あきら兄妹の旅・頼みの綱1
男の名前は羽川勉。
岡崎ネジ工業の工場長である。
あきらとは、高校の時の一つ後輩であり、会社創業からの同志であった。
高校時代には、共にラグビーをやっており、あきらはスタンドオフの司令塔、羽川はスクラムハーフというポジションで、お互い、相手の性格は知り尽くした仲であった。
搬送された病院で、検査資料を抱えた医師は、あきらと羽川に説明した。
「顔面神経麻痺には二種類ありまして、中枢性顔面症と末梢性顔面症とに大別されます。」
四十代半ばのすらっとした体形の医師は、教壇で授業をする教師のように落ち着き払って説明した。
その態度はあきらを少し安心させた。
「CTとMRIの検査結果を観ないとまだ断定は出来ませんが、血液検査を含めた他の検査結果で判断しますと、おそらく末梢性顔面症だと思います。」
医師は椅子をあきらの正面に向き直し、直視して言った。
「お兄さん、妹さんの急な顔の変形で驚かれたでしょう?」
あきらはこみ上げて来るものを抑えて頷いた。
「急に顔が変形するものですから、皆さんパニックになるんですよ。
しかしお兄さん、妹さんはウイルスや血管障害は見当たりません。
末梢性顔面症は、別名をベル麻痺と言って、軽度で予後も良い症状です。
安心して下さい。
妹さんを検査終了後観ましたが、もうまばたき出来る状態です。
手足も元に戻っています。」
あきらは安堵のため息を吐いた。
「先生、ありがとうございます!」
あきらは医師に深々と頭を下げた。
「お兄さん、この症状の原因はほとんどが精神的なものです。
これからしばらくは、妹さんにはストレスを与えないようにしてあげて下さい。」
それから医師は、後ろにいる羽川に聞こえないように、顔を近づけて言った。
「妹さんは、かなり強いショックを受けたようです。
このような時代ですから、月に四、五人は顔面神経症で来院しますが、ここまで変形レベルの高い患者さんを見たのは始めてです。
治す方法は、妹さんのストレスを取ってあげる事です。」
医師は告げると、立ち上がり、再度あきらに目線を注ぎ、頷いて面談室から出て行った。
「社長!とりあえずは良かったですね!」
後ろで見守っていた羽川が硬直していた顔を緩ませて言った。
「工場長、付き合わせてしまって申し訳ない!」
「いえいえ!とりあえずは良かった!」
「ありがとう!」
二人は緊張から取り払われた安堵感の中にいた。
面談室の外からは、呼ばれる患者の名前や、駆け回る看護師の声、松葉杖の当たる音、移動して行くベッドのローラー音などがひっきりなしに聞こえていた。
「工場長、息子さんは何歳になる?」
「18で来年、進学ですよ。」
「そうか、早いね。」
「はい、本当、生意気になってしまいました!」
二人は見つめながら笑った。
「羽川、メーカーが商品を廃盤にするかもしれない、」
「えっ!値下げ要求にあのバカは来たんじゃないんですか?」
「値下げはダミーだと思う。
奴らからしたら海外の労働力は魅力だ。
何せ人件費が安い。
旨味を知ったあいつらは、俺たちを切り捨てると思う。
調べたが、あいつらが人道的に我々を切り捨てる方法は、ISO(国際標準化機構)への働きかけだ。
弱者切り捨てという非人道的な行動に対するマスコミ対策としても、機構を動かせば論点がブレる。」
羽川は黙って聞いていた。
「新しい顧客を探さなければならない!」
「社長、まだノーサイドの笛は鳴ってませんよ。」
羽川は真剣な表情をして言った後、吹き出して笑った。
「臭いセリフですね!」
「えっ?」
と言って、あきらも間を置いて笑った。
笑うのは何ヶ月ぶりだろうか?
あきらは羽川に感謝した。
「羽川、俺は負けん!心配するな!
しかし、お前や工場の連中を考えると決断が必要だ。
まだ俺が体力のあるうちに、次を考えた方が良いと思う。」
羽川の表情が険しくなった。
「何があるか分からない時代だ。
会社が潰れる前に、就職活動した方が有利だ。
誤解のないように言っとくが、俺は諦めない!次の顧客を見つけるまでは地獄だが、決して諦めたりはしない。」
羽川は「ふー!」とため息を吐いて面談室のドアのノブに手をかけた。
「分かりました。
朝礼で若い衆にその旨、社長から伝えて下さい。」
あきらは下を向いていた。
「それと社長、あなたの指示があるまで押し続けますよ!スクラムハーフですから!」
羽川はあきらに親指を突き出して微笑んだ。
「羽川!」
あきらは立ち上がり、号泣した。
「また臭いセリフ言ってしまいましたね。」
あきらは「ありがとう!」
というのが精一杯であった。
あきらは会社に戻り、金庫にある証書を調べ、数冊の証書を確認した。
そこに書かれた会社に電話した。
「内容を確認したいので、明日会社に来てください。」
と向こうも了解した。
五件の生命保険会社であった。