里美
祐一の会社から数本道路を隔てた、人目に付きやすい喫茶店で、祐一は里美を待っていた。
時間は夕刻にした。
この時間は、取り引き先の、ダイアリ堂の人間は、夕方のミーティングがあるため、一人として、会社には来ないこと。
わざとウインドウ側のテーブルを選んだのは、例え祐一の会社の人間に見られようと、怪しい会合ではないということをアピールするためであった。
里美にしても、住んでいる家の近くでないことは、ありがたい事である。
祐一にコーヒーが運ばれて来たときに、里美が現れた。
席に着き、サングラスと帽子を脱いだ素顔からは、”愛人”という、到底、後ろめたい”場所”に居た女には見えなかった。
歳は二十代半ばの、どこにでもいる”お嬢さん”であった。
電話で里美は、大体の"真実"を誠に打ち明けていた。
もちろん最初から、祐一に心を開いた訳ではなかった。
「田中誠さんはご存知ですね?」
と電話口で話してから、里美は一転した。
「私の為に犠牲になったんですか?」
というなり、嗚咽して、電話を続ける事が困難になってしまった。
「僕は、貴方と田中誠さんの味方です。」
と待ち合わせを一方的に決めた感じで、今、こうして約束した場所で、二人は対座している。
里美はココアを注文した。
里美の、まだ女にはなりきれていない、歳の割には童顔の表情に、ココアはあっていると祐一は思った。
祐一は名刺を渡すと、
「田中さんに、相談した時に、井上祐一さんの話題が、二回ほど出たんですよ。」
と里美はまるで少女のように笑った。
祐一も微笑みを返した。
誠が、祐一の事に関して、あらかじめ処方箋を張ってくれていたおかげで、里美の祐一に対する警戒心は、あっという間に取れた。
多少の沈黙の後、里美は関を切ったように、喋り出した。
「この間は、上手く喋れませんでしたが、今日は証拠も用意しました。」
「証拠?」
「はい、改ざんする前の領収書と、改ざんに使用した報告書の捏造前のものと、捏造した後のもののコピーを持って来ました。
それと、田下部長が、私に指示した日時と時間も、思い出せる限りの記録帳も入っています。」
先ほどまではココアを、そのあどけない口元へ運んでいた少女が、今、凛とした口調で語りはじめた様は、まさしく恋人の仇を、これから打つ、という凄みに変わった。
昨日まで、純粋な夢を見ていた少女が、理不尽がまかり通る大人の世界を、短期間で経験したのだ。
心の苦しみが化けた怨念は、今、静かに復讐へと向かって行った。
糊の効いた、白いワイシャツが、仇討ちの装束のように潔く感じた。
二日前の電話では、涙で話しも出来なかった少女が、今は美しい凛とした凄みで、祐一の前に対座している。
「これが証拠です。」
里美はB4版の封書を、祐一に渡した。
そして、あどけない少女は祐一の眼を見つめ、二時間、言葉と自らの心を確認しながら語った。
祐一もそれに応えた。
メモを取る以外は、優しく里美の眼を見て、聞いた。
話しを聞いて行くうちに、里美に対して哀れを感じて行った。
今、この年代の女性であるなら、怨みを口にするのではなく、対座しているのが恋人であったり、女友達であり、話題は趣味の話しや、今観てきた映画の話題であるべきである。
しかし、この里美に与えられた運命は、変な男に捕まって、女性の人生の中で一番輝く年代を、グチャグチャにされた、その怨み節であった。
里美は、
「私は田下部長の事を、二人の時は、敦さんと呼んでいました。私には初めての年上の恋人でした。」
から始まった。
愛人関係とばかり思っていた祐一は、かなり驚いたが、感情を殺して、平素を装った。
里美が語った二時間ばかりの話しを要約すると次の次第である。
里美は退職するまで、三年間経理部に所属した。
経理部は、当初十人の大所帯であったが、田中誠と、田下敦が同時に部長に昇進すると、担当社員、各二人づつの割り当てで、個別の部屋をもらった。
会社側は二人を競争させる事で、会社に活気を与える計算だった。
これにより、田下は、表面上では、功績がすでにある誠に対して表敬したが、心では、蹴落とす対象として、常に、ぎらつく刃を胸にしまっていた。
誠は田下を良き同僚として、認めていた。
田下が、そのような気持ちでいるなどとは思ってもいなかった。
それぞれの部屋には、正社員が各一人と、派遣社員が各一人
という配属であったが、誠の部屋からは、常に笑い声が溢れ、担当者は辞めなかった。
しかし、田下の部屋は笑い声など無く、従業員もすぐに辞めて行った。
上司の人間力が、顕著に表れていた。
そしてとうとう里美が、田下の担当経理に回された。
里美にとっての、不幸の始まりであった。
里美は、仕事の呑み込みが早かった。
商品を把握することよりも、経理という仕事の広義な基本を早くに会得したため、どこの部署に配属されても、そつなくこなす技を持っていた。
経理部は女性で占めていた。
里美は痩せてもなく、太ってもいなかった。
背丈も標準で、何処にでも居そうな女性である。あくまでも同年代の女性の標準と言っていいが、その笑顔は圧倒的に周りを凌駕していた。
特に里美の笑い声は、回りにいる同僚の心を和ませた。
会社に出入りしていた人間からも、噂になるほど愛くるしい笑い声は評判であった。
よって里美は、数人の先輩から疎まれた。
田下の部署に配属になってからは、笑い声は聞かなくなっていた。
里美に付いていた派遣会社の女子も、里美の性格と笑顔に一種の憧憬はあったが、先輩女子に睨まれるのを嫌い、敬遠した。
里美は次第に孤独になって行った。
更に、そこに田下が、彼の”癖”をもって里美に近付いて来た。
里美に対する、数人の先輩女子からの疎外感は、、勢いを増して激しくなって行った。
田下の”癖”とは、眼球から入る視界の映像とは別に、彼の肉体から離れた場所にある、<陶酔>を映すカメラがあることだった。
田下は、背徳の中で”いけない男”を演じる事に<陶酔>を覚えた。
そのシーンは、パターンがあり、まず大人の雰囲気のジャズが流れるバーで、悩みを聞き、若い女性の良い理解者を演じる。
相手が知らないカクテルを注文してやり、徹底的に”大人の男”を演じるのだ。
そして、演技のクライマックスの仕上げは、ベッドの上で、官能な声を出させる事で、自らの<陶酔>の極みに持って行く事だった。
肉体から離れた場所にある、カメラから覗く彼自身は<大人の魅力を称えた、愁いのあるいい男>であった。
愛のない営みは、性欲しかない男にとっては、ここで完結される。
こうして田下は、派遣会社の若い女性と共演し、欲求が満足されると、直ぐに飽きるのが常であった。
目的が完遂した後の行動は、噂の発覚がないように、手切れ金を渡して退職させるのを常とした。
里美は純粋な気持ちから、愛されていると思っていたが、演技は作り物の”虚像”を露呈するのに、時間はかからなかった。
里美も、少女という経験値の無さから、田下の演技に騙され、肌を許してしまった事を後悔した。
里美は、例え一時でも田下に好意を寄せた自分の未熟さを恥じた。
田下の唇がはい回った身体を、不潔な物とさえ思った。
田下は、自己満足に付き合わせた女達への、手切れ金の算出に困り、里美を利用する事を、思いついた。
田下の思惑は、いくら経験が浅いといえ、女性の感を凌駕することは出来ない。
里美は、田下から頼まれた稟議書の変更と、領収書の差し替えが、まさか不正であったとは夢にも思わなかった。
田下に問い詰めて判った時には、もう手遅れであった。
そして里美は、勇気を出して、人徳のある田中誠に相談した。
しかし、運悪く、この密会の場所の喫茶店から出て来た二人を、田下が目撃したのだ。
田下の<陶酔>が打ち崩され、ライバルの田中誠に対する<嫉妬>へと変わり、寝返ったと勘違いした”大人の男”であるべき包容力のある主役は”いけない男”となり、本性を現した心は、里美と誠に対する、報復心にすり替えられた。
田下は、里美に不正を告げた。
そしてすぐに、自らの隠蔽工作に動いた。
里美の口止めとして、同罪であると主張して脅した。
更に田下は、里美に携帯の画面を見せた。
そこに映っていたものは、田下との営みの時の、官能に悶える里美の全裸の映像であった。
里美は絶句した。
「卑怯者!」
と言って、携帯を取り上げるべく向かって行ったが、田下の平手が鋭く頬に当たり、里美は鼻血を出し、床に崩れ落ちた。
田下は薄ら笑いを浮かべ、
「里美さん、俺達は同罪だ、この画像は高く売れるだろうな!」
里美は我慢していたが、悔し涙を止める程の強さは無かった。
「浮いた金の半分をあげるから、会社を辞めるんだ。
辞表を提出した時に、この画像のメモリーは渡すよ。」
泣き寝入りの強要であった。
次に田下は、里美と誠のツーショットの写真を携帯で撮った。
二人が喫茶店から出て来た時に、爽やかに片手を上げて微笑む誠と、それに対して微笑み返しを送る、里美のツーショットの写真である。
里美が、事の全べてを田中誠に話したとしたら、正義感の強い男を味方に付けた事になる。
田下は、その写真を大きくコピーした物を携えて、浮佐専務の所に走った。
「専務…
実は、田中部長なのですが、内の山下里美君にちょっかいを出しているみたいなんですよ…
いや、こういう事を進言するのは気が引けて…
後ろめたく、専務の所で口止めして頂きたいんですが…」
田下は、例の写真を浮佐の前に出した。
浮佐は、薄ら笑いを浮かべた。
田下も、静かに同調の薄ら笑いを返した。
ここに、浮佐の地位を危ぶませる、田中誠への失脚へと導く思惑と、田下の不正の隠蔽と、ライバルを陥れるという二人の思惑が位置した。
悪のシナリオは何も苦労は無く、整った。
後は、噂を広め、里美に辞表を提出させれば、全てが上手く行く。
改ざんした書類を田中誠のせいにすれば、完全だ。
ある改ざんした領収書は、誠と田下の部署の合同プロジェクトのものであった。田中誠にも関連がある。
浮佐と田下の薄ら笑いが、専務室の豪華なテーブルの上で交差し、濁った都会の空気と同調して行った。
里美は、田下に対する、怨念の吐露が終わると、
ふーと表情が、明るくなった。
俯いて、ココアに唇を近づける口元には、少女の憂いが宿っていた。
「話してくれてありがとう。辛かったね。」
「すっきりしました。」
と言って、里美は祐一の眼を見て、大声で笑った。
何者かに、取り付かれたような怨念の表情は、完全に浄化されたようであった。
「後、私の心配は田中部長の事だけです…」
「私は、逃げるようにして退職しましたが…
田中部長が、お辞めになったと…聞いた時に…
私、田下の策略だとピンと来ました…」
と里美は言った後に、付け足した。
「決して誤解の無いように、言いますけど、私と田中部長は決してやましい事は何一つありませんでした…
ただ、田中部長とはお話しするだけで、心が洗われました。
田下に話してみる、という田中部長を止めたんですが…」
「やはり田中部長は、田下と話したと?」
「はい、『終わったことは眼をつぶる、ただこれからは過ちは犯すな!山下里美を巻き込むな!』と進言してくれたそうです。」
「なるほど。」
祐一は里美から渡された、B4版の封書を手に取ると、
「決して悪いようにはしませんからね。あと、田中誠さんは、たくさんの実績がありますから、再就職は心配なさらないで下さい。
里美さん、あなたもですよ。」
祐一は、里美に、
「万が一の事があるかもしれません。」
と祐一の携帯の番号と、妻の亜利沙の名前を教えた。
「万が一とは?」
里美が聞いた。
「田下の報復です。」
里美は、意外な言葉に笑った。
「いや!それは大丈夫だと思います。」
祐一も笑った。
二人が喫茶店を出たころには、もう暗くなっていた。
祐一は、タクシーで里美を見送ると、秋山専務に報告のために電話をした。
「おう、そうか!これからダイアリ堂の、荒井副社長と会う予定だが、君も来たまえ!」
と、祐一は繁華街の方へ足を進めた。
祐一は、繁華街の通りにある中華料理店に入ると、秋山専務と、ダイアリ堂の荒井副社長のいる個室に入った。
祐一と、ダイアリ堂の荒井副社長とは、もちろんお互いに協力会社同士であり、すでに顔見知りである。
ダイアリ堂は、森社長と、この荒井副社長と二人で創業した、会社であった。
はっきり言ってしまうと、この荒井副社長が、実質のダイアリ堂の最高権限者であった。
森社長は、身体が弱かった。特に二年前に、がんが早期発見で見つかってからは、不安という病も同時に巣作ってしまった。
森は荒井副社長に、信頼を寄せ、全てを任せた。
荒井も森社長の身体を気遣い、社長の権限を守りながら、会社を切り盛りしていた。
そのような中で、今回の田中誠に対する処遇に対して、浮佐という新任の専務が、副社長を飛び越えた超越行為は、一種の造反に近い行為である。
元々、浮佐は、荒井副社長から仕事の一から十までを、教えてもらった男である。
その浮佐を専務に昇格させたのも、荒井副社長であった。
専務に成り立ての浮佐は、功績という名目が欲しいが為に、独走したのだ。
功績は、「この件は荒井副社長が決めたのではなく、私こと、浮佐が決めた英断である。」
という事で良かったのだ。
中華料理店の室は、完全な個室になっていて、声が漏れる事は無かった。
一通り食事を終えると、祐一は先程まで、里美から聞いた事の一部始終を、ダイアリ堂の荒井副社長と、祐一の上司にあたる鈴木専務に話した。
二人は、口の大きい湯呑み茶碗に手をかけ、静かに聞いていた。
徐々に、二人は前屈みになり、眼は祐一から逸らすことはなかった。
明らかに、祐一の話しが進むに連れて、二人の表情に、怒りが現れて来るのを、祐一は感じ取った。
「という事で、これがその証拠となるものです。」
と荒井副社長に、里美から預かったB4版の封書を手渡した。
荒井は、その中身を確認し、深いため息をついた。
「どうだい?証拠として十二分かい?」
大学の時の、友達同士である鈴木専務が、荒井副社長に言った。
「ああ、決定的だ。」
荒井は資料を封書にしまい込むと、お茶をひとくち、口に含んだ。そして眼を天に向け、すぐに下に移し、考えこんだ。
「なあ、決断は、すぐがいいぞ。
悪は早く、経ち消さねばならない。
ここで変な優しさを出したら、なおさら悪を助長させる事になる。」
鈴木は諭すように言った。
「ああ、分かっている。」
荒井の頭の中は、浮佐と田下の処遇のことはもう終わっていて、辞めた田中誠と、山下里美の事に移っていた。
「荒井副社長、俺達はあくまでも外野だ。
決めるのはそちら側だからね。」
鈴木は超越しない事を示した。
「まあ、処遇に関しては、サコーズの竹崎流で行くさ。」
荒井は快活に笑って応えた。
「おう、竹崎さんの後任社長選出の時の、英断ね!」
鈴木も手を打って、その言葉に満足した。
祐一はびっくりした。
サコーズの竹崎といえば、日本はともかく、海外の著名人からも、その仁徳の厚さで慕われている経済人である。
祐一も、もちろん知ってはいる。
おまけに大学の先輩でもある。
常に世界の将来の論調には必ず指名されて、有名雑誌には載る大学の先輩に対して、羨望の眼差しで眺めるだけの人である。
あまりにも掛け離れた、雲の上の人物であった。
また、日本では竹崎の事を、[怖い人物]と思っている人が多い。
それは、後任社長会見の時に撮られた写真が、あまりに凄みを効かせたものであったからだ。
祐一も、そう思っていた。
「お二人とも、竹崎さんをご存知なんですか?」
「いや、そんなに親しくはないけど…
一度だけ、竹崎さんがまだ社長の時に、異業種交流会で竹崎さんの講演を、俺達二人は聞いたことがあったんだ。」
鈴木が言うと、
「その講演の後に、聞きたい事があって、喫茶店で三人で話しを聞いてもらった。
その頃も竹崎さんは、かなり忙しい身であったと思うけど、二時間、真剣に話しをしてもらえたな。」
荒井が懐かしそうに言うと、
「竹崎さんの笑顔には引き込まれたな!」
鈴木の言葉に、二人は深く頷いた。
そのあと、荒井は祐一に質問して来た。
井上君、田中誠君と山下里美さんを、もう一度ダイアリ堂に復帰させたいのだが…
名案はないですかね?」
祐一は言葉に詰まった。
冷静に考えても、”人間の口”の仕業である。
業界内の末端の、それも隅々までに、風評被害をばらまかれている現状で、例え潔白が証明された今でも、二人が復帰したとして、平常心で働ける環境は作れないだろう。
田中誠なら、まだともかく、山下里美に至っては、会社の近くを歩く事すら嫌悪するであろう。
祐一は、荒井副社長の問いに言葉が見つからなかった。
「井上君、すまん。」
と、荒井は言った。
そして、深い思慮を巡らした後、頭を祐一に下げ、懇願した。
「井上君、サコーズの竹崎さんに、田中君の再就職をお願いしてもらえないだろうか?
もちろん、僕からも竹崎さんにお願いしようと思う。
君と大学が一緒ということで、話しはしてもらえると思う。」
祐一は今の荒井の言葉を、最初は理解出来なかったが、頭で、文脈をなぞると、一瞬に辺りが明るくなった錯覚に落ちていった。
「田中誠君は正直で素直だ。
まあ、それが過ぎて今回は罠に嵌まったが、彼の人柄は皆に好かれる。
彼の良いところを、ダイアリ堂では活かせなかった。」
荒井は再び、頭を下げた。それは祐一に対してではなく、田中誠に対してであった。
「僕では役不足であった。
しかし、竹崎さんの元でなら、業界も違うし、田中君のような、誠実な男は生きると思う。」
荒井は再び、祐一に対して頭を下げた。
祐一は心で叫んでいた。
(その手があったか!)
そして言葉に出して言った。
「それは名案です!ぜひ!話させてください!」
鈴木も、
「おう!それはいい!」
と、三人はお互いに眼をやり、大声で笑った。
「どうなるかは分からんが、決まったら凄い前進だな!」
と言った鈴木の言葉は、三人を感動させた。
「山下里美さんも、本人の意向を聞きながら、最善を尽くさなきゃ!」
荒井は独り言のように言ってから、二人に向かって言った。
「良いことも、悪いことも、加速が付くと一瞬だね。」
「まさしく因果応報の結果だな。」
鈴木のこの一言には、凄みがあった。
三人は、紹興酒で乾杯して解散した。
それから三日後、田下が、祐一に挨拶に来た。
もちろん、退社の挨拶であった。
常務室の応接テーブルに、普段から身体を少し退け反らして座る癖のある田下は、その日も、普段の打ち合わせの時のように、何ら変わらずに腰掛けた。
田下は、男にしては背が低く、また痩せていて華奢であった。
その身体的な劣等感をカバーするように、彼は清潔感で補っていた。
その日も変わらず、清潔に整髪された髪型、形崩れの全くないスーツからワイシャツなど、身嗜みも完璧であった。
田下は、まるで他人事のように、今日で退職する事を祐一に告げた。
田下は告げた後、祐一の目線を凝視していた。
今日、田下が変わっているものといえば、その目つきである。
祐一も田下と目線を合わせた。
祐一は、田下の眼差しの奥に、もう一つ、何者かの人格が入っているかのように感じた。
今、祐一を凝視している田下は、薄ら笑いを浮かべている。
普段のニヒルさを装う彼には、考えられない事である。
祐一が退職の理由を尋ねると、
「辞める理由ですか?」
と大きな声で言って、小声で笑った。
別人格が、濃厚さを漂わせ始めた。
祐一は対座した上座の場所から、逃げ出したい気持ちにかられた。
「社内でちょっとした事がありましてね!」
初めて聞く、凄んだトーンに、別人格の、ニタニタした表情が重なって行く。
田下は、スーツの胸に刺していたボールペンを手に取り、そして芯の先を出して、祐一に向けて言った。
「僕がやったことになりまして…
罠にかかりました。」
と笑いながら言ったが、その間も目線は祐一から逸らさなかった。
「罠にかかった?」
「はい!ハメられました。」
ボールペンの芯先は、祐一の眼に向けられていた。
祐一は殺気を覚えて、外の景色を観る風を装って、席を離れた。
窓を開けると、風も無く、陽光も雲に隠れていて、雲のモノクロの色彩が、田下の退社の象徴のように感じられた。
祐一はソファーには座らずに、ドアの前に立った。
田下のスーツの黒と、シャツの白が、鮮明に祐一の脳裏に焼き付いた。
「田下君、君はまだ若い、やり直しはきく、元気でやってくれ、希望は捨てずに。」
祐一は握手をしようと思ったが、田下の殺気がそれを拒んだ。
「いったい誰なんでしょうね?僕をハメたのは?」
田下はニタニタと笑っていたが、言葉は凄みがあった。
祐一にも怒りが湧いて来た。
「田下君、因果応報だ!
君が人にした災いが、自分に返って来ただけの話だ!
反省して次に活かしなさい!」
祐一は声を荒げる事なく、諭すように静かに言った。
「因果応報だと!」
田下は立ち上がり、声を荒げた。
ニタニタした人格が、本性を出して、鬼の表情で睨んで来た。
祐一はドアを開けて、田下の退出を促した。
「反省をして、やり直しなさい。」
田下の眉が吊り上がった。
「あなたですね?」
「そうだ!」
田下は悲しい表情になり、肩を落とした。
田下に取り付いた何者かが、出て行ったと祐一は思った。
田下は下を向いてむせび泣いた。
そして田下は、右手を祐一に伸ばした。
むせび泣く肩が揺れていた。
祐一は差し出された手を握った。
と!次の瞬間!
田下は手に力を入れて、顔を上げ、祐一を凝視した。
田下の顔に涙の筋は一つも無かった。
むせび泣きでは無く、笑っていたのだ。
田下は祐一の顔を見上げるようにして、近づけた。
取り付いたものは健在であった。
片手に持っていたボールペンを振り上げた。
祐一は刺されるものと覚悟した。
しかし、そのボールペンの軌道は、ゆっくりと田下のスーツに収まった。
「井上さん、今まではお世話になりました。」
田下は深々と頭を下げた。
「これからの付き合いは、別の形になりそうですね。
鈴木専務にもよろしくお伝えください。」
と、ニタニタと笑いながら、決心を固めた深い頷きをして、出て行った。
祐一はすぐに妻の亜利沙に電話をし、動揺しない理由を作り、しばらく実家に帰るように指示した。
それから、今回の最大の犠牲者である山下里美にも、事の内容を電話で知らせた。
祐一は急いで、鈴木専務の部屋に行った。
何か言いようもない不安が祐一を襲っていた。
その不安は、徐々に大きくなって、鼓動の響きが増していった。
祐一は、専務室の壁を強くノックした。
「はい、どうぞ。」
と中からは、何時もと変わらないトーンと振幅の、鈴木の落ち着いた声がした。
祐一が中に入ると、鈴木は執務椅子に腰掛けていて、腕組みをしていた。
「おう、どうした?慌てて?」
「今、田下が来ませんでしたか?」
「いや、来てないが?
それよりも今、ダイアリ堂の荒井副社長から電話があって、田下君は懲戒解雇、上司の浮佐は、専務から平部長に降格させたらしい。
これでダイアリ堂も、新たな出発だな。」
祐一は一礼して、田下が来社したこと、鈴木に対して礼を持って辞したことを伝えた。
祐一は思った。
<因果応報という法則は、確かに活きており、ここにおいて悪は善に勝てない。>
と心は、少しばかり晴れやかになった。
これらの事を、祐一は回想しながら誠に話した。
プレハブの外は変わらず、嵐であった。