ファミリー
誠は汗を拭い、髪型を整えた。
大きな塀の壁が長く続き、その中央に株式会社 タケザキ と書かれた看板が建っていた。
大型トラックがゆうに2台は通れる門を誠は入って行った。
正面に工場が見える。
誠はその大きさに圧倒された。
工場前には大型トラックが五台停まっており、リフトでラッピングされたパレットを積んでいた。
敷地は、ちょっとした学校の運動場の広さはある。
その手前の右側に、レンガ模様の壁の、3階建ての綺麗な建物があった。
「事務所」と書かれた看板が一階にあった。
誠は気後れする気持ちを振り払い、呼び鈴を押した。
ガラス越しに見える、下足箱の上には、豪華な花瓶に活けられた生花が、色鮮やかに四方に伸びていた。
すると、自動ドアが開き、一人の女性が現れた。
地味な紺色の事務服を着ているが、誠に放った笑顔が美しかった。
クリイム色の髪が腰まで伸びていて、華奢な身体ではあるが、ふくよかな胸、スラリと伸びた長い脚。
美人はこの世にはたくさんいる。
しかし、ここまで笑顔の美しさが、人の心を和ませる女性を、誠は知らなかった。
少しお腹が膨らんでいる。
妊婦と分かった。
(女性は身ごもると、ここまで優しくなれるんだ。)
誠は見とれてしまった。
女性は深々と笑顔を称え、お辞儀をすると、
「田中誠様ですね、当方の竹崎から伺っております。
暑かったでしょう、さあ、お入り下さい。」
誠は再びハンカチで汗を拭った。
たどり着いた安堵でいっぱいであった。
事務所内の来客用の椅子に案内された。
事務所内を伺うと、五人の男女が忙しく仕事をこなしている。
誠が腰掛けるとすぐに全員が、「こんにちは。」
と声をかけてくれた。
誠は今までに、多くの会社を訪問して来た。
しかしこの人達の笑顔に勝る企業を、誠は挙げることは出来なかった。
殺伐とした雰囲気がない。
全員が笑みを称え、各自が互いの仕事を手伝い、一つの連係するようなチームワークで仕事をしていた。
ここに仕事をやらされているという、強制は無いように感じられた。
惰性や怠慢は見られなかった。
生きた職場とはこういうものだと誠は思った。
それよりも竹崎という男の下に着くものは、こうも活かされるのだと、改めてその手腕に尊敬を抱いた。
先ほどの女性が冷たいお茶を運んでくれ、
「少々お待ち下さいね。」
というと、社長室に向かった。
ガラスのついたての奥が社長室で、女性が
「田中様がお見えです。」
と言った次には、
「おー、」
と社長室から飛び出すように現れた。
竹崎は誠に歩み寄りながら、
「場所は分かったか!待っていたよ、さあ。」
と手を取るなり、社長室へと連れていった。
連れていった、というより引きずっていったと言ったほうが当てはまっていた。
このテンポの速さに誠は好感を抱いた。
誠には無い行動力である。
好感は人間力としての魅力に変わり、憧れへと転化していった。
竹崎は社長室の真ん中にある応接テーブルのソファーに誠を促し、正面に座り、満面の笑みを浮かべた。
瞳の奥に、優しさが溢れた笑顔であった。
「早速、誠君の使命なんだけど…」
竹崎は(使命)という言葉を使った。
「ちょっと待って…」
竹崎は立ち上がると、
「アリサさん、冷たいのにして、あと冷えたオシボリもお願いします。」
と社長室のドアを開けたまま言った。
「はぁい。」
と先ほどの女性が優しい口調で明るく返事をした。
この口調の裏側にあるほのぼのとした雰囲気からして、明るい職場であることが分かった。
すぐに冷たいお茶とオシボリが、先ほどの女性の手によって運ばれて来た。
「あっ、誠君、紹介しとくよ、こちらはあと三ヶ月だけだけど、受付を手伝ってくれている井上亜利沙さんだ。」
「初めまして、井上亜利沙です。」
頭を少し傾けながら笑顔で誠に深々と頭を下げた。
「ご覧の通り、あと三ヶ月で臨月に入る、それまでの間、
無理を言って手伝ってもらっているんだよ。
旦那さんを口説くのに苦労したよ。」
竹崎は大声で笑った。
「誠君…」
竹崎は誠を直視すると、ニタッとした笑みを浮かべ、
「君を紹介した井上祐一君の奥さんだ。」
誠は気が動転した。
まさか、こんな事が…。
誠の妻の、前夫の再婚相手が、目の前に現れたのだ。
誠は運ばれてある、冷たいオシボリで顔から流れる汗を何度も拭いた。
しかし、竹崎は、その辺りの人間関係は知らない。
また亜利沙も、まさか目の前にいる男が、祐一の前妻の再婚相手などとは、夢にも思ってはいなかった。
竹崎は、誠の驚きぶりを見逃さず、
「誠君、驚いただろう、井上祐一君が初めて訪ねて来た時に、亜利沙さんも同席していたんだ。
その時に、身ごもっていて、会社を辞めたばかりだったんだけど、うちは募集広告は出さないからね。
それで手薄な事務を手伝ってもらうことにしたんだ。」
誠は平静を装ったつもりだったが、この竹崎の洞察力に、どこまで平静を装えたか分からなかった。
また本当の事をこの際、伝えようとも思ったが、亜利沙の祐一との繋がりの深さを考えると、今日は告げないほうが良いと判断した。
「誠君、それとレディーの前でオシボリで顔を拭くのは、いかんよ。
オジサンぽいって嫌われるから、なあ、亜利沙さん。
」
いうと体をのけ反らせて、大声を上げて笑った。
亜利沙は、
「いえいえ、男性の汗は、女性にしてみればすごくセクシーですのよ。」
と二人に笑みを与えながら退出した。
二人は再び対座した。
数秒の時間が流れた。
竹崎は目線を天井に向け、しばらくした後、ピタンっと両手でひざを叩いて、
「とりあえず、会社を案内しよう。
僕について来なさい。」
と言っている最中には席を立ち、誠を外へと促した。
事務所から出て、奥にある工場内に誠は案内された。
手前側の開閉式のドアの前には、「調理室」
と書かれた標札があった。
誠は歩きながら、一回深呼吸をして心を落ち着かせた。
その工場の回りには、モルタル造りの垣根が囲んでいた。
垣根の中には晩春を彩る花々が、整然と花色ごとに咲き乱れていた。
誠の嗅覚に花々の優しい香りが心を和ませた。
花々の一本一本が、陽光の中で、一段と鮮やかに凛とした生命力を育んでいた。
誠は、その花々が、この中で働いている人々の象徴であるような気がしていた。
空には雲一つない晴天であった。
ドアを開け、中に入ると、ガラスケースで仕切られた棚が、数段に分かれていた。
その棚の列には、一列に密封式の寸胴鍋が並べられていた。
それらの寸胴鍋には、近郊の地域が書かれてあった。
その奥に、開閉式の扉があり、手前に消毒液とマスク、あと衛星帽が置いてあった。
二人は入れる準備をすると、戸を開けた。
そこは調理場であった。
白衣を来た男女が十人ほど、忙しく仕込みの準備に追われていた。
皆、四十歳は超えている年配の人達で構成されていた。
竹崎に気づいた一人が、
「あっ、社長、おはようございます。」
と大声で言った。
すると全員が竹崎に向かい、
「社長、おはようございます。」
と、手を休め、一人一人が竹崎に対して握手を求めて来た。
「おぅ、今日も美味しそうな香りがしますね。」
と竹崎が言うと、とうに七十歳は超えていそうな、調理場で一番年配者であろう、痩せて腰の少し曲がった男が、すぐに合いの手を入れた。
「社長、任せて下さいよ、それよりも我々の仲間を一人残らず連れて来て下さいよ。」
竹崎は親指と人差し指で丸を作り、
「了解。
それで今日は早速、我々の仲間を連れてきたんだ。
紹介するよ、田中誠さんだ。」
誠は困惑した。
ある程度は心は固まりつつあったが、まだ正式にここで働くとは決めていない。
雇用関係の具体的説明もまだされてはいないではないか。
ただ自分がここに居るのは、竹崎真一という男に魅力を感じたことと、竹崎が言った言葉に、その答えがどういうものか確認するためであった。
特に(浮浪者)の意味は何なのか、ということが一番聞きたかったことであった。
竹崎が誠を紹介した後、調理場の皆がお互い顔を見合わせ、誠に言った。
「誠っちゃん、あんたスーツ買うのに前借りしたんかい?無理しなくていいんだよ。
ここでは着れれば何でもいいんだからね。」
年配の男がそう言うと、誠のところに歩み寄って来て、握手を求めた。
「これも何かの縁だね、誠っちゃん、お互い頑張ろう。」
調理場の全員が歩みより、それぞれ名前を告げ、握手を交わした。
誠は思った。
この現場にも生き生きさを感じる。
竹崎という男から発せられるオーラが全てに生気を与えているのだ。
今、皆と挨拶を交わしている最中でも、竹崎はニコニコと微笑んでいるだけだが、常に竹崎の身体からは光る輝きが出ているようである。
「皆、田中誠さんは(一般)なんだ、私に代わってスカウトで活躍してもらおうと思うんだ。」
「なに、(一般)かい!」
先程まで天ぷらを揚げていた、六十歳位の妙に顔が赤い小肥りで背が低い女が言った。
一同、一瞬困惑の表情になったが、すぐに歓喜の表情へと移り、納得するように相槌を打った。
「それは良いわ、今は六月だから、社長がいつも言われる通り、寒くなる十一月までが勝負だからね。
誠っちゃん、頑張ってや。」
と長老がいうと、それにつられるように、
「誠さん、頑張って下さい。」
と合唱のように調理場内に響き渡った。
ここにも、やらされているという義務が感じられない。
誠は、今までの見てきた多くの企業と比較して、ここまでの理想郷としての、従業員の意思疎通とやる気が、確立している会社を見たことがなかった。
(彼らが手抜きを決してすることのない、顧客のターゲットはどのような層なんだろうか。)
誠は考えていた。
あと、
「竹崎は自分の事を(一般)と呼んだが、その意味はなんだろうか。」
竹崎は誠の肩を軽く叩きながら、外へと促した。
竹崎が片手を上げて、調理場から出ると、
長老が、
「さあ、みんな頑張るべ。」
と言うと、皆一同に、
「あいよ。」
と返事が返って来るのが、調理場を出ながら誠の耳に聞こえて来た。
誠は一種の高揚感をその言葉から与えられた。
誠は感動した。
調理場の外は、長い渡り廊下になっていた。
その向こうには、また大きく仕切られた工場の一画があった。
長い渡り廊下が終わりに近づくにしたがって、流れ作業にありそうな機械音が、リズミカルに徐々に大きく聞こえて来た。
扉を開けると、それぞれの機械から聞こえる音は、各々の工程に合った響音を交えて、誠の身体を震わせた。
工場は二階建てになっており、竹崎は脇の階段から2階の事務室に誠を案内した。
中には十個ほどのデスクが並べてあったが、誰もいなかった。
しかし、その事務室の奥にガラス張りで隔てられたオフィスがあり、二十人ほどの若い男女が、電話応答に忙しく応えていた。
観ると電話は引っ切りなしに掛かって来ているようだ。
しかし、ここの人達も、嫌な表情や惰性の心情がないように見て取れた。
竹崎は気付かれないように、前方にあるガラス壁に、誠を誘導した。
ここから工場全体が眺められた。
「誠君、どうかね、このような工場が今全国で四つある。
今度、東北にもう一つ作ろうと思っている。」
「社長、一体なんの工場なんですか?」
観察すると、六つの工程で製品完成が成り立っている。
竹崎は誠に説明した。
まず二階から二カ所、ベルトコンベアで一つは小さい植木鉢、もう一つはサボテンと盆栽が運ばれる。
それぞれのコンベアは交差する機械の中で、鉢の中にサボテンと盆栽が綺麗に植えられて、手前側のコンベアに乗せられる。
そこで数人が検品作業をする。
すると綺麗に植えられた鉢達は、別の機械の中に運ばれて、鉢の回りにアクリル製のポシェットみたいなものを貼付けられ、
コンベアで流れた先には白い封筒を収める人達が、素早くそのアクリルのポシェットの中に入れている。
また検品があり、また機械の中に運ばれて、また検品。
最後にアクリルの真ん中に取り付けられたボタンからは曲が流れ、それを確認して、あとはパレットに重ねての出荷作業という工程である。
竹崎が誠に説明する表情には、常に製品を慈しむ表情があり、かつその持ち場を任せている従業員への感謝の気持ちを事細かに説明した。
「それで、あの封筒に送る人への想いを書いてもらうんだ。完全防水だから手紙は濡れないんだ。」
竹崎は誠に目をやると、微笑んで続けた。
「そしてタイマーがセットされていて、
送る人は手紙を開けてもらいたい日時を指定出来るんだ。
サボテンと盆栽は寿命が長いからね。
さらに手紙だけでなく、もう一度ボタンを押すと、送る人のメッセージが流れるんだ。」
誠は夢物語を聞かされている感覚であった。
手紙を添えたプレゼントは、どこにもあるが、読んでもらえる日を指定出来るなんていう話は聞いたことがなかった。
また肉声が聞こえてくるなんて事は、二重のサプライズである。
「夢の商品ですね。」
誠は率直な感想を述べた。
「そうだろう。」
ニコッと笑うと誠の肩を優しく叩いた。
休憩の時間を知らせるチャイムが鳴った。
「皆に紹介するよ、さあ。」
というと一階に誠を導いた。
先程の調理場のスタッフは、比較的年配の男女構成であった。
しかしこの工場内は、下は十代と思える男女から、上は六十を明らかに超えているだろう男女が、均等に配置されていた。
総勢七、八十人はいた。
やはりここでも、人間の心の奥底にある、性悪なものや、邪悪なものは感じられない。
観ると、数分の休憩の終わりを告げるチャイムの時間まで、お互い同士、言葉を掛け合い励ましあっていた。
竹崎がチャイムと同時に、マイクを握ると、社長の存在に気づいた全員が、
「あっ、社長!」
と、皆まるで父親か兄弟を見るように注目した。
竹崎は先程、調理場で話したように、誠を紹介した。
やはり誠は(一般)であった。
そして(スカウト)で拍手が起きた。
この会社は夢が、従業員を動かしていると誠は確信した。
「ここにあるかも知れない。」
と誠の心に直感が走った。
「善を持って成せということ…?」
と内なる何かが、誠に言添えた。
「この職場の希望は…本物だ。」
誠の直感は確信に入った。
「使命とは…?」
竹崎が言った言葉が心を支配した。
「やらねば…!」
心が固まった。
従業員達の拍手は鳴り止まなかった。