右側・新聞紙組み
橋を渡り終えようとした時、とうとう空のネズミ色をした大きな雲たちは破裂して、真夏の熱と強風で水分を吸い上げられていたアスファルトの上に、大粒の雨を叩き付けた。
バシバシっという音を立て、最初はゆっくりであった雨粒の波紋が、数秒もしないうちに涌き水のように、地面を湖のようにした。
視界は昼間なのに、薄暗い空間が支配した。
真夏であるのに、半袖では寒いくらいであった。
人々は体を屈めて、小走りに駅へと雨宿りのために走った。
駅への歩道には一瞬にして人々が溢れた。
しかし、誠が駆け込んだ北口に通じる一角の、歩道と平行する車道には横殴りの雨が、強風と一緒に侵入し、ホームレスの新聞紙をあっという間に濡らした。
たまらずホームレスたちも、虚ろな目をして歩道に移動した。
人々は、運が悪いとでも言わんげに一様に眉間にシワを寄せ、数センチでも近寄る事が、疫病でも移るかのように気づかれないよう、遠ざかる。
寒さに震えながら、座り込むホームレスたち。
風が精神に異常を持った者達の、排泄物の臭いを充満させていた。
ホームレスたちは、身にかかった寒さという、身体の苦痛に、少しばかりの喜びを感じた。
苦痛は、意識が体に向けられるため、時間を浪費出来る。
ホームレスたちにとって何が地獄か?
それは時間である。
時を浪費出来ない一秒の地獄である。
錯覚の悪魔が、永遠に続くよ!と囁く地獄である。
天はさらに風を使って、雨を回すように地上に落としこんで行った。
風は駅のクリーム色の壁に反射し、雨を天上へと逆流させている。
雨が螺旋の弧を描き、激しくよじれ、その遠心力でどこまでも天に向かって行くようであった。
しかし、それらは直ぐに力無く、地に落ちて行った。
さらに風も手伝って、地に叩き付けて行った。
その同時刻であった。
誠の妻である真由美と、妻の子であるリサは、タクシーで前の夫である、井上祐一が予約したレストランとへ向かっていた。
リサの七歳の誕生日が、近づいていたからである。
井上祐一から、娘の誕生日のお祝いの申し出の電話が掛かってきた時、真由美は、前夫を思いだそうにも、その輪郭すら遠い没却の中に埋もれていて、白黒の写真のように薄れたものであった。
しかし、リサにしてみれば血が繋がった父親である。
心が躍り、体を揺らして、タクシーの中で饒舌に喋っていた。
突然の大雨の前に、タクシーは徐行運転を余儀なくされていた。
リサはその遅さに苛立って、運転手に催促しようと、前のめりに運転席に手をかけた時、タクシーの横を、駅に向かって駆け抜けて行った男を見た。
「あれ?おじさんだ!ママ!今おじさんが走って行ったよ。あそこ!ヒゲ!モジャモジャになってるよ!」
真由美は我が子の踊るような心に、微笑ましく笑みを投げかけていたが、娘の言葉に驚いて、指差す方を見た。
そこにはスラックスを着た長身の男が、両手にビニール袋を抱え、伸びた髪と揉み上げから大粒の雨足を滴らせているのを、横顔から捕らえた。
真由美には、工場の人事部で働いていると告げていた誠が、ここにいる必然性を見つける事が出来なかった。
まして出張に行って来る、と出かけてもう一ヶ月以上もたっている。
「リサちゃん、人違いよ。」
「そうかな?」
とリサは大袈裟に首をひねったが、
「運転手のおじちゃん、パパと会うんだから、速くしてね。」
と、心は父親に会う喜びの方に戻った。
タクシーの中の親子に気づく事なく、その男は駅に通じる地下道の中に、ゆっくりと姿を消して行った。
タクシーは、駅に通じる繁華街の、飲食店が一階に並ぶビルの前まで来た。
道路の排水溝は、あっという間に、許容範囲を超える雨が湧いていて、タクシーは降りる親子のために、屋根のあるビルの駐車場に車を停めた。
真由美とリサが降りると、父親である祐一が、二人の前に現れた。
祐一は真由美と目線を合わせ、
「今日はありがとう。」
と一言、言うとリサを抱き抱えて、
「リサちゃん、大きくなったね、今日はプレゼント持って来たからね。
何歳になりますか?」
リサは真由美の前であるために、甘える事をためらっていた。
「七歳。」
と目線を合わせずに言った。
「二時間ほど借りるよ。」
「十分前に、店の前に待っているわ。」
「元気だったか?」
「心配いらないわ、全て順調よ!」
真由美は腕組みをして、目線を上げて言った。
「そうか、今日は本当にありがとう。」
と祐一は言うと、レストランの方へリサの手を取って歩いて行った。
店に入ると、リサは真由美から見えなくなったのを確認すると、
「パパ!会いたかったよ!」
と祐一に抱き着いて来た。
祐一は離婚したことで、我が子にも悲しみを与えていたことを悟った。
我が子に対しての愛おしさが倍増した。
店は雨のために、お客は少なかった。
その店は、特にデザートが充実している有名な店であった。
店の選択は、祐一の、現在の妻である亜利沙が選んでくれた。
亜利沙は、我が子のようにリサの好物を祐一から聞き出し、候補に上がった店に電話で確認をしながら、料理まで決めた。
実際に個室に入って出てきた料理に対して、
「パパ!おいしい!ちゃんとリサの好きなものを覚えてくれていたのね!」
と満足した。
祐一は亜利沙に感謝した。
「それだったらプレゼントはこれがいいわ!」
と身重であるのに、祐一と一緒に出かけて、リサのプレゼントまで決めてくれた。
それをリサに渡すと、
「わー!ステキ!パパ!これ前から欲しかったの!ありがとう!」
と言って喜んでくれた。
リサは最高に喜び、心から笑ってくれた。
楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。
「さっきね、おじさんを見たんだよ、向こうの駅でヒゲぼうぼう!」
リサは手で口の回りを伸ばすリアクションをしながら、大袈裟に言った。
祐一は、義理の父親である誠の事には触れずにいようとしたが、リサから言ってきた。
「へぇ、ヒゲぼうぼうだったんだ。」
「そう、ママは人違いよ!って言ったんだけど、あれはおじさんよ!」
祐一はわざと笑って
「おじさんって、新しいお父さんの事?」
と言った瞬間に祐一は後悔した。
”まずい!多感な少女に、二人の父親の存在を暗示させてしまったか!”
「そう!おじさんはママの旦那さん。
しかしパパ、安心して!おじさんとっても優しいから。
今度の誕生日の日には出張から帰って来るって。」
祐一はリサの気持ちの整理の付け方に、安心した。
またここまで整理するために、どれだけの小さな心を痛めたか、祐一は心でリサに詫びた。
リサにとって父親は祐一。
母親は真由美。
義理の父親は、ママの旦那と決めているのである。
「じゃあ、きっと電車でどこかに行くところだったんだね。」
「たぶんね!」
「ヒゲを剃る暇がないほど忙しいんだよ!」
「おじさんもたいへんよね!」
とリサは可愛く祐一を見て笑った。
程なくしてウェイトレスが入って来て、
「お連れ様がタクシーでお待ちでございます。」
と言って立ち去って言った。
祐一は、次に会う約束をリサとし、不機嫌にタクシーに乗って待っている真由美にリサを渡し、後を見送った。
祐一は、亜利沙と一緒の職場になった田中誠が、祐一の前妻の再婚相手とは教えていなかった。
亜利沙が、人のプライバシーの暴露を嫌う女性であったからだ。
また、竹崎真一からも”僕の下で働いてもらうことにしたよ”と言われただけで、仕事の内容までは聞いていなかった。
実直と評判のあの”竹崎真一”の下にいる者が、ヒゲを携えている。
井上祐一はそこが気にかかった。
しかし時には”大胆不適”なところも兼ね備えている”竹崎真一”である。
何を始めているのだろう?
という期待も同時に抱いた。
真由美は、前夫と娘の食事の間に、近くの喫茶店で、スタッフと打ち合わせを計画していたが、キャンセルして駅に向かった。
娘が”おじさんがいるよ”と言った場所まで行き、地下道へと降りて行った。
突然の大雨を逃れるように、地下道は人々で混雑していた。
しかし、ある区域だけ、ぽっかりと人が遠ざかっている場所があった。
その場所で、先程タクシーから捕らえた横顔の男が、明らかにホームレスであろう一人の人間に、弁当を分け与えようとしていた。
「彼だわ。」
とヒゲが伸びた顔を見て確認した。
真由美の視界には、夫とホームレスの動作が、リアルに入って来た。
かなりの説得の後、そのホームレスは、やっと弁当を誠から受け取った。
それまで、誠がホームレスに話しかけても、目は虚ろに宙に浮いていたが、やっと誠と視線を合わせ、弁当を受け取った。
ホームレスの男は弁当を食べた。
人間の正常な表情に戻って、がむしゃらに口の中に入れた。
誠は、満面の笑みになった。
誠は回りにいた別のホームレス達から弁当を奪われないように、そのホームレスの食べ終わるのを待っていた。
「あの人、またクビにでもなったのかしら?」
真由美は呆れた。
「リサには見せられないわ。」
と去ろうとして、後ろを振り向いた時、そこに若い女が乳飲み子を抱いて立っていた。
先程まで真由美が見ていた場面を見て泣いていた。
白いスカートと長袖の青いカーディガンを羽織り、サングラスをして表情を隠していたが、対面した真由美に、明らかにサングラスの向こうから流れている涙が、見て取れた。
真由美は振り返って、ホームレスの男を確認した。
まだ二十代の後半位かしら?
そしてその男を遠巻きに見つめ、涙する女と子供を観察した。
女は二十代前半だわ。
真由美は一つの仮説を立てた。
(若い男はリストラに会い、会社をクビになった。
若い奥さんがいて、子供も生まれたばかり。
夫はクビになった事を告げられないで、借金地獄。
そしてとうとう気が狂って、借金取りから逃げるために、ホームレスになった。)
そんなところかしら。
真由美は
負け犬たち!
と心で吐き捨て、階段を上って行った。
夫に対しては、更に軽蔑の思いが強くなった。
とその時、真由美が女とすれ違った瞬間、抱き抱えていた乳飲み子が突然、真由美を待っていたように泣き出した。
真由美は乳飲み子を見た。
顔が異常に赤く、かつ目が白目を向いているのを確認した。
「あなた、ちょっと。」
と赤ちゃんのおでこに手を当てた。
凄い熱である。
「熱があるわ、病院に行きましょう。」
と真由美はその女から赤ちゃんを取り上げた。
女はその場にしゃがみ込み、膝を抱えて泣き崩れた。
「何をしているの!早く立ちなさい!」
と真由美は女を急かして、先程待たせていたタクシーで病院へと向かった。
車中、真由美は、
「何があるか知らないけど、雨の日に赤ちゃんとあんなところにいたら風邪引くじゃない!」
女は、泣きながら、
「すみません。」
と子供を抱きしめてそういうのが精一杯であった。
真由美は診察の結果が、気温の急激な変化で起こる症状で大差ないということが分かると、
「あなた帰るお金あるの?」
と聞いた。
女は、
「ありがとうございます、お金はありますから。」
「そう?」
と言うと、受付で治療代と三万円余計に支払った。
真由美は親切心でそうした訳ではない。
夫である誠が絡めば、何かしら真由美にも関わりが来るように思ったからだ。
「負け犬達に関わるなんてまっぴらよ!
このお金が手切れ金。」
真由美は受付の事務員に、
「余った分はあの親子に渡してあげて。」
と言って娘の元へとタクシーを飛ばさせた。
女には、名前を聞く余裕も与えなかった。
誠は、駅のコンコース内にある百貨店で、着替え用の服と手押し用バックを買い、その中に弁当と一緒に詰め込んだ。
北口の通路に足早に戻ると、男は濡れた体を震わせながら、膝を抱えて座っていた。
先程、弁当を頬張っていた時の精気はなく、眼は再び、宙に浮いていた。
少し痩せぎすの体格が、震える姿を余計に哀れに映していた。
ジーパンと半袖シャツは汚れてはなく、まだここの住人になってから、日が浅いのが分かった。
「このバックの中に、着替えと夜分の弁当が入っている。
遠慮せずに受け取って下さい。」
男は、宙に浮いた精気のない眼を誠に向けた。
「僕はお金持ってません。」
と、か細く言った。
「いや、いいんだ、さあ早くトイレで着替えて来なさい。
また明日来るからね。」
誠は男に告げると、橋の下にあるプレハブへと向かった。
誠は、先程まで階段から男を見守っていた、子供を抱えた女が居なくなっているのを確認した。
「この男と関係あるはずだが…
惜別の涙だったのだろうか?」
誠はこの男を哀れに思うと同時に、竹崎に感謝した。
「僕にこの使命を与えて下さって、ありがとうございます。」
その頃、もう一人、この光景を、遠巻きに観察していた男がいた。
目は吊り上がり、怒りの表情を誠に射していた。
背が低く、中肉の体格は、標準の男で、雑踏の中では、全く目立たない存在である。
何日も着すぎたスーツが、体裁を下げていた。
しかし、その誠を射る眼光に、それを見た人々は、恐怖を感じ、遠巻きにした。
男は誠の伸びた髪とヒゲを確認して、満足した醜い笑みを作った。
誠が、落ちぶれていることを見届けると、駅のコンコースを足速に駆け上がって行った。
かつて誠を、風評から奈落へと追いやった男であった。