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ラセン  作者: 天咲賢治
21/48

右側・新聞紙組み

橋を渡り終えようとした時、とうとう空のネズミ色をした大きな雲たちは破裂して、真夏の熱と強風で水分を吸い上げられていたアスファルトの上に、大粒の雨を叩き付けた。


バシバシっという音を立て、最初はゆっくりであった雨粒の波紋が、数秒もしないうちに涌き水のように、地面を湖のようにした。


視界は昼間なのに、薄暗い空間が支配した。


真夏であるのに、半袖では寒いくらいであった。


人々は体を屈めて、小走りに駅へと雨宿りのために走った。


駅への歩道には一瞬にして人々が溢れた。


しかし、誠が駆け込んだ北口に通じる一角の、歩道と平行する車道には横殴りの雨が、強風と一緒に侵入し、ホームレスの新聞紙をあっという間に濡らした。


たまらずホームレスたちも、虚ろな目をして歩道に移動した。


人々は、運が悪いとでも言わんげに一様に眉間にシワを寄せ、数センチでも近寄る事が、疫病でも移るかのように気づかれないよう、遠ざかる。


寒さに震えながら、座り込むホームレスたち。


風が精神に異常を持った者達の、排泄物の臭いを充満させていた。


ホームレスたちは、身にかかった寒さという、身体の苦痛に、少しばかりの喜びを感じた。

苦痛は、意識が体に向けられるため、時間を浪費出来る。


ホームレスたちにとって何が地獄か?


それは時間である。


時を浪費出来ない一秒の地獄である。


錯覚の悪魔が、永遠に続くよ!と囁く地獄である。


天はさらに風を使って、雨を回すように地上に落としこんで行った。


風は駅のクリーム色の壁に反射し、雨を天上へと逆流させている。


雨が螺旋の弧を描き、激しくよじれ、その遠心力でどこまでも天に向かって行くようであった。


しかし、それらは直ぐに力無く、地に落ちて行った。


さらに風も手伝って、地に叩き付けて行った。



その同時刻であった。


誠の妻である真由美と、妻の子であるリサは、タクシーで前の夫である、井上祐一が予約したレストランとへ向かっていた。


リサの七歳の誕生日が、近づいていたからである。


井上祐一から、娘の誕生日のお祝いの申し出の電話が掛かってきた時、真由美は、前夫を思いだそうにも、その輪郭すら遠い没却の中に埋もれていて、白黒の写真のように薄れたものであった。


しかし、リサにしてみれば血が繋がった父親である。


心が躍り、体を揺らして、タクシーの中で饒舌に喋っていた。


突然の大雨の前に、タクシーは徐行運転を余儀なくされていた。


リサはその遅さに苛立って、運転手に催促しようと、前のめりに運転席に手をかけた時、タクシーの横を、駅に向かって駆け抜けて行った男を見た。


「あれ?おじさんだ!ママ!今おじさんが走って行ったよ。あそこ!ヒゲ!モジャモジャになってるよ!」


真由美は我が子の踊るような心に、微笑ましく笑みを投げかけていたが、娘の言葉に驚いて、指差す方を見た。


そこにはスラックスを着た長身の男が、両手にビニール袋を抱え、伸びた髪と揉み上げから大粒の雨足を滴らせているのを、横顔から捕らえた。


真由美には、工場の人事部で働いていると告げていた誠が、ここにいる必然性を見つける事が出来なかった。


まして出張に行って来る、と出かけてもう一ヶ月以上もたっている。


「リサちゃん、人違いよ。」


「そうかな?」

とリサは大袈裟に首をひねったが、


「運転手のおじちゃん、パパと会うんだから、速くしてね。」

と、心は父親に会う喜びの方に戻った。


タクシーの中の親子に気づく事なく、その男は駅に通じる地下道の中に、ゆっくりと姿を消して行った。



タクシーは、駅に通じる繁華街の、飲食店が一階に並ぶビルの前まで来た。


道路の排水溝は、あっという間に、許容範囲を超える雨が湧いていて、タクシーは降りる親子のために、屋根のあるビルの駐車場に車を停めた。


真由美とリサが降りると、父親である祐一が、二人の前に現れた。


祐一は真由美と目線を合わせ、


「今日はありがとう。」


と一言、言うとリサを抱き抱えて、


「リサちゃん、大きくなったね、今日はプレゼント持って来たからね。

何歳になりますか?」


リサは真由美の前であるために、甘える事をためらっていた。


「七歳。」

と目線を合わせずに言った。


「二時間ほど借りるよ。」


「十分前に、店の前に待っているわ。」


「元気だったか?」


「心配いらないわ、全て順調よ!」


真由美は腕組みをして、目線を上げて言った。


「そうか、今日は本当にありがとう。」


と祐一は言うと、レストランの方へリサの手を取って歩いて行った。


店に入ると、リサは真由美から見えなくなったのを確認すると、


「パパ!会いたかったよ!」

と祐一に抱き着いて来た。


祐一は離婚したことで、我が子にも悲しみを与えていたことを悟った。


我が子に対しての愛おしさが倍増した。



店は雨のために、お客は少なかった。


その店は、特にデザートが充実している有名な店であった。


店の選択は、祐一の、現在の妻である亜利沙が選んでくれた。


亜利沙は、我が子のようにリサの好物を祐一から聞き出し、候補に上がった店に電話で確認をしながら、料理まで決めた。


実際に個室に入って出てきた料理に対して、


「パパ!おいしい!ちゃんとリサの好きなものを覚えてくれていたのね!」

と満足した。


祐一は亜利沙に感謝した。


「それだったらプレゼントはこれがいいわ!」

と身重であるのに、祐一と一緒に出かけて、リサのプレゼントまで決めてくれた。


それをリサに渡すと、

「わー!ステキ!パパ!これ前から欲しかったの!ありがとう!」


と言って喜んでくれた。


リサは最高に喜び、心から笑ってくれた。


楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。


「さっきね、おじさんを見たんだよ、向こうの駅でヒゲぼうぼう!」


リサは手で口の回りを伸ばすリアクションをしながら、大袈裟に言った。


祐一は、義理の父親である誠の事には触れずにいようとしたが、リサから言ってきた。


「へぇ、ヒゲぼうぼうだったんだ。」


「そう、ママは人違いよ!って言ったんだけど、あれはおじさんよ!」


祐一はわざと笑って


「おじさんって、新しいお父さんの事?」

と言った瞬間に祐一は後悔した。


”まずい!多感な少女に、二人の父親の存在を暗示させてしまったか!”


「そう!おじさんはママの旦那さん。

しかしパパ、安心して!おじさんとっても優しいから。


今度の誕生日の日には出張から帰って来るって。」


祐一はリサの気持ちの整理の付け方に、安心した。


またここまで整理するために、どれだけの小さな心を痛めたか、祐一は心でリサに詫びた。


リサにとって父親は祐一。


母親は真由美。


義理の父親は、ママの旦那と決めているのである。


「じゃあ、きっと電車でどこかに行くところだったんだね。」


「たぶんね!」


「ヒゲを剃る暇がないほど忙しいんだよ!」


「おじさんもたいへんよね!」


とリサは可愛く祐一を見て笑った。


程なくしてウェイトレスが入って来て、


「お連れ様がタクシーでお待ちでございます。」


と言って立ち去って言った。


祐一は、次に会う約束をリサとし、不機嫌にタクシーに乗って待っている真由美にリサを渡し、後を見送った。


祐一は、亜利沙と一緒の職場になった田中誠が、祐一の前妻の再婚相手とは教えていなかった。


亜利沙が、人のプライバシーの暴露を嫌う女性であったからだ。


また、竹崎真一からも”僕の下で働いてもらうことにしたよ”と言われただけで、仕事の内容までは聞いていなかった。


実直と評判のあの”竹崎真一”の下にいる者が、ヒゲを携えている。


井上祐一はそこが気にかかった。


しかし時には”大胆不適”なところも兼ね備えている”竹崎真一”である。


何を始めているのだろう?


という期待も同時に抱いた。



真由美は、前夫と娘の食事の間に、近くの喫茶店で、スタッフと打ち合わせを計画していたが、キャンセルして駅に向かった。


娘が”おじさんがいるよ”と言った場所まで行き、地下道へと降りて行った。


突然の大雨を逃れるように、地下道は人々で混雑していた。


しかし、ある区域だけ、ぽっかりと人が遠ざかっている場所があった。


その場所で、先程タクシーから捕らえた横顔の男が、明らかにホームレスであろう一人の人間に、弁当を分け与えようとしていた。


「彼だわ。」


とヒゲが伸びた顔を見て確認した。


真由美の視界には、夫とホームレスの動作が、リアルに入って来た。


かなりの説得の後、そのホームレスは、やっと弁当を誠から受け取った。


それまで、誠がホームレスに話しかけても、目は虚ろに宙に浮いていたが、やっと誠と視線を合わせ、弁当を受け取った。


ホームレスの男は弁当を食べた。


人間の正常な表情に戻って、がむしゃらに口の中に入れた。


誠は、満面の笑みになった。


誠は回りにいた別のホームレス達から弁当を奪われないように、そのホームレスの食べ終わるのを待っていた。


「あの人、またクビにでもなったのかしら?」


真由美は呆れた。


「リサには見せられないわ。」


と去ろうとして、後ろを振り向いた時、そこに若い女が乳飲み子を抱いて立っていた。


先程まで真由美が見ていた場面を見て泣いていた。


白いスカートと長袖の青いカーディガンを羽織り、サングラスをして表情を隠していたが、対面した真由美に、明らかにサングラスの向こうから流れている涙が、見て取れた。


真由美は振り返って、ホームレスの男を確認した。


まだ二十代の後半位かしら?


そしてその男を遠巻きに見つめ、涙する女と子供を観察した。


女は二十代前半だわ。


真由美は一つの仮説を立てた。


(若い男はリストラに会い、会社をクビになった。


若い奥さんがいて、子供も生まれたばかり。


夫はクビになった事を告げられないで、借金地獄。


そしてとうとう気が狂って、借金取りから逃げるために、ホームレスになった。)


そんなところかしら。


真由美は

負け犬たち!

と心で吐き捨て、階段を上って行った。


夫に対しては、更に軽蔑の思いが強くなった。


とその時、真由美が女とすれ違った瞬間、抱き抱えていた乳飲み子が突然、真由美を待っていたように泣き出した。


真由美は乳飲み子を見た。


顔が異常に赤く、かつ目が白目を向いているのを確認した。


「あなた、ちょっと。」

と赤ちゃんのおでこに手を当てた。


凄い熱である。


「熱があるわ、病院に行きましょう。」


と真由美はその女から赤ちゃんを取り上げた。


女はその場にしゃがみ込み、膝を抱えて泣き崩れた。


「何をしているの!早く立ちなさい!」


と真由美は女を急かして、先程待たせていたタクシーで病院へと向かった。


車中、真由美は、

「何があるか知らないけど、雨の日に赤ちゃんとあんなところにいたら風邪引くじゃない!」


女は、泣きながら、

「すみません。」

と子供を抱きしめてそういうのが精一杯であった。


真由美は診察の結果が、気温の急激な変化で起こる症状で大差ないということが分かると、


「あなた帰るお金あるの?」

と聞いた。


女は、

「ありがとうございます、お金はありますから。」


「そう?」

と言うと、受付で治療代と三万円余計に支払った。


真由美は親切心でそうした訳ではない。


夫である誠が絡めば、何かしら真由美にも関わりが来るように思ったからだ。


「負け犬達に関わるなんてまっぴらよ!

このお金が手切れ金。」


真由美は受付の事務員に、

「余った分はあの親子に渡してあげて。」


と言って娘の元へとタクシーを飛ばさせた。


女には、名前を聞く余裕も与えなかった。



誠は、駅のコンコース内にある百貨店で、着替え用の服と手押し用バックを買い、その中に弁当と一緒に詰め込んだ。


北口の通路に足早に戻ると、男は濡れた体を震わせながら、膝を抱えて座っていた。


先程、弁当を頬張っていた時の精気はなく、眼は再び、宙に浮いていた。


少し痩せぎすの体格が、震える姿を余計に哀れに映していた。


ジーパンと半袖シャツは汚れてはなく、まだここの住人になってから、日が浅いのが分かった。


「このバックの中に、着替えと夜分の弁当が入っている。

遠慮せずに受け取って下さい。」


男は、宙に浮いた精気のない眼を誠に向けた。


「僕はお金持ってません。」

と、か細く言った。


「いや、いいんだ、さあ早くトイレで着替えて来なさい。

また明日来るからね。」


誠は男に告げると、橋の下にあるプレハブへと向かった。


誠は、先程まで階段から男を見守っていた、子供を抱えた女が居なくなっているのを確認した。


「この男と関係あるはずだが…

惜別の涙だったのだろうか?」


誠はこの男を哀れに思うと同時に、竹崎に感謝した。


「僕にこの使命を与えて下さって、ありがとうございます。」


その頃、もう一人、この光景を、遠巻きに観察していた男がいた。


目は吊り上がり、怒りの表情を誠に射していた。


背が低く、中肉の体格は、標準の男で、雑踏の中では、全く目立たない存在である。


何日も着すぎたスーツが、体裁を下げていた。


しかし、その誠を射る眼光に、それを見た人々は、恐怖を感じ、遠巻きにした。


男は誠の伸びた髪とヒゲを確認して、満足した醜い笑みを作った。


誠が、落ちぶれていることを見届けると、駅のコンコースを足速に駆け上がって行った。


かつて誠を、風評から奈落へと追いやった男であった。



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