あきら兄妹の旅.・つまずき
その日も空は、灰色の雲が風を味方につけて、厚くうねりながら全面を覆っていた。
強風に乗って地面を叩きつける大粒の雨が、太陽に勝ったと祝杯をあげているように、傲慢な狂騒をあげていた。
六人はその狂騒に怯えながら、すでに約束の時間前には、会社の作業服に着替えて、アパートの前で待機していた。
すると計算していたかのようにすぐに竹崎がマイクロバスに乗って、手をふりながら現れた。
竹崎は六人の表情を確認すると、アパートから車で五、六分の距離の会社に急いだ。
そしてせわしく、事務から順番にオペレーター、調理場、工場へと、それぞれの場所で六人を従業員に紹介して行った。
もちろんどの場所でも、「笑顔」「激励」「拍手」「握手」などで迎えられた。
竹崎はその都度、六人が皆と一緒の環境であったことや、それぞれのカップルの関係などを補足していった。
工場では、八十人の従業員の前で
「これから皆さんも出かけた"誘いの旅"に行ってきます!」
と竹崎は、壇上でコブシを振り上げた。
この時、歓声と共に外の雨音を消し去る程の、力強い拍手が長く続いた。
六人の表情から、怯えが消え、勇気という熱い気持ちが全身に湧き上がった。
その表情を竹崎は確認した。
竹崎は内心、安堵した。
竹崎と六人は、社長室に移った。
竹崎はあきらに向かって言った。
「年功序列でいきましょうか。
場所はどちらにしますか?」
「はい。S市に行って頂けますか。」
「はい、わかりました。近くですね。車だと一時間ちょっとで行けますね。さあ、出発しましょう。」
全員、作業服のまま車に乗り込んだ。
竹崎は暴風雨の中、六人を乗せた車の中で考えていた。
普通、身を隠す場所として、ならべく生活した場所から遠くに身を置くのが心情である。
しかしS市はあきら達が生活していたプレハブからだと、明らかに通勤圏である。
そのような事を思いながら、竹崎は冗談を言って一人で笑っていた。
六人は愛想笑いを浮かべながら、前方を凝視していた。
時々、息を吐きながら逃げたい気持ちを打消しているようだった。
竹崎は決して場所の理由を聞くような、失礼はしなかった。
すると、あきらが静かに語りだした。
「私はS市で、ネジ生産工場の社長をしとりました。あけみはそこで役員として、事務を手伝ってもらってました。」
竹崎の斜め後ろから、ゆっくりと低い声が車内に響いた。
あきらは全員を見渡し、相づちをうった。
他の者もそれに応えた。
あけみはうつ向いていた。
「あきらさん、どんな聖人も叩けば一つぐらいはホコリが出ます。話さなくても大丈夫ですよ。」
竹崎は笑顔で運転席から言った。
「いえ、もう逃も隠れもしません。竹崎社長と皆には聞いて欲しいんです。仲間ですから。」
あけみはハンカチをまぶたに当て、うつ向いたまま大きくうなずいた。
竹崎は前を向いたまま、その時代に駆け抜けた、グローバル化の波に呑まれた話しを黙って聞いた。
フロントガラスを跳ね除けるワイパーの音が、強く響き続いた。
あきらの本名、岡崎晃はS市の郊外の工業団地内に、五年前まで、敷地300坪の岡崎ネジ工業株式会社という会社を経営していた。
その妹である間下明美は、役員として創業十五年の会社を経理で助けていた。
岡崎晃は現場上がりの社長であった。
決してワンマンでなく、従業員思いの社長であった。
全盛期には、年商二十億あり、従業員は五十人、製造機械稼動も八台と順風であった。
創業から十年目の岡崎晃四十歳の時、最初の試練が訪れた。
時代はクローバル化の時代に入り、メーカー側の海外進出に伴う大幅な値下げ勧告がなされた。
メーカー側は人件費コストの安い東南アジアでの生産に旨みを覚え、当時の日本の下請け企業に一種の脅迫に近い無理難題を言って来たのだ。
岡崎晃は呑んで耐えた。
ネジの種類を半分に抑え、メーカーからリースしている機械も半分にした。
自ずと従業員の数も半分に減った。
最初は持ちこたえられるかと思った。
しかし、更に三年後、メーカー側の更なる値下げ勧告があった。
岡崎ネジ工業の赤字へと転落する限界利益は、八千万円である。
その頃には毎日がその境界線を行ったり来たりしている状態であった。
岡崎晃はメーカーに噛み付いた。
しかし、そこで言われた言葉は使用ネジの廃番通告であった。
退行する運は止まらなかった。
それでも岡崎晃は諦めなかった。
新たなメーカーを探すため、全国を奔走した。
廃番終了まで時間がなかった。
その中で、岡崎晃の目の回りに出来た"クマ"
に心を動かされた企業があった。
機械を変えれば、製造出来るネジである。
岡崎晃は希望に燃えた。
「これで従業員が救える!」
喜びを伴い、銀行に融資を申し込んだ。
しかし、返って来た返事が地獄の宣告をした。
銀行側が(事業の将来性に限界あり)という判断のもと、支店長ではなく今年学校を出て来たばかりの青年に冷たく、
「審査に落ちましたので融資は出来ません。」
と言わせた。
それでも諦めなかった。
現場上がりの岡崎晃は、創業から手助けしてくれていた工場長と共に、手作業で新しい取引先のネジを作った。
しかし、その努力に人生は好転の機会を与えなかった。
やがて二回目の不渡りを出し、破産管財人が入って来て、岡崎ネジ工業株式会社は倒産した。
五年前の出来事であった。
この大まかな出来事を、あきらは外の景色とオーバーラップさせながらゆっくりと噛みしめるように、皆に語った。
あけみは手を顔に当てながらむせび泣いていた。
「僕は現場上がりでしたので、自分の技術力に過信していたんです。
だから既存の技術力に溺れ、新しい革新の時代が来ることを読めなかった。
環境変化の対応が出来なかったんです。業界情報の不足が原因でした…」
その後、言葉にならず嗚咽した。
皆、あきらの顔を見れなかった。
竹崎は何も言わず車を走らせていた。
車はS市の手前にさしかかった。
「竹崎社長、僕と妹は感謝を伝えたいんです。」
あきらが運転席の竹崎に言った。
あけみも大きく頷いた。
「はい。」
竹崎は応えた。
「その人と別れてから五年経っていますから、そこに居るっていう保証はないのですが…」
あきらは自信のないように、車窓の景色を見ながら言った。
「いや、希望を持ちましょう!神様ってのは意地悪だが、案外このような願いっていうのには、乗って来るものですよ!」
ちょうど信号待ちであったため、竹崎は後ろに寄り添うように座っている兄妹に、親指を立てて、和やかに微笑んだ。
あきらの誘導により、車は進んで行った。
街の中心の繁華街を過ぎると、緩やかな坂道が続き、先ほどまで、雨水に侵食されていた道路とは別の、一段と広い綺麗に整地された道が続いた。
その道路の両サイドには、大きな家々が隣家と豪奢を競うようにして並んでいた。
家々の並ぶ最終一画の手前まで来た時、あきら兄妹が身を乗り出して、ある一軒家に感慨の念をもって見つめていた。
竹崎はミラーから二人の表情を確認すると、ゆっくりと車を徐行してあげた。
「僕が住んでいた家です。」
と、あきらが言うと、竹崎はファサードを出して車を停めた。
「すっげえー!豪華な家!」
ロングが興奮して言った。
「もちろん、競売にかけられました。」
あきらは笑って言った。
「表札は嵯峨野…」とロングが言ったとたんに「バカ!」とローザの平手が後頭部に叩きつけられ、ローザは声を出して泣き出した。
全員が顔を上げられず、うつむいていた。
「ローザちゃん、いいんですよ。事実のことですから。」
ロングはあきらに謝り続けた。
竹崎は目をつぶり、背筋を伸ばして聞いていた。
「この家でたくさんの友人と食事をし、酒を酌み交わしました。」
あきらは回想しながら話し出した。
車に当る雨音と、ワイパーのリズム音が空しく響いている。
「しかし、一度目の不渡りを出したころから、全ての友人が僕を避けて行きました。
まあ、赤の他人ならまだ耐えられますが、女房子供まで居なくなった時は…
…あの時には参った…」
あけみは声を出して泣いた。
全員、声を殺して涙を流した。
竹崎は腕組みをし、目をつむり、耳だけは雨音に消されないように傾聴していた。