第二章・ホームレス
その都市には、街を象徴する大きな橋があった。
全長、八百メートル、幅、五十メートル。
常に豊潤な川を挟んで、勇壮に立っていた。
用途は、都市開発という生活目的であるがために、
高さは特記する程では無かった。
片側だけで、三車線あり、歩道では五、六人が、余裕で並んで歩ける大きな橋であった。
この橋の向こう側の、巨大なビルの間から、朝日が昇りつつあった。
陽光が、その存在を強調して行くに連れて、ビルの方向に、車が徐々に走り出していた。
しかし、橋の手前には、高層ビルはなく、人々が生活するに必要な、商店街が駅を挟んで、幾つもあった。
その大小はあれど、どの地方にもある、縮図である。
そして、そこには、必ずホールレスも少なからず居た。
言い訳の出来ない、弱肉強食の縮図であった。
その日の真夏の太陽は、朝から気力をみなぎらせて、地にあるものを焦がすように炙っていた。
すでに橋の上のアスファルトからは、朝露の恩恵を消化させて、陽炎のように、ゆらゆらと揺れる熱気に姿を変えさせていた。
通勤の車や、自転車が、男が歩いて行く逆の方向に、慌てているように走っていた。
男は両手いっぱいにスーパーの袋を持って、歩いていた。
橋を歩く者達は、俯いて歩くその男から、逃げるように避けて進んで行った。
テニス帽子を深く被り、ヒゲが伸びて、俯いて歩く男。
長身で痩せており、ジーパンにサンダル、真夏なのに長袖のワイシャツ。
誰が見ても、橋の向こうの人種ではなく、こちら側の人間であることは分かった。
陽光が川の面に照り返されて、男を下からフラッシュを炊くように輝かせる。
男の歩みに迷いが無いため、熱気の揺らめきの中に映る姿は、照り返しのフラッシュバックも手伝って、修行僧のように崇高であった。
男は橋の下にある、八畳程のプレハブの中に、躊躇せずに入った。
途中、河川敷の一画にある、ダンボールの中の住人達に、袋に入っている弁当を渡して行った。
どんなにしゃべりかけても話してくれないが、弁当だけは無言で受け取った。
閉め切られたプレハブの扉を開けると、二人の男女が、カーペットの床に座っていた。
誠は扉を開けっ放しにした。
人数が加わる事で、法に守られていないこのハウスの防犯が
、例え外敵が現れても、安全な人数体制になったからである。
蒸し風呂のような熱気に、人の汗の臭いが混ざった生臭い空気を、橋の影に浄化された清風が、あっという間に押しやって行った。
プレハブの窓には、目隠しで段ボールが貼られてあった。
その隙間から日差しがカーペットにジリジリと威光を示していた。
「おう、誠さん、いつも悪いね。」
歳は五十くらいのお腹の出た男が、片手をあげながら微笑みを持って言った。
「本当よね、今お茶を出すわ。」
と男より十歳くらい若い、痩せぎすの女が慌てて立って、コップとお茶のある棚に向かいながら言った。
差し出した弁当は、皆にはコンビニの賞味期限の切れた弁当を、ラッピングを変えて譲ってもらったのだと言っていた。
本当はサコーズの本社で、タケザキの配送部が、誠に毎朝届ける弁当であるのだが…
誠は靴を脱いで、真ん中にあるコタツ用のテーブルに、袋に入った弁当を置いて座った。
女は振り向いて、相方の男の作業着にふけがこびりついているのを確認すると、
「お兄ちゃん、せっかく誠さんが持って来てくれたお弁当にふけが入るじゃない!」
と背中を叩くと、男は今度は頭を照れ臭そうに掻いた。
「こら!おやじ!入るってば!」
女は誠を見て、笑ったようであった。
つられて男二人も声をあげて笑った。
女はいつも髪で顔半分、隠していた。
顔面神経痛で、時々覗く顔半分は、頬を中心に引き攣られており、能面のように動かなかった。
二人は兄妹であったが、その仲睦ましい振る舞いは、夫婦のようにすら思えた。
会話にはいつもお互いに対する思いやりがあった。
この二人がどのようにして、こうなったかはまだ誠は聞いていなかった。
聞く糸口が掴めなかったのだ。
「誠さん、それじゃいただくね。
このふけ入りがまた美味いんだ。」
「汚い!ジジイ!」
妹が冗談に、軽く背中を叩いて応える。
二人がこのプレハブで生活するようになって、心の張りが生まれていたのを、誠は感じていた。
まだ二人と深くは話していないため、名前すら分からない。
ただ二人が兄妹であり、妹は兄の事を「あきら」と呼び、兄は妹の事を「あけみ」と呼んでいた。
誠もそこではそう呼ぶようにしていた。
しばらくすると、二組の男女が数分後に入ってきた。
「おはよう、おっ、誠さん来てたんだ。」
四十代半ばの、背の低い痩せた、目が大きくて窪んだ男が、先程まで漂っていた生臭い臭気を持ち込んで、誠たちの輪に加わった。
「皆、おはようございます。
これ四人からの差し入れです。」
と言って連なって入って来た女は、先程の男よりさらに身長は低く、さらに痩せていた。
歳は男と一緒位であった。
二人は一緒の灰色の作業服を着ていた。
朝からの厳しい熱さに、服は水を浴びたように、今にもカーペットにしたたり落ちるようであった。
労働から解放された満足感からか、二人の顔に作ったシワの線を、更に笑顔の深い溝を作って、輪に加わった。
「川夫さん、川子さん、身体拭くタオル洗っといたから、どうぞ。」
と、あけみは二人の前に、川で洗って干したタオルを置いた。
ここでは、お互いが手に入るもの、または手助け出来るものを提供して、生活していた。
もちろん、過去の人生は、暗黙の了解として問わないルールが出来上がっていた。
この男女は夫婦であり、名前が川崎であることは、二人の会話の情報として皆は知っていた。
呼び合う名前が、男が川夫、女が川子なのは、単純に、川崎さんの夫で川夫、奥さんで川子。
皆、熟考することなく、単純にそう呼んでいた。
ここでは、名前すら存在価値は無いのである。
それからすぐに入ってきたのは、ここには場違いなほど綺麗な品のある、二十代後半の女であった。
身体はどちらかというとぽっちゃりとしていて、肉付きがいいが、ウエストが細く、お尻が大きいため、くびれが目立ち、すけ口の湿りが色気を引き立させていた。
身長は夫婦の川夫より高く、女の色気を漂わせていた。
「皆さん、おはようございます。
今日は昼間は地獄の熱さですよ。
あきらさん、あけみさん、誠さん、注意して下さいね。」
「ローザちゃん、大変やったね、はい、ロング君のと一緒にしといたから。」
あけみは座ったローザの前にタオルを置いた。
「あけみさん、いつもすみません。」
続いて入って来た男は、肩まで髪の毛が伸びており、挨拶する前に、皆の輪の中にはいり、
「いやいや、大変でしたよ!夜中なのにすっげぇ熱帯夜、これからの人は倒れないで下さいね。
これ、川夫さんたちと僕たち四人からの差し入れでーす。」
と、輪の中心にあるテーブルに、パックに入ったものを置いた。
「おう、皆さんありがとうございます。」
と先にプレハブにいたあきらたちが言うと、作業服を着た四人が軽く頭を下げた。
ロングと呼ばれた男が、
「ほんと、ハンパないっすよ、これですもん。」
とそのひょろ長い身長の、細い首に付けていたタオルを外して絞る真似をした。
「あれ?でない?」
「あんた!馬鹿じゃない?この熱さでしょう!汗だって蒸発するの!わかった!」
ロングは淋しそうな目をして下を向いた。
「皆さん!本当に馬鹿でしょう!すみません!」
とローザが言うと、一同に大爆笑を与えた。
この二人は恋人同士である。
話では、女はクラブのホステスであったこと。
男はバーテンダーで、そこで二人はいい仲になったとのこと。
呼び名は、男はロングの髪の毛からロング、女はホステス時代の源氏名からローザと呼ばれていた。
「さあ、皆揃ったところで食べますか!頂きます!」
とみな談笑の内に食べはじめた。
灼熱の太陽は萎えることはなく、地表を炙りつづけていたが、
河原に生わった木々や草花を元気に、鳥たちは囀り、虫たちは元気に飛び回っていた。
蝉が途切れる事なく、鳴いていた。
食事が終わると、後から入って来た四人は、近くの公園から汲んできた水で、身体を拭いて、深夜の仕事のために睡眠に入り、あきらとあけみの兄妹は、昼の仕事に向かった。
もちろん橋を渡る事はなかった。
誠は橋向こうのビルに、清掃のバイトがあるという事にしていたため、橋の向こう側に歩いて行った。
誠専用の執務室がある、株式会社サコーズの自社ビルへと向かって行った。
誠はホームレスになって、一ヶ月が過ぎていた。
駅に通じる道は、歩道と車道が並行して
並んでいた。
そこに、右に北口、左に西口と別れる分岐点がある。
そこはホームレスの人種も分かれる、選別の場所でもあった。
歩道にはみ出すことのないように、右にいるホームレスたちは新聞紙だけが持ち物である。
ここにいる者たちは、目が宙に浮き、口からはよだれをたれ、中にはパンツ一つで寝ている者もいて、いつ自らが汚物を排出したか分からない者までもいる。
もはや生きる気力も無い者が、集まっていた。
クリーム色の壁が、何も答える訳もなく、滑らかな表面にすがりつくホームレスたちを、よだれを潤滑油として、
滑り落としていた。
生きる気力を捨てた人々が集まる地帯である。
左側の人たちは、何かしらの持ち物を持っていて、ダンボールで人が座れる位の高さで、家を形成していた。
ダンボールハウスと呼ばれるものである
ダンボールハウスを作る行為は、個人の生活を確保するという事であるが、本当の理由は、通行人からの視線を阻止するためである。
上からの目線に晒され、自らへの侮蔑が心に充満する。
例えそれが子供の眼であっても、心に蘇生された卑屈は充満のアリ地獄から、はい上がれない。
憐れみの眼差しであっても、屈折した心が屈辱と理解する。
人の一瞥の数だけ、卑屈に苛まれる。
屈辱は、恐怖心に変わる。
ここまで来れば、人を殺す手段は、一秒の一瞥だけで充分であった。
時代は、これらの人達を助ける行政上のシステムを、持っていなかった。
いや、かえって助けるどころか、行政機関は「山狩り」と称する「段ボールハウス」の一斉撤去を、定期的に行っていた。
それは美観を理由にした、政治家たちの市民へのカモフラージュであったが、当の浮浪者たちは決して驚きはしなかった。
また手際よく段ボールを繋ぎ合わせ、数分でハウスを作ればいいだけであったからだ。
誠は最初に、左の段ボールの住人の場所で生活を始めた。
誠も一ヶ月の間に、二回、ハウスを崩された。
その度に、先程のプレハブにいた、兄妹の”あきら”が誠のハウスを作ってくれた。
あきらは誠だけではなく、プレハブの他の二組のハウスも作ってあげた。
この三組の浮浪者たちは、一番奥まった一画に、まとまって生活していた。
そこへ誠が加わった後、誠は橋の下に、近くの建築会社からもらったと言って、プレハブを用意した。
そして誠は、その三組の男女を招き入れた。
その日から、山狩りに苦しめられることは無くなった。
人の目線に苦しめられることも無くなった。
日雇い労働でわずかなりともお金が手に入る。
それぞれが好意に甘える事なく、懐中電灯、カセットコンロ、布団、茶碗など提供していった。
近くの公園の水道で、洗濯や身体を拭く事が出来た。
贅沢からはもちろん嫌われていたが、そこには最低限の生活があった。
皆に少しの笑顔が戻った。
しかし、正常者としての再起には、いくつものハードルがあることは皆、分かっていた。