。
抱きしめる手の強さ。
真由美にはその意味が理解出来なかった。
父親の真由美に廻された両手の強さ、耳から伝わる慟哭の嗚咽の大きさが加速される値に比例するように、真由美は戸惑う。
「何をわすれるの?」
疑問の先を嘲笑するように、訳の分からない言葉が、心の奥底から聞こえた。
「汚い!よね!」
と叫ばれたとき、
「そう!汚い!」
と心で叫んだ者と同調した。
いつも笑顔で接してくれた父は、もう私の味方ではなく、敵だとその時思った。
それから父親は、抜け殻の皮のように会社を辞め、孤独の殻に入って行った。
「悲しいのはお父さんだけじゃないんだよ!」
いつも学校から帰ると、父の書斎から聞こえてくる泣き声に真由美は心で叫んだ。重ねるたび、「軽蔑」は強くなった。
父は妹の育てた「鉢植え」の前で泣いていた。
真由美は今でも、彼女が二十二歳の時に病気で死んだ母親を、不憫に思う。
母親は真由美が大学を卒業するのを待つようにして、死んで行った。
感情に生きる父親。
現実に生きる母親。
当然、父が働かなくなってからの、母親の苦労は並大抵ではなかった。その姿を端で見ていた真由美にとって、母親が「お父さんは自殺かも知れないわね。」と晩年言った言葉に、真由美は心で「やっぱり逃げたんだ!」と叫んだ。
悲しみからの逃避。
真由美の父親に対する「軽蔑」は不信の最初の気持ちに、母親の苦労の刹那さが混ざり混んで更に強くなった。
「弱い男はだめ!」
真由美の、力の無い男を蔑む性格が、ここで生まれた。