あきら兄妹の旅•去りゆくもの
川子は前の座席に座るあけみの背中をさすってあげ、後部座席のローザの肩に手を当て、涙がスカートに滴り落ちるままにしていた。
川夫は前に座る、あきらの肩にそっと手を置き、
「あきらさん、僕らもそうでした。」
と言うとうつむき、頭を起こせなかった。
あきらは車の外で、強風に煽られて叫ぶ電線の泣き声のような音を聞きながら、回想した。
「まあ、女房は突き詰めれば赤の他人です。
子供達も、女房に説き伏せられれば、しょうがなかったでしょう。」
道路の側道に並ぶ、綺麗な椿の葉に溜まった雨の雫を、強風が弾き飛ばして、車に大きな音を立てて、叩きつけた。
「バシッ!」
あきらは五年前に聞いた、この音への怨みを思い出した。
大きな音と共に、無地の封筒が、テーブルに叩きつけられた。
「兄貴、これは何?」
晃は、実家の応接間で、跡を取っている兄に言った。
その封筒の横には、兄の長女の大学の入学祝いに渡した、薄い祝儀袋が置かれていた。
「晃、、封筒に十万円入っている。
俺にできる事はこれくらいだ。
許してくれ。」
兄はうつむいた。
「おいおい、どういうことだい?
俺が今日寄ったのは、ゆみちゃんの大学入学のお祝いに来ただけだよ!」
兄はゆっくりと頭を上げて言った。
「晃、不渡りを出しただろう?」
晃は、ドキッとした。
もう知れ渡ったのか!
「いや、兄貴、確かに不渡りは出したが、新しい顧客が見つかったんだ。
それが起動に乗れば、挽回できるんだ。
心配しなくても大丈夫だよ。」
晃は兄に心配させた事を悔んだ。
普段ならそこで、そうなのか! と言って笑って終わるのが常であった。
しかしその日の兄には、物心ついた時から知っている笑顔がなかった。
二つ違いの弟あきらと、四つ違いのあけみに対して、常に優しく接し気に留めてくれた兄。
それぞれが成人し、両親が他界した今では、なおさら兄妹の情は深まって行っている…と、あきらは信じていた。
その日はもちろん、金の無心などでは無かった。
誰も居ないマイホームでの虚無を払いたいがために兄の家に寄った。
ファミリーの一員と思っている、兄の長女の大学入学のお祝いを兼ねて。
その日、物心ついた頃から知っている兄とは違う、その日のパターン化されていない会話の流れや表情に、晃はまるで赤の他人の前にいるような錯覚を抱いた。
その時、兄の長女のゆみが帰って来た。
小さい時から、晃を「あきらおじちゃん」と慕っていた。
「よう!」と晃は声をかけたが、
「こ、こんばんは。」
と驚いた表情に、いけないものを見てしまった、という嫌悪を隠してキッチンへと隠れてしまった。
「おかあさん!アキラがきてるじゃん!」
「シー!」
キッチンに隠れていた義理の姉と交わしているヒソヒソ話しが聞こえて来た。
兄はキッチンの方を見て、睨みつけた。
晃は情けない気持ちを以て理解した。
昨日の親戚会議での呼ばれ方。
その中で、親族の血を(つまずき)で排他された事。
「晃、いくらここが都会といっても、昔から住んでいる人間にとっちゃ、落ちて行く知り合いに対しては閉鎖的だ。」
兄の、今まで見た事の無い攻める表情を晃はみた。
そして意を決したかのように、沈黙の後、宣告した。
「銀行もお前を見限ったらしい。
昨日、親戚が集まってお前の事を話し合った。
それで結論だが・・
落ち着くまで、お前は親族、また親戚の敷居はまたがないでくれ・・」
晃は、唇をかんだ。
身体が震えて来るのを止められなかった。
晃は、直ぐにでも弁明をしたかったが、憤りの震えには勝てず、じっと投げ出されている無地の封筒を凝視していた。
「皆、借金の催促が怖いんだ。
晃、すまん!黙って呑んでくれ!
あけみも役員だ、お前から伝えてくれ。」
兄は深々と頭を下げた。
しばしの沈黙のなかで、晃は兄との思い出を探った。
常に兄弟の中では、笑いがあったような?
いつも俺をかばってくれていたような?
一緒に通学していたような?
成人して酒を酌み交わしたような?
晃は昨日までであったなら、全て肯定したはずの思い出たちが、今、全てを否定する邪気が入って来るのを、必死で押し殺すことに懸命であった。
このままここにいると、大切なものを失う!
晃は、黙って兄の家を去ろうとした。
兄は弟に、無地の封筒を持たせようとしたが、晃は断固として拒否した。
(十万円で思い出を捨てられるか!)
心で叫んで兄の家を出た。
灯りが無い自分の家への帰り道は、その日は特に長く感じた。
愚痴すら言える人間が、全く居なくなった晃の頬に伝わる涙の線を、やがて来る春のそよ風だけが、慰めるようになぞっていた。