リサの誕生日
誠は、祐一が語る一言一言を、静かに聞いていた。
外の荒れた風、雨、稲妻などを、誠の感覚は完全に遮断して、意識が身体の中心辺りにある場所に、”平安”という温かいものを充満させて行った。
その”平安”という温かいものは、荒井副社長、井上祐一、竹崎真一、鈴木専務などの協力者たちに感謝を述べた。
また田下、浮佐たちに、”許す”という気持ちを与えた。
「誠君、タクシーで家まで送るよ。
今日はリサの誕生日だ、楽しんでくれよ、さあ!行こう。」
駅ビルに入っている百貨店で、リサのプレゼントを買い、祐一と誠はタクシーを拾い、誠の家へと向かった。
二ヶ月ぶりの家は、窓から温かい明かりが溢れていた。
誠は祐一にお礼を言って、タクシーから降りた。
二人は固く握手をして別れた。
誠はプレゼントが濡れないように、スーツで覆って、静かに家へ入って行った。
チャイムの音と一緒に、リビングのドアが開けられ、廊下を小さな歩幅で音を立てながらリサが現れた。
誠は、スーツ姿は変わらなかったが、ヒゲが伸び、髪も首元まで伸びている。
リサが誠と判るまでには、少しの時間がかかった。
「おじちゃん?」
リサは顔を斜めにして、問いかけた。
誠は頷いて笑みを返し、後ろ手に隠していた花束をリサにかざして、
「リサちゃん、誕生日おめでとう!」
というや、
「おじちゃん!」
と言って、抱き着いて来た。
「ママ!おじちゃんが帰って来たよ!」
と奥にいるであろう真由美に大声で言った。
「リサちゃん、ずいぶんと帰ってこれなくてごめんね、いい子にしていたかな?」
「うん!」
と言うと、リサは誠の顔に手をやり、
「ワァオー!ヒゲぼうぼう!」
とヒゲを掴んだ。
誠はリサに、ほお擦りすると、
「うわぁ!くすぐったい!」
と身体をのけ反らせて笑った。
誠も大声を出して笑い、久しぶりの義理ではあるが、娘との再会に満足した。
「この前リサね、おじちゃんを駅で見たんだよ。」
誠は、少し驚いた。
その時、リビングのドアが開き、少しだけ真由美が頭を出して、
「リサちゃん、お待たせ!さあ、誕生会始めましょう。」
とリサに笑みで言った後、
「あなたも掛けて。」
と素っ気なく言った。
「ありがとう。」
と誠は言ってリビングに入って行った。
久しぶりの家族団欒である。
誠と真由美は、お互いに直接話しかける事はしなかった。
今日の主役である、リサを介して間接的に会話するという感じであった。
それでも誠は、例えぎこちなくても団欒という現実に満足した。
誠は、その時代に一番人気のある、アニメのキャラクター人形をプレゼントした。
それは、小学生の低学年のリサとおんなじ大きさの人形であった。
「うわぁ!これ前から欲しかったの!」
リサは人形を抱きしめて喜んだ。
「名前は何にしようかなぁ?」
と頭を傾け、腕組みをした後に、誠のヒゲを触りながら、
「ヒゲッパーにする。」
「ヒゲッパー?」
誠が名前の由来を尋ねると、
「そう、だっておじちゃんは、いつも帰ってこれないでしょう。」
リサは真由美にも聞こえるように声を大きくして続けた。
「だから、これをおじちゃんだと思って、毎日話しかけるからね!」
誠の心は熱くなった。
しかし、真由美の顔は曇った。
真由美はその時、誠との離婚を考えていたからである。
つい先程まで、多くの学校の友達が来ていて、楽しくリサのための誕生会をしていたらしく、リサに対するプレゼントが、沢山ダイニングに並べられていた。
真由美は、かなりの数になった皿を洗いながらだが、リサが投げかける喜びの返答には応えていた。
団欒という明るさが、外の嵐を完全に遮断していた。
リサが、興奮の疲れから、うたた寝を始めたのをきっかけにリサの誕生会も一通りの進行を終えざるを得なかった。
誠はリサと一緒に風呂に入り、そしてリサをベッドに寝かせた。
リサが命名してくれた”ヒゲッパー”をリサの横に忍ばせてあげた。
誠はリサの顔を眺め、優しく成長しているのを確認して頬にキスをして、部屋を出た。
ダイニングに戻ると、真由美がテーブルに座ってワインを飲んでいた。
もちろん、誠のグラスは用意されていなかった。
誠は冷蔵庫を開け、缶ビールがあるのを確認すると、
「いただくよ。」
と言って六人掛けの、ダイニングテーブルの椅子に着いた。
真由美から一番遠い位置であった。
風呂上がりのビールは、渇いた誠の喉を刺激するはずであったが、全くと言っていいほどに、その場の雰囲気が、凄涼感をせき止めてしまった。
長い沈黙があった。
嫌悪感が、時間を長く感じさせた。
真由美の最近の態度からして、先に話しかけて来ることはないと誠は思った。
まして、今さら共に空気を共有する場所に真由美がいる事自体が、不思議であった。
「貴方は、いったい?
何のお仕事を?
なさっていらっしゃるの?」
不意打ちの、真由美の言葉に一瞬、誠はたじろいだが…
「…ああ、人事の仕事さ。」
「そのヒゲの生わった、髪の長い姿で?」
「そうだよ、特殊なスカウトの仕事だからね。」
真由美は”特殊”という言葉の意味を知りたかった。
誠がこの前、家を出た後に、すぐに通帳に一千万円近くの大金が振り込まれた事実。
目の前の、みすぼらしい格好。
駅で見たホームレスの介抱の姿。
どこで、これらの現象が結び付くのか?
知りたかった。
「この間、偶然あなたを駅で見かけたの。
あなたはホームレスを介護していたわ。」
この言葉で誠の動揺は消えた。
そして恥じることなく、真由美の言葉を聞いた。。
真由美は迷惑だと言わんばかりに、眉に力を込めて言った。
「ホームレスと何の関係がおありなの?」
誠は、これが一般の妻の意見だと思った。
確かにお互いの夫婦関係において、会話が無く、誤解が生じているのは拒めない。
会話をすることすら拒んで来た妻を責める気持ちを抑えて、誠は語った。
「その通りだ、ホームレスの人達を会社に送り込むスカウトだ、彼らの人生の再生をお手伝いしている。」
「ホームレスの…再生の…お手伝い…?」
真由美は声を上げて笑った。
「あの人達は人生の敗北者よ!好きでホームレスをやっているのよ!生きる気力もない人達に、人生の再生なんてないわ!」
誠はビールを一口、喉に運んだ。
話しのフィールドが今誠の傾注している事であるため、ビールの凄涼感が、今度は五臓に染みて行った。
「もちろんそういう人達もいるのは確かだよ。
しかし、彼らと生活していると分かるんだが、時代に翻弄されてホームレスにならざるをえない人もいるんだよ。
生きる気力がある人達は、確かにいるんだ。
ただ再生するそのきっかけが、一般の人達より厳しい。」
真由美は普段から酒は飲まない。
しかしこの日は、またワインを注いで、口に運んだ。
誠は諭すように、真由美に続けた。
「一度、人間は挫折すると中々立ち上がるのには、時間ときっかけが必要じゃないか。それは君も経験あるだろう?
人が想像もつかない現実で、ホームレスになっている人達もいるんだ。」
誠は、少しは真由美が理解してくれたと思った。
「それであなたは、少しはましなホームレスを探しているって訳ですの?」
「ああ、そうだよ。やみくもにすべてウェルカムって訳にはいかないからね。
スカウトは、その人となりを見るのが仕事だからね。」
「それであなたはホームレスになっている訳ですか?」
「そうだよ。」
真由美に沈黙があった。
誠は少し理解されたと思った。
しかし、次に真由美から出て来た言葉に絶句した。
それは誠には考えてもいなかった当たり前の事であった。
「リサが可哀相です!
リサのパパはホームレスって知られたらあの子が可哀相です!」
誠は一瞬にして、絶望感に苛まれた。。
(そうだな!)
返す言葉が無かった。
真由美の言葉は、真実であった。
誠は逃れられない”現実”に、彼の与えられた人生の皮肉を、怨んだ。
(所詮、俺は愛すべき人と、引き裂かれる運命か!)
今さらホームレスの人達と、縁を切る事は出来ない。
かといって、血は繋がっていなくても、愛するリサと別れたくはない。
今は心が離れている妻に対しても、(根気よく話して行けば、必ず分かり合える。)
と思っていたからだ。
(家族だから!)
この思いは変わることは無かった。
微かに聞こえる暴風雨が、夜の闇と同化し、誠の気持ちを萎えさせ無言にした。
真由美は自らの言葉で、頭を垂れた夫に対して、軽蔑の眼で俯瞰していた。
誠は財布に閉まっていたネックレスを取り出した。
真由美との再婚以来、封印していた思いを、そっと取り出した。
亡き前妻の形見の品である。
(ごめんね。)
誠はネックレスを握りしめた。
(リサは必ず大人になった時に、今の自分の事を理解してくれるはずだ。
しかし人の痛みが解る人間に成長したとしても、今、この七歳という年齢でこの事を知ったら、人の痛みを知る前に、親を恨む原因になりかない。)
誠は決断した。
とその時、「ドカ−ン!」という轟きが地に響き、電気が切れた。
灯りが遮断された。
真由美は「キャー!」という叫び声とともに椅子から転げ落ち、フロアーに崩れ落ちた。
誠は冷蔵庫にある誕生日ケーキのロウソクをガスで点けて、リサの部屋に一目散に急いだ。
リサは一瞬、目を開けたが、誠が背中を優しくさすると、寝返りを打ってまた眠りに着いた。
リサの隣の「ヒゲッパー」が優しい眼差しで見つめていた。
誠も微笑みを返し、愛おしむように、リサの頬を撫でた。
手にしていたネックレスを、リサの首にかけた。
(どうか!この子を守って下さい!)
心で万感の涙を拭い、しばらくリサを眺め、そして静かに誠はドアを閉めた。
リビングに戻り、残りのロウソクをテーブルに燈した。
誠は、まだフロアに頭を抱えて、崩れ落ちている真由美の手を取り、優しく抱えて席に着かせた。
誠は倒れているグラスを新しいのに変えてやり、ワインを注いであげた。
真由美はいくらか落ち着きをみせた。
「君の好きなようにすればよい。
君からしたら、僕も含め、彼らはクズかもしれない。
しかし、どのような境遇でも人間は、ちょっとしたきっかけで変われるはずだ。
僕はそう信じる。
君は君の道を歩めばいい、地位もあるし、経済力もある。
僕は僕の道を歩くよ。」
言い終わると、誠はスーツに着替えた。
そして下着から上着と、カバンに詰められるだけ詰めた。
「彼は大丈夫だろうか?」
誠がおもむろに呟いた一言を、真由美は聞き取った。
(この間、介抱されていた男だわ。
ちょっと待って!
あの男には、奥さんと子供がいたわ!)
誠は嵐の吹き荒む中、家を出て行った。
時計は夜の十一時を回っていた。
駅のコンコースが閉まる、一時間前だった。
閉まる前に、嵐から逃れられる場所を確保しなければ、大変な事になる時間になっていた。