市長
誠は、執務室に用意されたスーツに身を装い、役所に向かった。
久しぶりに着るスーツが、営業で交渉事をこなして来た、過去のそれぞれのステージを呼び起こした。
しかし、その緊張したであろう自分の歴史が、今では取るに足らない、子供の遊びであったように感じられた。
その日、天空は前日までの夏日から豹変し、どんよりとした雨雲が支配していた。
大きなねずみ色の雲の固まりが、強い風に動めき、今にも雲ごと地上に落下して来そうであった。
風が雲を支配し、起動を目線で確認出来るほど、速く運んでいた。
誠の伸びた髪も、風に乱された。
役所に着くと、身嗜みを整えて、
「橋の下のプレハブの件で」
と総合案内で問い合わせると、すでに打ち合わせが出来ているのだろう、
「田中誠様でいらっしゃいますね、お待ち申し上げておりました。」
と女子職員は電話で内線を入れた。
待たされることはなく、二階に通じる階段から、昨日の役人と、こちらも小太りで腹が異常に出ている四十歳位の、ふくよかな髪を短くカットした男が現れた。
二人の贅沢な体格に、誠は違和感を覚えた。
久しぶりに見る、脂ぎった顔艶に、誠は一種の軽蔑が沸き上がるのをどうすることも出来なかった。
「田中様、昨日はうちの佐久間が大変失礼をいたしました。
わたくし市長の明池と申します。」
誠は市長と、佐久間という昨日の役人と、名刺を交換した。
市長はまじまじと名刺を見入った後、
「竹崎様の所の室長様とは知らずに、ご無礼のあったこと、お許し下さい。」
というと誠を二階の市長室に案内した。
昨日は慇懃な態度であった佐久間という男は、今日は打って変わって丁重であった。
竹崎が誠に、
「この名刺が役立つこともあるだろう。」
と言った理由が分かった。
誠は上座に促されて、それは豪華な市長室に入った。
黒光りした来客用のテーブルに三人は着席した。
「いやぁ、昨日は名刺を頂いて驚きました。
サコーズの会長様の室長様でいらしたなんて、腰が抜けそうでしたよ。」
佐久間は演技と分かる、両手を絡ませたゼスチャーで笑いながら答えた。
どうしてこうも柔軟に態度を変えられるんだろうか、
誠はその豹変ぶりにあきれた。
「本当に昨日は、佐久間が失礼しました。
しかしなぜ、あのような格好で、あなた様みたいな方が、あそこにいらしたのですか?
市長は言い終わると、体を前のめりにして誠の顔を覗いた。
市長である明池は、温厚な笑顔を見せていたが、明らかに誠の人物を推し量るように、誠の目線の流れを読もうとしていた。
あくまでも濃厚な表情で、観察の触手を誠に伸ばしていた。
「会長の指示で現地調査です。」
誠は動揺しないように、間髪を入れずに応えた。
目線は市長から離さなかった。
「そうでしたか、いや私の選挙の時の公約に、街の美観というものがありましてね。
その主旨て佐久間も動いたと思うのですよ。」
「街の美観ですか?」
「はい、これはシークレットですが、来年ヨーロッパの皇室の王子夫妻が、来日するらしいんですよ。
パレードがあるかも知れないので、それまでに建物の整備をしなくちゃいけないと、国からの要望もありまして。」
なるほど!と誠は全貌を理解した。
(所詮、自分のためか!)
人気取りのために、、ホームレスを利用しようということか。
竹崎がこの連中を”政治屋”と揶揄する気持ちが理解出来た。
「なるほど、外国メディアがパレードを報道する時に、ホームレスの住むプレハブが街にあると具合が悪いんですね?」
「いや、それは国からの御達示で、僕は言われる前に動きたかっただけですよ。」
「いや、市長、ホームレスは人の眼に付くところにはいかないですよ、身元がばれるのが嫌なんです。心配はいりませんよ。」
市長は小さい声で笑うと、体をすこしのけ反らせた。
「田中さん、それと治安の問題があります。
決してホームレスが犯罪を犯しているとは言いませんが、市民の心情を考えると、やはり野放しにしている訳にはいかないんですよ。」
「いや、市長、今は野放し状態の犬かもしれませんが…」
誠は市長を睨み返した。
市長は、たじろいだ。
誠はもう緊張は無かった。
そういう気持ちが先程まであった事がバカバカしくもあった。
「あのプレハブに住んでいる人達は、日雇いですが働いていますし、ただ今は世間から幽閉しているだけです。
立派に市民と変わり無い人達です。
ただ、役所的に、市民権が無いだけです。
それと、選挙権も今はありませんから、あなたに投票する事もありませんね。
市長は、目線を反らして、顔を下げながら、愛想笑いを作った。
そして、一番聞きたい事を誠に尋ねた。
「田中さんたちは、これから何棟プレハブをお建てになるつもりですか?」
「いえ、今あるプレハブのみで、これから作るつもりはありません。
また、あれは近くの建築屋さんの要らなくなった物を譲ってもらったという事にしています。」
市長は身を乗り出して来た。
「サコーズの息はかかっていない事になっています。
まして会長の竹崎は、引退している状態です。
これからしゃしゃり出て、意見を言うことなどないでしょう。
市長、ご安心して下さい。
市長の動いてこられた事を横取りすることはありませんから。
何だったら、プレハブは、市長からの好意だと言ってもいいですよ。」
市長の眼に安堵が宿った。
要は、人気取りのためだけにやって来た努力が、知名度のある人間が入って来て、功績を奪われるのが、嫌なだけの話しなのである。
主役が市長でなければダメだったのだ。
「田中さん、竹崎会長は伝説の方ですからね。
(みんなが困った時に出てくるから)と言い残して、表舞台から去って行った竹崎会長が、まさか!ここで現れるなどとは思ってもいませんでした。
誤解の無いように申し上げますと、私は会長のファンなんですよ。」
市長は誠たちが、自分を超越した行動で無いことに、安堵した表情であったが、その眼には、まだ決して表に出さない探りの思惑があるように感じられた。
「それで田中さんたちは何をしようと計画なされているんですか?」
「はい、竹崎はあの人達をもう一度、再生させられないかと?考えています。
これはあくまでも、会社レベルの話しであって、決して法人化を目指したものではありません。
ですから市に申請することなどはありませんので、ご心配無用ですよ。
僕たちは僕たちのやり方で進めて行きます。
しかし市長は市民思いですから、私たちが考える以前に、準市民でであるホームレスのために、素晴らしいお考えが、きっとお有りでしょうから。」
誠は不得意な皮肉を言った。
「ところで明地市長の事ですから、もしプレハブから追い出した後の、ホームレスの処置はお考えでしょう?」
市長の顔に焦りの表情が微かに過ぎったのを、誠は見逃さなかった。
誠はすぐにでも市長に問いたかった。
(ところで、プレハブを追い出した後は、ホームレスをどうするんですか?)
と。
そこは突かれた後の言い訳上手には定評のある政治屋である。
「もちろん!その課題は国がちゃんと考えていると思います。」
「国が?
ですか!」
誠は語気を高くして言った。
あなたは?
と続けたかったが、止めた。
「と言うことで、あのプレハブはサコーズの調査室という事で、取り壊しだけはご勘弁願いたいのですが。」
「もちろんですとも、この件に関しては、私が責任持って取り崩しは致しません。
ご安心下さい。」
誠は深々と頭を下げ、握手を求めた。
市長もすかさず手を出した。
庁舎の窓を、強くなった風が風声をあげ、揺らしていた。
その風は、激しい雨を大量に運んでいた。
遠くに見える河原の草花を大きくうねらせながら、猛っていた。
誠はプレハブの取り崩しがなくなったので、速くここから出て行きたかった。
速く皆に、次のステップに行く同意を確認したかったが、
「田中さん、折り入って頼みがあります。」
市長は深々と頭を下げた。
そして、素早く顔を上げると、嘆願するようにして言った。
「ぜひ、会長と協力して、市民のために働きたいと思うのですが、田中様のお口添えでお会いしたいのですが…」
なぜここまでの数秒で計算出来るのだろう?と思った。
竹崎という強力な後押しがあれば、明地の人気は上がる。
まして竹崎が表には現れないとすれば、総てが市長の手柄になる。
更にホームレスの事など考えていない後々の面倒を、竹崎と手を組めば勝手にやってくれるのである。
誠には、サラリーマン時代と違って”狡猾さには狡猾を持って”という行動を取れるようになっていた。
「そうですね、竹崎には私から今日のご好意も含めて、伝えておきます。」
「そうですか!是非とも一献交わりたい、とお伝えください。
私は市民のために…」
明地はそれから誠に、選挙カーの上で手を振りかざして怒鳴るような演説をしゃべり出した。
誠は聞いていなかった。
唾が飛び散るのが止まった隙を狙って、
「では、竹崎に一刻も速く、この吉報を伝えたいので、この辺で失礼致します。」
と言って足早に退散した。
誠はいったん、サコーズ本社に戻り、竹崎に電話で報告した。
「誠君、それでいい。
結局は自分の利害という、損得勘定なんだよ。
それに見合った話しだったという事だ。
全員とは言わないが、あいつら政治屋を、心から信じてはいけない。」
やはり誠は、竹崎は市長達を全く相手にしないと思っていた。
「政治屋だけではないが、一度なりとも裏工作の味を知った者は堕落する。
例えば大きな災難が起こったとした時に、その中で何人の政治屋が動くか?
ほとんどの政治屋は逃げるだろう。
その時に、結果は出ずとも、共に泣いて行動してくれる人が政治家だ。」
「そうですね、僕もなるべく関わらないようにします。」
「いや、違う。」
竹崎の口調が低くなった。
「向こうから正確なアポイントがあれば、私は出向くつもりだ。
何なら市長の手柄にしてもいいと思う。」
「…は、、はい?」
誠は全く意外な言葉に驚いた。
「誠君、ここで考えなければならないのは、
”誰が助けただ、誰が企画を立てただ”とかいう事ではなく、目的がどこにあるかということだ。」
「はい。」
「主役はホームレスにある。
私たちではない。」
「はい。」
「目的はあの人たちの再生である。
これも私たちではない。」
「はい。」
「であれば、変な心の固執など捨てて、目的のために、利用出来るものは利用すればいい。
ここでいう利用とは、善を持って成すこと。
ここが重要である。」
この禅問答的な竹崎との言葉は、誠の心に染み入って行った。
竹崎が誠に対して、毎日の電話連絡を強いたのは、教育の一貫でもあった。
誠は知らず知らずの間に、人間としての器が大きくなって行った。
竹崎が行う教育とは、本人は気づかぬうちに、心の中に善の力を蘇生させるという、一時的な効果しかない洗脳とは全く違う、
大経営者たちが使う”悟しの業”であった。
「利用といえば、今の世は”おとしいれる”と訳されるが、私がここで言う利用とは”共生”である。」
「共生?ですか?」
「そう!共生!」
竹崎の低い声が、少しばかり大きくなった。
「市長に、ホームレスの人達が、決してなりたくてなった訳じゃない、という事を分かってもらえるだけでも、しめたものだ。
多分、市長だけでなく、多くの人もそう思っていると思う。
しかし、人生は少しの歯車が狂っただけで、万人がホームレスになる可能性があるという事だ。」
竹崎は誠に、初めてミーティングした時にも話した内容を語った。
「そこで、市長が自らの事から逸脱して、他人にまで及ぶ慈愛が生まれたら、それに越したことはない。
誠君、政治屋は始めは信念があるものだ。
しかし大部分が途中で挫折する。
でもここでは、出る杭を打つ「党」という軋轢はない。」
竹崎はゆっくりとかみ砕くように言った。
「化けて共生、違う言葉で言えば「助け船」とでも言おうか、要は人間の尊厳に気づいてくれって事だよ。
その目的が叶えば、利用されたふりをしても結果はこっちが利用した事になるからね。」
竹崎は大声をあげて笑った。
そして、
「良い事も、悪い事も紙一重で、どちらにも転ぶ可能性があるという事だね。」
誠は自分に当てはめて考えた。
竹崎と会うまでの不幸と、その後の使命感という幸、竹崎の言葉の深さが痛いほど理解出来た。
その後、誠はいつものように、激励の言葉をもらい電話を終えた。
そして、いつものように、タケザキから届けられた弁当を持って橋を渡って行ったが、以前、竹崎から言われた(新聞紙側)の救済の事が頭を過ぎった。
もう一度、観察してみよう。
誠はプレハブを通り越して、駅の方に向かい、歩道の北口と西口に交差した分岐点を右に曲がった。
誠は着替える事はなく、スーツ姿であった。
そして駅にあるコンビニで、弁当を数個追加した。