第四章・誘いの旅
プレハブから、心の準備もままならない間に、勢いよく走り出した車の中で、あきらとあけみ兄妹、川夫と川子夫婦、ロングとローザの恋人カップルの六人は、体がガチガチになっていた。
それもそうである。
つい先ほどまで、
「貧乏ジジイ!腐れババア!」
と揶揄され、人目を恐れて、ただ生きるためだけに生活していた裏の環境から、一瞬にして過去に居た、表の世界に戻ろうとしている現実。
またそのような彼らをわざわざ迎えに来てくれているのが、天下のサコーズの竹崎会長であるからだ。
六人はいまある現実を実感出来ないでいた。
しかし車が走って三十分も過ぎない内に、車内は笑い声に溢れていた。
途中で買い物に寄った店では、もうすでに竹崎と六人は、まるで旧知の友人のようになっていた。
「あきらさん!川夫さん!ロング君!これこれ!これ絶対に必要だよ!へえ!こんな便利なものがあるんだ!」
竹崎は一人で店内を見回して、子供のように叫んでいた。
「おねえさん!これどうやって使うの?」
と呼び止められた若い女子店員が、ピタッと横に着いて説明を聞く”子供のようなオジサン”に笑いをこらえながら説明をしていると、釣られて回りの客も説明を聞くという、ちょっとした”実演販売”となっていく。
「ひぇー!これは凄い!」
回りの人達も頷く。
「あきらさん!川夫さん!ロング君!これいいですよね!
だめ?
だめですかね?」
「いや、会長、いいですね!」
あきらも川夫もロングも納得する。
「でしょ!買いましょう!」
と言って、あきらと川夫とロングのカートに入れてしまう。
この騒々しい”子供のようなオジサン”に釣られて皆もかってしまう。
「おー!皆さんもいい買い物をしましたな!」
そこにいた全員が笑い声をあげる。
竹崎のオーラは常に、人を笑顔にするのであった。
「あけみちゃん!川子かあちゃん!ローザちゃん!こっち来て!」
と回りが失笑するほどのはしゃぎぶりは続いた。
「ロング君、これローザちゃんから身を守るために必要じゃないか?」
と必要のないバイク用ヘルメットを指差した。
竹崎が軽くヘルメットを叩くと、
「ポ−ン」
という音が、店内にこだました。
六人は大声で笑った。
回りにいた人達も、堪えられずに笑った。
会計はすべて竹崎が済ませ、車に乗り込むと、予約していたステーキ店へと車を走らせた。
店は、格式ある高級店であった。
主に著名人が利用する店として有名な店であったがため、その日も、外は嵐であったが、世間に名の知れた人達が来客していて、満席に近かった。
竹崎は、皆を予約していた個室に案内すると、知り合いに挨拶をした後、遅れて部屋に入った。
竹崎は店を選ぶ時に、それぞれの好みなど聞いていなかった。
そうする必要はないということを、竹崎は知っていたのだ。
長く”食”という”欲求”を捨ててきた人間は、好き嫌いの趣向は消えているのである。
受け付けない”食材”があること自体が贅沢なのである。
「正式な皆さんの入社式は後として、とりあえず皆さんを歓迎して!
乾杯!」
竹崎の音頭で、祝宴は始まった。
竹崎のグラスに、順番に合わせて行き、皆、感極まる気持ちを押さえるように、礼を述べて行った。
男達とローザはシャンパンに顔を赤らめて、
「アルコールなんて何年ぶりだろう。」
とあきらと川夫は顔を合わせ、竹崎にお礼を言った。
笑顔で応えた竹崎は、あけみと川子とジュースを飲みながら談笑した。
「お肉を用意しましたが、肉が苦手な人は肉と思わずに食べて下さい。食べてみれば納得しますからね。」
と全員、紙エプロンを付けて待った。
クラシックが流れていた。
竹崎はあえて会話を少なくした。
寡黙に食事を待つ事も、期待感を増す要因である。
「会長?」
ローザが恥ずかしそうに問いかけた。
「あのう、ビール頂いてよろしいかしら?」
「あっ!気づかなくてごめんなさい。」
と、竹崎は生ビールを、男性とローザの分を注文した。
ローザはジョッキを両手で支え、一気に口に運んだ。
最初は控えめに飲んだ。
しかし、両手が首の位置から、顔、頭と上がっていくにつれ、ビールはローザの喉を心地好く通り抜け、
「ふー!」
という感嘆の言葉を吐いて、飲み干した。
その飲みっぷりに全員、釘付けになった。
「お見事!」
竹崎は大声で笑い、拍手をした。
全員、それに続いた。
「ローザちゃん、飲み過ぎないでね。」
とロングが言ったとたんに、
バシー!
と後頭部に平手が飛んだ。
頭を抱えるロング。
睨むローザ。
全員が大声で笑った。
個室の外にも笑い声が漏れた。
良識ある他の客達も、和やかな個室を祝福するように、連れ達と目配せをして微笑んでいた。
いよいよ料理が、二人の給仕によって運ばれて来た。
竹崎は、よく知るこの店のオーナー兼シェフに、
「大切なお客様を連れてくるから、最上級の肉を用意しといて下さい。」
とお願いしていた。
シェフは松坂肉でも最上級とされる、但馬を取り寄せた。
さらに、その但馬の部位でも、成牛一頭から、一キロ取れればいいとされる、脊椎の回りにある[イクツキ]という肉を取り寄せた。
この[イクツキ]は市販されていない部位で、生産と解体を同時に営んでいる業者からしか回ってこない部位である。
さらにこの部位を、サイコロステーキに使用したのが、この店のオーナーシェフである神崎である。
神崎と、その弟子達にしか業者も卸さない、貴重な肉であった。
また神崎も、この肉を誰にでも提供することはなかった。
神崎が本物と認めた人しか、[イクツキ]を食することは出来なかった。
神崎雄二
知る人ぞ知る、料理界のカリスマである。
料理が、調理場から運ばれて来る段階から、鉄板の上で踊る肉の香りが、店内を魅了した。
どの料理よりも、優れて香ばしい、ほとばしる香りに、客達は手を休め、注目した。
[イクツキ]の焼き加減は、ミディアムと決まっていた。
その理由は、元来、肉自体が菌が入り込む隙間のない密度の高い部位であり、なんらかの処置をするような事もせずに、生で食べられる場所であるからだ。
皆の前に鉄板が、順番に置かれて行った。
目の前で踊る肉の表面は、うっすらと赤みと焦げ色が、規則正しく配列されている。
香りが、もう食事は始まっている、とばかりにアピールしてくる。
給仕は、また順番に、特製タレを掛けていく。
クラシックの音色が、「ジュージュー」という音に消され、肉のアピールは絶頂を迎え、皆を迎えた。
「お待たせ致しました。」
と竹崎が微笑んで、食事を促した。
皆、強くナイフを入れたが、拍子抜けする程に、肉は軟らかい。
表面はまるでマグロのように赤いが、血を連想させない、きめ細やかな表質である。
一口目を口に入れた。
口の中に、ジュワっとした旨味が広がる感覚に堕ちる。
喉を過ぎると、胃の中だけでなく、全身に旨味が拡がって行く、という感覚になる。
もうそれは、肉を食べているという感覚ではなく、この世の中の、最高食材を食べている、という感覚である。
個室の外で、中から聞こえてくるナイフとフォークの重なり合う音が、見事に調和していた。
外にいる客達は、手を止めて聴き入った。
あまりの美味しそうなフォークとナイフの音に、客達は、小さく、拍手を個室に向けて捧げた。
三組の男女は、それぞれの相方を気遣っていた。
このご馳走の前では気兼ねなく、自らの欲を満たしたいはずであろうが、ステーキの量が半分位になりかけたところで女性陣は、相方の皿に、自分のステーキを乗せて行った。
ローザにおいては、
「ヒロ君、良かったね!お肉好きやもんね!私の分までお食べね!私はビールで充分や。」
と言って、一口食べただけで、後はロングのために、自らのご馳走を分け与えた。
ローザも肉は大好物であったが、相方への慈愛が自らの欲を凌駕していた。
竹崎は、それらの姿に感銘し、個室を出て調理場に向かおうとした時に、オーナーが調理場から出てきて、竹崎に向かって深々と頭を下げた。
竹崎もさらに頭を深く下げ、指を六本、オーナーシェフにかざした。
オーナーシェフは、
「かしこまりました。」と言って、調理場に入って行った。
竹崎は、オーナーシェフの背中に深々と再度、頭を下げた。
お互いに、心で相手の”粋”を称えあった。
「皆さん、今、出てきた分は半人前ですからね。あと一皿づつ出てきますから。私はお腹一杯で、私の分はキャンセルして来ました。
年取ると食も細くなりますわな。」
と言って大声で笑った。
食事が終わり、六人は土下座をするのではないか?
と言わんばかりに、頭を深々と下げ、竹崎に感謝の言葉を伝えた。
「会長、本当にこんな私たちのために、ありがとうございました。
こんな美味しい食べ物は初めて食べました。」
六人は涙がこぼれないように、懸命に堪えていた。
「いえいえ、これから私たちは仲間です。
協力してやって行きましょう!」
と全員でがっちり握手をした。
それぞれが、再び席に着くと、竹崎は皆に向かって言った。
「皆さんにご提案があります。」
「はい、なんでございましょう?」
川夫が応えた。
「もちろん、これは強制ではありません。」
誠は、一人一人の目を見つめ、微笑みに言葉の意味を乗せて、優しく問いかけた。
「過去に旅に出ませんか?」
「過去に旅…?」
あけみが頭を横に傾けた。
「…ですか?」
川子が言葉を繋いだ。
「はい、誘いの旅。」
もう一度、竹崎は皆を優しく見つめた。
竹崎は、鞄から二つの商品を取り出して、皆に説明した。
「これから皆さんには、この商品を生産して、宣伝し、また必要な人に届けて頂きます。」
と言って、それぞれの特徴と、竹崎の製品に注ぐ意味合いと、意義を説明した。
竹崎の静かな口調の奥に漂う情熱が、六人の心の中に投入されて行った。
「これを皆さんに置き換えるならば…」
竹崎は皆を優しく見つめた。
「皆さんがホームレスになった理由は、私らには想像もつかない、様々の理由があったと思います。」
六人は俯いた。
「しかし、それはもう過去の話しで、これからは未来に向かって歩かねばなりません。
皆、決心したように竹崎を見つめた。
「そこで、明日の午後から、それぞれの”過去”への決別の旅に出てみませんか?」
六人は、ポカンとした表情をした。
「この商品に、皆さんの”思い”を吹き込んで送ってあげませんか?
なんでも良いんです。
”許し””償い””生存”など…
また誰でも良いんです。
”大切な人””謝りたい人”など…」
六人は、また下を向いた。
「いや、こっそりです。
対面などする必要はないんです。」
六人は、顔を上げて竹崎をまじまじと見た。
「人の許容範囲は様々で、それは相手の気持ち次第でいいと思うんです。
ただ、過去に対して、一度けじめを付けること。
行動を起こすことが、肝心だと思うんです。
こうして皆さんと私は出会いました。
しかし、偶然に出会ったわけではありません。
皆さんの[どんな事があっても生き抜く!]という信念が、ラッキーを引き寄せたのです。
皆さんはもう十二分、償いはクリアしたんですから。」
この言葉は六人に、勇気を与えた。
内側から、感謝という実感が、さらに湧きだして来た。
「この儀式を、私は”誘いの旅”と呼んでいます。
過去を今一度認め、そしてそこから決別し、未来の夢に自らを誘うこと。
新しい“再生“への旅です。」
六人は見つめ合い、しばらくの沈黙の後、同時に頷いた。
あきらが言った。
「会長、その旅行かせて下さい。」
六人は深々と頭を下げ、決行が決まった。
「それでは、明日の一時にアパートの前で待っています。
今日一日考えて、思いの丈を吹き込んで下さい。」
「わかりました。」
と一同が声を合わせ、店を後にした。
車が、これから生活するアパートの前に着いたのは、夜の十一時であった。
それぞれの住む号室の前には、すでに仮名の表札が飾られてあった。
「ここが皆さんの生活するアパートです。
すでに寝具は中に収められています。
水道も電気も直ぐに使えますので。」
と竹崎が言った時に、凄まじいカミナリが三回続けて起こった。
天上から地に向けて、空間を割るような閃光が走った。
竹崎は身体を九の字に曲げ、女達は相方に抱き着いた。
雨が更に加速するように、地面にのめり込んでいくようであった。
「あきらさん、プレハブには他に誰も出入りはしませんよね。」
「はい、誰もいません。
カギは私達以外は持っていませんので。」
竹崎は安心した後、言葉を続けた。
「誠君は、今日は来客があるから、あそこには居ないはずだから…」
「会長、何か?」
あきらは妹の背中をさすりながら、問い返した。
「いや、この雨ですからね、万が一があるといけませんから。
誰もいなければ安心ですね。
まあ、今日は皆さんお疲れ様でした。
ゆっくりとお風呂に浸かって疲れを取って下さい。」
六人は、満面の笑みを称えるている竹崎に対して、手を取り感謝を述べ、竹崎は車を走らせた。
皆、車が見えなくなるまで頭を下げていた。