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恋愛系

そんな役立たずの祝福、誰が欲しがるんだ」と笑われましたが、どうやら竜には必要だったようです

掲載日:2026/08/29

「相変わらず、くだらないものばかり見ているんだな」


 その声を聞いた瞬間、セレナ・アルフォードは机の上に広げていた帳面を閉じた。


 王立学院の実習棟、その一階にある魔導具整備室。授業を終えた生徒たちはすでに帰り始めており、広い室内にはセレナのほかに数人が残っているだけだった。壁際には訓練用の杖や魔力測定器が並び、窓際の長机には今日の授業で使用した魔導灯が置かれている。


 最初は、ただ妙な違和感を覚えただけだった。窓際の長机に置かれた魔導灯の一つが、ほかの備品と少しだけ違って見える。気になって手に取り、銀色の台座へ指先を置いた。台座の裏には、学院へ魔導具を納めているローデル工房の刻印が小さく入っている。


 その瞬間、銀色の台座に一本の細い線が浮かび上がった。髪の毛よりも細く、普通の人間には見えない。けれど、セレナにはわかる。


 壊れかけている。


「聞いているのか、セレナ」


 振り返ると、婚約者のアーヴィン・ローデル侯爵令息が入口に立っていた。いつものように制服の襟元まできちんと整えているが、セレナを見る表情には隠そうともしない呆れが浮かんでいる。


「申し訳ございません。少し気になることがありまして」


「また傷探しか?」


 アーヴィンは机まで歩いてくると、セレナが見ていた魔導灯を持ち上げた。側面を確認し、底をひっくり返してから鼻で笑う。


「どこにも傷なんてないじゃないか」


「外からは見えません。台座の内側です」


「分解したのか?」


「いいえ」


「なら、どうしてわかる」


 答えは、アーヴィンも知っている。それでも尋ねてくるのは、セレナ自身の口から言わせたいのだろう。


「わたくしの祝福です」


 セレナがそう答えると、予想どおりアーヴィンは小さく息を吐いた。


「その役立たずの祝福か」


 十歳になると、この国の子供たちは神殿で祝福を授かる。火を操る者、水を清める者、植物の成長を促す者。強弱こそあれど、祝福はその人間が生涯にわたって持ち続ける力であり、貴族の子供なら将来の役割を決める材料にもなる。


 セレナが授かったのは、物に生じた損傷を見つける祝福だった。ただし、見つけるだけ。触れたものを修復できるわけでもなければ、壊れたものを元に戻せるわけでもない。剣を握れば刃の小さな欠けがわかり、陶器に触れれば内部のひびが見える。幼いころは珍しい力だと喜ばれたが、できることがわかるにつれて周囲の期待は急速に薄れていった。


 壊れた場所なら、職人が調べればわかる。わざわざ貴族令嬢の祝福を使う必要などない。それが、現在のセレナに対する一般的な評価だった。


「それで? 今度は何が壊れていると言うんだ」


「魔力を流すための導線に、小さな亀裂があります。このまま使用を続ければ――」


「セレナ」


 アーヴィンが言葉を遮った。


「前にも言っただろう。専門の職人が点検して、問題ないと言っているんだろう」


「ですが、壊れる前なら――」


「なら、君が気にする必要はない。壊れていないものを壊れていると言い張って、何になるんだ?」


 声を荒らげているわけではない。むしろアーヴィンは、物わかりの悪い子供に言い聞かせるような口調だった。その話し方をされると、セレナはいつも自分の方が間違っているような気分になる。


 十歳で祝福を授かってから九年間、似たようなことを何度も言われてきた。父からも、兄からも、教師からも。そして十五歳で婚約してからは、アーヴィンからも。


「君は将来、ローデル侯爵家の夫人になるんだ。いつまでも職人の真似事をしていてどうする」


「職人の真似をしているつもりはございません。ただ、気になりましたので」


「なら、気にしなければいい」


 アーヴィンは魔導灯を机へ戻した。わずかに乱暴な置き方だった。セレナが思わず台座へ触れると、先ほど見えていた亀裂がほんの少しだけ伸びている。


「あ......」


「なんだ?」


「いえ」


 言っても仕方がない。セレナは帳面を鞄へしまった。そこには今日見つけた損傷の位置と状態を細かく記していたが、これを誰かに見せる予定があるわけではない。


 ただ、見えてしまうから記録しているだけだ。それが何の役に立つのかと問われれば、答えられなかった。


「帰るぞ。今日は母上と夕食を取る約束だっただろう」


「はい」


 アーヴィンが先に整備室を出ていく。セレナも鞄を持って後を追おうとしたが、扉の前でもう一度だけ振り返った。


 机の上の魔導灯。細い亀裂。放っておけば、いつか壊れる。けれど、壊れる前なら誰も困っていない。


 セレナは視線を外し、そのまま整備室を出た。


 翌日の授業で、その魔導灯が破裂した。



 幸い、大きな事故にはならなかった。


 魔力を流した瞬間に台座部分が破損し、破片が飛んだものの、使用していた生徒の腕に浅い切り傷ができただけだった。担当教師は老朽化した備品を使用した可能性について謝罪し、学院側もすぐに実習棟にある魔導具の一斉点検を決めた。


 セレナは何も言わなかった。昨日、自分が亀裂を見つけていたことも、帳面に位置まで記録していたことも。言ったところで、事故が起きてからでは証明にならない。むしろ「知っていたなら、なぜもっと強く訴えなかった」と責められるかもしれない。その可能性を考えたところで、セレナは自分がずいぶん卑屈になっていることに気づいた。


 以前なら、もう少し違った。幼いころは、見つけた傷を大人へ知らせるたびに褒めてもらえると思っていた。実際、最初のうちは父も面白がっていたのだ。屋敷の食堂で椅子の脚にひびを見つけたとき、兄の練習剣に欠けを見つけたとき、母が大切にしていた花瓶の底に亀裂を見つけたとき。


 中には、職人が調べても傷を見つけられなかったこともある。十二歳のころ、屋敷の裏門にある蝶番を「壊れている」と訴えたときがそうだった。父に呼ばれた職人は問題ないと判断したが、半年後、その蝶番は内側から割れた。当時は偶然だと言われ、セレナ自身もそう思うことにした。


 けれど、何度も繰り返すうちに反応は変わっていった。そんな細かなものまで気にする必要はない。職人に任せればいい。お前が直せるわけではないのだから。言われ続けるうちに、セレナもそうなのだと思うようになった。


「やっぱり、昨日言えばよかったかしら......」


 放課後、セレナは人気のなくなった廊下を歩きながら小さく呟いた。授業は終わっており、今日はアーヴィンとの予定もない。馬車が来るまで時間があるため、図書館に寄って帰ろうと考えていた。


 実習棟を出て中庭へ向かったところで、遠くから激しい物音が聞こえた。何か大きなものが地面を叩く音に続き、男たちの怒鳴り声が響く。


「離れろ!」


「鎖を押さえろ! そっちじゃない!」


「無理です、暴れています!」


 声がするのは、学院の北側にある騎竜訓練場だった。


 王立学院には騎士科があり、その中でも成績優秀な者は騎竜訓練を受けることができる。ただし訓練場は一般生徒の校舎から離れているため、セレナが近づく機会はほとんどなかった。


 再び低い咆哮が響いた。直後、訓練場の方から数人の生徒が走ってくる。


「まただって」


「北方から来た奴だろ?」


「レオン・グランツか」


「竜に嫌われるなんて、辺境伯家の人間として終わってるよな」


 すれ違った男子生徒たちの会話が耳に入る。


 セレナも名前だけは知っていた。レオン・グランツ。北方の国境を守るグランツ辺境伯家の嫡男で、今年から王立学院へ編入してきた青年だ。二十歳という年齢で学院へ入った理由についてはいくつもの噂が流れていたが、最も有名なのは騎竜に関するものだった。


 竜騎士を多数輩出するグランツ家に生まれながら、竜に乗れない。それどころか、彼が近づくと大人しい竜まで暴れ出すという。


 関係のないことだ。馬車を待つなら図書館へ行けばいい。訓練場へ近づいたところで、自分にできることなどない。


 また咆哮が聞こえた。今度は先ほどより苦しそうだった。


 セレナはしばらくその場に立っていたが、結局、図書館とは反対方向へ歩き出した。



「近づかないでください!」


 訓練場の入口で、教官に止められた。


 柵の向こうでは、黒い鱗を持つ大きな竜が暴れている。太い鎖を三人の騎士が押さえているものの、竜が首を振るたびに男たちの体が引っ張られていた。


「すみません。何かあったのですか?」


「訓練中に突然暴れ出したのです。令嬢が見るようなものではありませんから、校舎へお戻りください」


 教官が困った様子で答える。その向こうに、一人だけ離れて立っている青年がいた。


 背が高く、肩幅も広い。黒に近い茶色の髪は短く切られており、学院の制服ではなく騎士用の訓練服を着ている。おそらく、あれがレオンだろう。


 彼は暴れる竜を見ていた。周囲の騎士たちは彼を責めてはいない。それでも彼だけが離れた位置にいることが、噂の内容を証明しているようにセレナには思えた。


「鎮静薬を!」


「もう二本使っています!」


「ではレオンをもっと離れさせろ!」


 誰かが叫び、レオンが数歩後ろへ下がる。すると竜はわずかに大人しくなった。


 周囲から安堵の声が上がったが、セレナの胸には別の違和感が残った。


 竜の胸元には騎乗用の革帯と、騎士の魔力を竜へ伝えるための銀色の魔導具が取りつけられている。その銀具に、細い線が何本も走っているように見えた。


 けれど距離があるせいか、はっきりしない。表面の傷なのか、内部の亀裂なのかもわからない。ただ、壊れかけの魔導灯を見たときと似た嫌な感覚だけが、胸の奥に引っかかった。


 セレナは柵へ近づいた。


「お嬢様、危険です!」


「待ってください。あれ......何かおかしいです」


「え?」


「あの竜につけている銀色の魔導具です。遠くからでは詳しくわかりません。けれど、損傷があるかもしれません」


 教官が怪訝そうに竜を見る。


「そんなはずはありません。騎乗具は今朝点検したばかりです」


「ですが――」


 そこまで言って、セレナは口を閉じた。また同じだ。見えるだけで、証明する方法はない。教官が信じないのも当然だった。


「何が壊れている?」


 突然、別の声がした。


 振り向くと、先ほどまで離れた場所にいたレオンがこちらへ歩いてきていた。近くで見ると、噂から想像していたよりも穏やかな顔立ちをしている。ただ、眉間には深い皺があり、疲れが見えた。


「あなたは?」


「セレナ・アルフォードと申します」


「アルフォード伯爵家の?」


「はい」


 レオンは一度だけ頷くと、すぐ竜へ視線を戻した。


「それで、どこが壊れている?」


 セレナは返事ができなかった。彼は「本当に壊れているのか」とは尋ねなかった。


「......信じてくださるのですか?」


「今は原因が一つでも欲しい。君には何か見えているんだろう?」


 その言葉には嘲笑も苛立ちもなかった。レオンにとって重要なのはセレナの祝福が立派かどうかではなく、目の前で苦しんでいる竜を助けられるかどうかなのだろう。


 セレナは改めて竜を見た。やはり、柵の外からでは輪郭しかつかめない。


「胸元の銀具です。正面から見て右側、そのあたりに強い違和感があります。ただ、触れなければ詳しい場所までは申し上げられません」


「外せるか?」


 レオンが教官へ尋ねる。


「しかし、あれは騎士と竜の魔力を同調させるためのものです。訓練中に外すことは想定されていません」


「今は訓練中じゃない。事故が起きている」


 教官は迷っていたが、竜が再び苦しそうに身をよじったことで決断したらしい。騎士たちへ指示を出し、胸元の魔導具を取り外す準備が始まった。


 レオンも向かおうとしたが、教官に止められる。


「あなたが近づけば、また暴れます」


「だが――」


「レオン様」


 セレナは思わず呼び止めていた。


「今は、お任せしましょう」


 レオンは少しだけ迷ったあと、その場に留まった。


 数人がかりで竜を押さえながら、騎士が胸元の銀具を外していく。最後の留め具が外れ、重い魔導具が地面へ置かれた。


 その直後、黒竜が動きを止めた。荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。騎士たちも鎖を握ったまま顔を見合わせていた。


「......本当に、これだったのか?」


 教官が地面に置かれた魔導具を拾う。外側から見れば異常はない。しかし工具を使って外装を開くと、内部の魔力導線が黒く変色していた。


「焼き切れかけている。なぜ点検で見つからなかった......」


 セレナは地面に置かれた魔導具の前に膝をつき、そっと表面へ触れた。


 冷たい銀具の奥に、細い線が浮かび上がる。さっき遠目に見えた気がしたものとは違い、今度は位置も深さもはっきりわかった。


「亀裂は、そのさらに下です。正面から見て右側、二つ目の留め具から内側へ伸びています。その奥にも三か所......いえ、四か所あります」


 セレナが指した場所を教官が慎重に外す。金属板の裏側には、確かに亀裂が走っていた。


 誰も言葉を発しなかった。その沈黙が怖くなり、セレナは自分の鞄を抱え直した。


「申し訳ございません。余計なことを――」


「なぜ謝る?」


 レオンだった。


「君が見つけなければ、こいつはもっと苦しんでいた」


「ですが、わたくしには壊れている場所がわかるだけです。修理することはできません」


 何度も周囲から聞かされ、自分でも繰り返すようになった言葉だった。


 ところがレオンは、なぜそんな説明をされるのかわからないというように眉を寄せた。


「直せなくても構わないだろう。壊れている場所がわかれば、直せる人間に頼める。今まで誰にも場所がわからなかったから、直すことさえできなかったんだ」


 あまりにも当然のこととして言われ、セレナは返す言葉を失った。


 レオンは落ち着きを取り戻した黒竜へ近づき、ゆっくりと鼻先に触れた。黒竜は逃げなかった。


 セレナはその様子を見ながら、先ほどの言葉を何度も思い返していた。


 壊れている場所がわかれば、直せる人間に頼める。それでいいのだと。


 そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。



 翌日、セレナは昼休みになると魔導具整備室へ向かった。昨日の黒竜につけられていた銀具を詳しく調べたいとレオンから頼まれたからだ。


 整備室へ入ると、すでにレオンが待っていた。机の上には問題の銀具だけでなく、同じ型の騎竜用魔導具が三つ並べられている。


「急に呼び出して悪かった」


「いいえ。わたくしも気になっておりましたので」


 セレナは椅子に座り、一つ目の魔導具へ触れた。昨日と同じ感覚があり、表面からは見えない内部にいくつもの細い亀裂が浮かんでくる。


「これも傷んでいます」


「これも?」


「はい。ただ、昨日のものほどではありません。ここから、ここまでです」


 帳面を開き、簡単な図を描いて位置を示す。レオンは向かい側から覗き込み、セレナが書いた印を一つずつ確認していた。


「二つ目も見てもらえるか?」


「もちろんです」


 二つ目にも亀裂があり、三つ目にもあった。状態に違いはあるが、いずれも魔力導線の近くに細かな損傷が集中している。


 レオンは三枚の図を並べ、しばらく考え込んだ。


「全部、同じ場所に近いな」


「そうですね。偶然とは思えません」


「製造時の欠陥か?」


「それでしたら、新品の時点から問題があったことになります。ただ、昨日の教官は毎朝点検していると仰っていました」


「外から見ただけじゃわからないんだろう?」


「はい」


 昨日の黒竜は、レオンが近づいたときだけ激しく暴れた。レオンが離れると落ち着いた。そのため彼自身が原因だと考えられてきたのだ。


「一つ、試してみたいことがあります」


「何をすればいい?」


「この魔導具に、少しだけ魔力を流していただけませんか?」


 レオンは机の上の銀具へ手を置いた。


「どのくらいだ?」


「ほんの少しで結構です。昨日のような状態になる前に、すぐ止めてください」


 レオンが魔力を流した次の瞬間、セレナに見えていた損傷の線が一気に太くなった。


「止めてください!」


 レオンがすぐ手を離す。


「どうした?」


「亀裂が広がりました」


 セレナは帳面に新しい線を書き足した。ほんの数秒だったにもかかわらず、損傷は明らかに悪化している。


「俺の魔力が原因なのか」


「違います。魔導具の方が、レオン様の魔力に耐えられていないのではありませんか?」


 レオンが黙る。


「この魔導具は二十年以上前から使われているのでしょう?

当時の騎士を基準に作られたものなら、それ以上の魔力を流した場合のことまでは想定されていないのかもしれません」


「つまり、俺が近づくと竜が暴れるのは......」


「レオン様を嫌っているからではなく、魔導具に強い魔力が流れて痛かったからではないでしょうか」


 口にしながら、セレナ自身もそれが正しいように思えてきた。竜が暴れた理由、レオンが離れると落ち着いた理由、壊れた魔導具。すべてがつながる。


 けれどレオンはすぐには答えなかった。机の上の銀具を見つめたまま、長いこと黙っている。


「......五年だ」


「はい?」


「初めて竜に拒絶されてから、五年経った。十五のとき、家の竜に乗ろうとした。そいつは俺が子供のころから世話をしていた竜だった。それなのに、騎乗具をつけて俺が近づいた途端に暴れた。それから何頭試しても同じだった」


 セレナは黙って聞いた。


「父は原因を調べてくれた。竜医にも見せた。調教師も呼んだ。それでも何もわからなかった。最後には、俺の魔力の質が竜に嫌われるんだろうという話になった」


 五年間、自分のせいだと思い続けていたのだ。


「それが、道具の方が壊れていただけか」


「まだ、そうと決まったわけではありません」


「そうだな」


 レオンは頷いた。


「なら、確かめよう」


「確かめる?」


「ああ。君が損傷を見つけて、職人に直してもらう。それを竜につけて、俺が近づく」


「ですが、もし違っていたら――」


「そのときは別の原因を探せばいい。原因を一つずつ潰すのは、調査なら普通のことだろう?」


 セレナは自分の帳面を見た。九年間、役に立たない記録だと思いながら書き続けてきたもの。もしかすると、自分はずっと使い方を知らなかっただけなのかもしれない。


「では......調べてみます。学院にある騎竜用魔導具を、可能な限り全部。傷んでいる場所と程度、それから製造された年代も確認しましょう。同じ場所に損傷が集中しているなら、何かわかるかもしれません」


 話しているうちに、次に調べたいことが次々と浮かんできた。昨日まで誰にも見せる予定のなかった帳面を、初めて誰かと一緒に使える。


 レオンは机の上の魔導具を彼女の方へ寄せた。


「頼む」


 自分の力を必要としている人がいる。


 その日の作業を終えるころ、学院付きの職人が分解した部品を持ってきた。年配の職人は「若様の頼みだから急いだ」と冗談めかしたが、レオンは当然のように立ち上がり、急な仕事を頼んだことへの礼を述べたうえで、追加作業に必要な費用まで確認した。辺境伯家の嫡男だからと命令するのではなく、専門家の仕事を専門家のものとして扱っている。


 セレナはそのやり取りを見ながら、昨日自分へ向けられた言葉も、単に彼が困っていたから出たものではないのだと気づいた。レオンは、できることが違う人間同士が力を借り合うのを当然だと思っているのだろう。


 そういう考え方をする人なのだと知れたことが、セレナには嬉しかった。



 三日後、セレナとレオンは修理を終えた騎乗具を持って訓練場へ立っていた。


 この三日間で調べた騎竜用魔導具は十二個。そのうち十個に同じ系統の損傷が見つかり、学院付きの魔導具職人に分解してもらったところ、すべてセレナが示した位置に実際の亀裂が確認された。さらに製造年代や使用者の記録を照らし合わせた結果、古い型の騎乗具は一定以上の魔力を流すと導線へ過剰な負荷がかかる可能性が高いことまでわかっている。


 普通の騎士が使う分には問題が表面化しない。けれど、レオンの魔力量は学院の騎士科でも群を抜いていた。


「本当にやるのか?」


 教官は修理済みの騎乗具を確認しながら念を押した。三日前の騒ぎを間近で見ていただけに、慎重になるのも無理はない。黒竜の周囲には念のため数人の騎士が配置され、鎮静薬まで用意されている。


「そのために直したんです」


 レオンは騎乗具を受け取ると、黒竜へ近づく前にセレナを振り返った。


 確認を求められているのだとわかり、セレナは銀具へ触れた。修理された内部には、以前まで見えていた細い線がない。職人が交換した導線も留め具も正常で、少なくとも今の段階で損傷は見つからなかった。


「大丈夫です。異常はありません」


「わかった」


 レオンが黒竜へ向かう。


 数日前なら、彼が一定の距離まで近づいただけで黒竜は首を振り、地面を蹴って逃れようとしていた。それが今日は、近づいてくるレオンを静かに見ているだけだった。


 レオンは急がず、黒竜の前まで歩いた。鼻先へ触れても暴れない。それを確認してから鐙へ足をかけ、ゆっくり鞍へ体を上げていく。


 黒竜が大きく翼を広げた。


 強い風が訓練場を抜け、セレナは帽子を押さえながら騎乗具を見続けた。異常はない。黒竜も苦しむ様子を見せず、レオンの指示に従って地面を蹴った。


 巨体が浮き上がり、訓練場の柵を越える。高度を上げた黒竜は学院の塔の周囲を大きく旋回し、青空の下を滑るように飛んでいった。


 見守っていた騎士たちから歓声が上がる。


 セレナも空を見上げたまま、しばらく動けなかった。


 五年間、竜に嫌われていると思っていた人がいる。その原因を、自分が見つけた。


 もちろん、実際に魔導具を分解したのは職人であり、原因を調べるための資料を揃えたのは教官たちだ。セレナ一人で成し遂げたことではない。それでも、自分が最初に亀裂を見つけなければ、誰も調査を始めなかったかもしれない。


 黒竜が訓練場へ戻ってきた。


 着地を終えたレオンは鞍から降りると、黒竜の首を何度も撫でていた。いつも落ち着いている彼が、今日はなかなかその場を離れようとしない。


 やがて黒竜から離れたレオンは、セレナのところまで歩いてきた。


「飛べた」


「はい。見ておりました」


「五年ぶりだ」


 その言葉を聞いて、セレナは自然に笑った。


「本当によかったです」


「......君の方が嬉しそうだな」


「そうでしょうか?」


「少なくとも、俺より楽しそうに見える」


 レオンからそう言われて、セレナは自分がいつから笑っていたのかを考えた。黒竜が飛び上がったときか、それともレオンが鞍へ座ったときだったのか。はっきりとはわからないが、誰かの役に立てたことを、こんなにも嬉しいと思ったのは初めてだった。


「ありがとうございます、セレナ」


「わたくしは、傷を見つけただけです」


 いつもの返事が出た。けれど、口にしてから違和感が残った。


 傷を見つけただけ。自分はずっと、その「だけ」を理由に祝福には価値がないと思っていた。だが、見つけたからこそ修理ができた。修理できたからこそ、黒竜は苦しまずに飛ぶことができた。


 レオンも同じことを考えたらしい。


「まだ『だけ』をつけるのか?」


 責めるような言い方ではなかった。


 セレナは少し考えてから、首を横に振った。


「いいえ。訂正いたします。どういたしまして」


 そう答えることが、思っていたよりも気持ちよかった。



 その日の夕方、学院を出ようとしたセレナは正門前で足を止めた。迎えの馬車が並ぶ場所に、アーヴィンが立っている。


「随分楽しそうだったじゃないか」


 挨拶もなくそう言われ、セレナは騎竜訓練場の方を振り返った。黒竜が飛んだことは、すでに学院中へ広まっている。騎竜を扱う名門の後継者でありながら竜に乗れないと噂されていたレオンだけに、話題になるのも早かった。


「聞いたぞ。あのグランツと、ここ数日ずっと一緒だったそうだな」


「騎乗具を調べておりました」


「君が?」


 アーヴィンは露骨に怪訝そうな表情を見せた。以前なら、その反応をされただけでセレナは自分の行動を説明しなければならないと思っただろう。


「はい。わたくしの祝福で、内部の損傷を調べていました。調べた騎乗具から実際に亀裂が見つかり、今日、修理したものを使って黒竜が飛びました」


「なぜ君がそんなことをする必要がある?」


 セレナは少し考え、それから答えた。


「必要とされたからです。レオン様が、わたくしの祝福を必要としてくださったのです」


 結果まで説明すれば、アーヴィンにも伝わると思った。しかし彼が気にしたのは、そこではなかった。


「そんな役立たずの祝福を?」


 セレナは返事をせず、婚約者の顔を見た。何度も聞いた言葉だった。数日前までなら否定できなかったが、今日は役に立った結果を見ている。


「アーヴィン様。わたくしの祝福は、本当に役立たずなのでしょうか?」


「今さら何を言っている。傷が見えるだけだろう? 修理ができるわけでもなければ、戦いに使えるわけでもない」


 アーヴィンは以前と同じ説明を続けたが、セレナにはもう納得できなかった。見つける人がいれば、直せる人に伝えられる。壊れる前に見つければ、事故を防ぐこともできる。それを教えてくれた人がいる。そして実際に、自分たちは一頭の竜を救った。


「そうですか」


 セレナはそれ以上反論しなかった。アーヴィンを説得する必要があると思わなくなっていた。


「わかったなら、もうグランツには近づくな。婚約者のいる令嬢が他の男と何日も一緒にいるなど、外聞が悪い」


「ですが、調査はまだ終わっておりません」


「そんなものは職人にやらせればいい」


 そこでセレナは、三日前に破裂した魔導灯を思い出した。腕を切った生徒がいた。黒竜も苦しんでいた。レオンは五年間、自分が竜に嫌われているのだと思い続けていた。


「職人には、分解する前の亀裂が見えません」


「専門の職人が定期的に点検している。それで十分だ。君がすべての道具を疑って回る必要はない」


 アーヴィンの考え方にも、一応の理屈はあった。実際、この国の魔導具は職人が点検し、安全を保っている。それでも今回の亀裂は通常の点検では見つからず、黒竜は長く苦しんでいた。


「その点検で見つからない異常を、わたくしは見つけられるかもしれません」


 セレナがそう答えても、アーヴィンは考えを変えなかった。


「申し訳ございません。ですが、調査は続けます。レオン様に頼まれたからではありません。わたくし自身が、続けたいと思っております」


 顔を上げると、アーヴィンは明らかに不機嫌になっていた。


「俺より、そんなことを優先するのか?」


「比べることではないと思います」


「同じことだ。侯爵家へ嫁ぐ人間には、それにふさわしい振る舞いがある。いつまでも職人に混じって壊れ物を調べるつもりなら、俺もこの婚約について考え直さなければならない」


 婚約について考え直す。以前なら、その一言で何も言えなくなっただろう。


 伯爵家と侯爵家の婚約は、セレナ一人の問題ではない。父もこの縁談を喜んでいたし、十九歳で婚約を失えば次の縁談に影響するかもしれない。だから四年間、アーヴィンに嫌われないように振る舞ってきた。


 それでも今は、鞄に入っている帳面のことを考えていた。十二個の騎乗具を調べ、十個の損傷を見つけた記録。誰にも見せるつもりのなかった帳面が、今では職人や教官と話し合うための資料になっている。


 自分の祝福を使えば、もっと見つけられるかもしれない。それを捨ててまで、この人の望む侯爵夫人になりたいのだろうか。


 答えは、もう決まっていた。


「でしたら、婚約を解消いたしましょう」


 アーヴィンはすぐには反応しなかった。


「......何を言っている?」


「アーヴィン様がお望みになる侯爵夫人に、わたくしはなれそうにありません。それなら、今のうちに婚約を解消した方がお互いのためだと思います」


 声が震えていないことに、セレナ自身が一番驚いていた。


 アーヴィンはしばらくセレナを見ていたが、やがて冗談ではないと理解したらしい。


「後悔するぞ」


 その可能性を、セレナはきちんと考えた。父には叱られるかもしれない。次の縁談が来ないこともあるだろう。侯爵夫人として約束されていた暮らしも失う。


 それでも、アーヴィンの隣で自分の祝福を恥じ続ける生活へ戻りたいとは思わなかった。


「たぶん、しないと思います」


 セレナは一礼し、迎えの馬車へ向かった。明日の朝から、残っている騎乗具を調べることになっている。


 今は、その続きを知りたかった。


 その後、両家で話し合いが行われた。父は当初、侯爵家との縁を失うことを心配していたが、セレナが自分の意思を変えなかったため、最終的には婚約解消を受け入れた。ローデル侯爵家側も、アーヴィン本人が婚約を考え直すと口にしていた以上、強く異議を唱えることはできなかった。


 こうして四年間続いた婚約は、正式に解消された。



 それから一か月後、王立学院で騎竜公開演習が開かれた。


 セレナは観客席ではなく、訓練場の端に設けられた整備区画にいた。この一か月で彼女が調べた騎乗具は五十を超え、損傷の位置と使用年数、使用者の魔力量を照合した結果、古い型の魔導具に構造上の問題があることがほぼ確定している。


 学院は問題のある型の使用を停止し、グランツ辺境伯領にも調査結果が送られた。そしてセレナ自身も、学院から正式な調査協力者として扱われるようになっていた。


「セレナ」


 呼ばれて振り返ると、騎乗服姿のレオンがいた。今日は黒竜とともに公開演習へ参加する予定で、以前とは違う改良型の騎乗具を持っている。


「最後に確認を頼めるか?」


「もちろんです」


 セレナは銀具へ触れ、内部の状態を確認した。この一か月で祝福の使い方にも慣れてきた。ただ触れて傷を探すのではなく、どの部分に負荷が集中しているのかを意識すると、以前より細かな異常までわかる。


「問題ありません。ただ、演習後にも確認させてください。使用前と使用後で変化があるか記録したいので」


「わかった。好きなだけ調べてくれ」


 レオンが騎乗具を持って黒竜のところへ戻る。


 そのとき、訓練場の反対側から大きな歓声が上がった。


 王太子の入場だった。


 白銀の鱗を持つ竜に乗り、観客席の前をゆっくり進んでいる。今日の公開演習には王族や高位貴族も招かれており、王太子自身が騎竜を披露することになっていた。


 王太子が使用しているのは、今回の公開演習に合わせて納入された新型の騎乗具だと聞いていた。学院が使用を止めた旧型騎乗具とは別に、通常の受け入れ検査を通過した新品である。


 セレナも何気なく白銀の竜へ視線を向けた。


 そこで、違和感に気づいた。


 遠く離れているのに、見える。竜の胸元に取りつけられた騎乗具。その奥に、今まで見たこともないほど太い損傷の線が走っていた。大きな異常ほど、遠くからでも強く浮かび上がるようになっている。


「レオン様」


 セレナは近くにいた彼を呼び止めた。


「あの騎乗具を止めてください。今すぐです」


 レオンは理由を聞かなかった。セレナが指した方向を確認すると、すぐ王太子のもとへ走り出した。


 しかし、演習開始を告げる鐘が鳴る。


 王太子が白銀の竜へ魔力を流した。


 セレナに見えていた損傷が急速に広がっていく。騎乗具の内部で何が起きているのかはわからないが、このまま使ってはいけないことだけは確かだった。


「殿下! 魔力を止めてください!」


 セレナも走りながら叫んだ。


 観客席からざわめきが起こる。白銀の竜が翼を広げ、飛び立とうと身を沈めたところへレオンが回り込んだ。


「殿下、止めろ!」


 王太子が手綱を引いた。ほぼ同時に、騎乗具から金属の軋む音が響いた。


 白銀の竜が首を振って立ち上がり、周囲の護衛騎士が一斉に距離を取る。観客席から悲鳴が上がったが、セレナには騎乗具から目を離している余裕がなかった。


「右側です! 胸当ての三つ目の留め具、その下が割れています!」


 レオンが暴れる竜の横へ回る。王太子も異常を理解したらしく、魔力を止めて鞍から降りた。護衛騎士が竜を落ち着かせている間に、レオンが留め具へ手をかける。


「ここか?」


「もう少し下です。外装の内側に亀裂があります!」


 レオンが留め具を一つずつ外していく。


 最後の金具が外れた直後、胸当ての一部が大きな音を立てて砕けた。銀色の破片が地面へ散り、白銀の竜は数歩後退したものの、やがて落ち着きを取り戻していく。


 あと少し遅ければ、飛行中に破裂していた。


 セレナは砕けた部品を見ながら、ようやく自分が訓練場の中央まで走ってきていたことに気づいた。


「君が見つけたのか?」


 王太子が尋ねた。驚いて顔を上げると、彼は怒ってはいなかった。地面に散った部品と、セレナを交互に見ている。


「はい。騎乗具の内部に、大きな損傷が見えました」


「しかし、君は触れていなかっただろう」


「......はい。最近、少しずつ見える範囲が広がっております。ただ、なぜなのかはわかりません」


 以前は触れなければ見えなかった。それが騎乗具を何十個も調べるうち、どこに負荷がかかるのか、どの線を追えばいいのかが少しずつわかるようになった。近くにある損傷なら触れずとも感じ取れるようになり、今日は訓練場の反対側から異常が見えた。


 王太子は地面に落ちた破片を拾い、近くにいた魔導具師へ渡した。


「調べてくれ」


 魔導具師は工具を使い、その場で破損箇所を確認した。しばらく調べたあと、表情を険しくして王太子へ向き直る。


「殿下。これは先ほど生じた亀裂ではございません。内部では以前から劣化が進んでいたものと思われます」


「事前の点検では見つからなかったのか?」


「申し訳ございません。外装を外さなければ確認できない場所です。通常の点検では発見できません」


 王太子はそこで再びセレナを見た。


「君には、壊れる前から見えていた?」


「はい」


「騎乗具以外でも同じことができるのか。例えば、橋は?」


 予想していなかった質問だった。


「橋、ですか?」


「城壁でもいい。魔導炉や船はどうだ?」


 セレナはすぐに答えられなかった。屋敷の壁や家具の損傷を見つけた経験はあるが、橋や城壁のような巨大な建造物を意識して調べたことはない。


「試したことがございませんので、わかりません」


「なら、試せばいい」


 王太子は簡単に言った。


 その言葉を聞き、セレナは一か月前のレオンを思い出した。できないことを探しているのではない。できることを確かめようとしている。


「はい。試してみたいです」


 セレナが答えると、王太子は側近へ指示を出した。


 公開演習は安全確認のため中止となり、翌朝、セレナのもとへ王宮から正式な呼び出しが届いた。



「結論から申し上げます」


 王立魔導具院の院長は、机の上に積まれた報告書をセレナの前へ置いた。


 王宮の一室にはセレナと父のほか、昨日の王太子、魔導具院の技師二人が同席している。呼び出された直後は何か問題を起こしたのではないかと不安だったが、朝から行われたのはセレナの祝福に関する検証ばかりだった。


「あなたの祝福は、これまで考えられていたものとは少々違うようです」


「違う、と申しますと?」


「あなたは単純に傷を見ているのではありません」


 院長は検証結果の一枚を取り出した。今日調べたのは剣、魔導灯、橋の模型、魔力炉の部品など十数種類。セレナが異常箇所を示したあと、それぞれを専門家が分解して確認した。


「こちらの橋の模型を覚えていますね?」


「はい」


「あなたは中央の梁に異常があると指摘した。しかし、分解してもそこに亀裂はありませんでした。ですが、その部分の内部では腐食が始まっていた。このまま荷重をかけ続ければ、最初に破損する可能性が高い場所です」


 セレナも覚えている。自分には確かに線が見えていたため、間違えたのではないかと不安になった。


「つまり、あなたが見ているのは完成した傷ではなく、物体に生じている構造上の異常と考えた方がいい。現段階では断定できませんが、破損する可能性が高い場所を事前に発見できる祝福かもしれません」


「壊れる前に......」


「祝福には、使い方を理解することで精度や範囲が変化する例があります。あなたの場合も、騎乗具を繰り返し調べるうち、損傷そのものではなく負荷の流れを捉える感覚を覚えたのでしょう」


 セレナは机の上の報告書を見た。魔導灯、騎乗具、橋。今まで自分が見つけてきたものが、ようやく一つの意味を持ち始めた。


「橋、城壁、魔導具、武器、船。調べなければならない対象はいくらでもあります。少なくとも我々は、あなたの祝福を役立たずとは評価しません」


 九年間、何度も聞かされた言葉が否定された。


 自分の中で長い時間をかけて当たり前になっていた考えが、一日で消えてしまうわけではない。それでも、レオンと騎乗具を調べ始めた日から少しずつ変わっていたものが、今度こそ確かな形になった気がした。


「セレナ・アルフォード嬢」


 王太子が話を引き取った。


「王立魔導具院の特別鑑定官として働く気はないか?」


「わたくしが、こちらで?」


「ああ。昨日のような事故を防げる可能性がある人間を、何もさせずに置いておく理由はない。学院との調整はこちらでする」


 隣にいる父を見ると、彼も驚いていた。貴族令嬢が王立機関で働くこと自体は珍しくない。けれど、セレナはこれまで侯爵夫人になるための教育しか受けてこなかった。


 婚約を解消してからも、その先を具体的に考える余裕はなかった。けれど今、目の前に道がある。自分の祝福を使い、もっと多くのものを調べられる場所。


「もちろん、今日中に決める必要はない」


「いいえ。お受けいたします」


 父が隣でこちらを見た。以前なら、その反応だけで返事を取り消していたかもしれない。


「わたくしに何ができるのか、もっと知りたいのです」


 セレナは父にも聞こえるよう、はっきりと答えた。


 父はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「私も、お前の祝福をもっと早くきちんと調べさせるべきだったな」


 それだけだった。長い謝罪ではなかったが、セレナには十分だった。今すぐ過去のすべてを許せるかどうかではなく、父もまた自分の見方が間違っていたと認めたことの方が大切だった。


 王太子が頷き、院長は早速、学院卒業までの勤務日数について説明を始めた。


 話がまとまりかけたところで、部屋の扉が叩かれた。入ってきた官吏は院長へ一枚の書類を渡し、短く耳打ちする。内容を確認した院長は、それまでとは違う険しい表情になった。


「何かあったのですか?」


「昨日破損した騎乗具について製造元を調べていたのですが、別の問題が見つかりました。製造元はローデル工房です」


 セレナはその名前を聞き、書類へ視線を向けた。


 ローデル侯爵家。アーヴィンの実家が所有する魔導具工房だった。


「先に確認しておきますが、レオン・グランツが使用していた旧型騎乗具の損傷は、設計上の許容魔力量が低かったことが主因です。あれは長年の使用と高い魔力負荷が重なったもので、今回の不正とは別件です」


 院長はそこで書類を一枚めくった。


「問題は、昨日殿下が使用された新型です。製造記録上は十分な耐魔力銀を使用しているはずなのに、実物の含有量が規定を下回っていました。三年前からローデル工房が納入した同型品にも、安価な通常銀を混ぜている可能性があります」


「魔導灯も、ですか」


 セレナは思わず口にしていた。学院の整備室で見た、銀色の台座。裏側に刻まれていたローデル工房の印が脳裏に浮かぶ。


 院長は書類に目を落とし、重々しく頷いた。


「三年前以降に学院へ納入された魔導灯にも、同じ材料不足の疑いがあります。あなたが最初に異常を記録していた魔導灯は、再調査の対象に加えました」


「帳簿は?」


「すべて規定量の耐魔力銀を使用したことになっています」


 王太子はすぐ監査を命じた。


 アーヴィン本人が知っていたのかどうかは、今の段階ではわからない。だからセレナも何も言わなかった。


 ただ、正門前で言われた言葉を思い出した。


 専門の職人が点検している。それで十分だ。


 けれど、通常の点検では見つけられない異常があり、記録上は安全なはずの新品にさえ問題が潜んでいた。誰かが決めた「十分」を信じるだけでは、防げない事故もある。


 だから自分は、壊れる前に見つける。


 それができるのなら、もう「見えるだけ」と言って自分の力を小さく扱うつもりはなかった。



 三か月後。


 セレナは王立魔導具院の作業室で、北方にある石橋の設計図を確認していた。


 学院にはまだ在籍しているが、週に三日は特別鑑定官として魔導具院へ通っている。最初のころは職人たちに混じって作業着を着るだけでも緊張したが、今では袖に煤がついた程度では気にならなくなった。


 調査対象も増えている。魔導具だけではない。王都の古い橋を二本、倉庫を一棟、城壁の一部まで調べた。実際に内部の腐食を見つけたこともあり、セレナの祝福については「破損予見」の一種として正式な研究が始まっている。


 ローデル工房への調査も進んでいた。材料費の水増しと規定外材料の使用が確認され、侯爵家は王家への納入事業から外された。新型騎乗具だけでなく、学院へ納入された一部の魔導灯にも同じ問題が見つかり、整備室でセレナが記録していた魔導灯は使用前に回収された。アーヴィン本人が不正に関与した証拠はなく、処罰の対象にはならなかったものの、後継者として工房の整理に追われているという。


 一度だけ、彼から手紙が届いた。婚約解消を撤回できないかと書かれていた。


 セレナは断った。


 彼が困っていることを喜びたいとは思わなかったし、責める言葉を書くつもりもなかった。ただ、もう戻る理由がなかった。


「また難しいものを見ているな」


 聞き慣れた声がして、セレナは設計図から顔を上げた。作業室の入口にレオンが立っている。学院の制服ではなく、グランツ辺境伯家の紋章が入った騎士服姿だった。


「レオン様。王都にいらしていたのですか?」


「今朝着いた」


「黒竜も一緒ですか?」


「ああ。中庭で待たせている。さすがにここへ入れたら怒られるからな」


 作業台と精密な魔導具が並ぶ部屋へ黒竜を連れ込まれたら、院長でなくても怒るだろう。セレナは設計図を畳み、レオンの方へ椅子を向けた。


「今日は何のご用でしょう?」


「君に仕事を頼みに来た」


 レオンは持っていた筒を机へ置いた。中から出てきたのは、何枚もの図面だった。石橋、砦、魔導炉。見覚えのない設計ばかりだが、右下にはグランツ辺境伯領の印が入っている。


「領内に古い橋が多い。今回の話を父にしたら、一度調べてもらえないかということになった」


「こちらの砦もですか?」


「できれば。魔導炉と騎乗具も見てほしい」


 セレナは図面を一枚ずつ確認した。仕事としては興味深いが、数が多すぎる。


「これだけ調べるのでしたら、七日では終わりませんね。院長へ正式な出張として申請した方がよさそうです」


「それは俺からも頼む」


「わかりました。では、日程を――」


「待ってくれ」


 珍しくレオンが話を遮った。


「仕事は半分なんだ」


「半分?」


「ああ」


 セレナは机の上の図面を見た。橋に砦、魔導炉、騎乗具。これだけ並べて半分と言われても、残りが何なのか想像できない。


「では、残り半分は?」


「辺境を見てほしい」


「そのために伺うのでは?」


「仕事としてじゃない」


 レオンは椅子へ座らず、机を挟んだ向こう側に立っていた。


「俺が暮らしている場所を見てほしい。父や母にも会ってほしい。それで、気に入ってくれたなら......その先のことを考えてもらいたい」


 そこまで聞いて、ようやく意味がわかった。


「それは、求婚でしょうか?」


「そのつもりだ」


「仕事の依頼に紛れ込ませるものなのですか?」


「断られたとき、仕事だけでも受けてもらえる」


 あまりにもレオンらしい答えだった。


 セレナは笑いながら、もう一度図面へ目を落とした。


 以前なら、求婚された瞬間に家格を考えただろう。父が賛成するか。伯爵家にとって利益になるか。侯爵家との婚約を失った自分にとって、次の縁談として十分なのか。


 けれど、今は最初に別のことを考えている。


 自分はどうしたいのか。


 レオンといるのは楽しい。彼はセレナの祝福を必要としてくれた最初の人であり、それ以上に、セレナ自身が自分の力を試そうとするとき、それを止めなかった。


 ただ、それだけを理由に急いで結婚を決める必要もない。選ぶことができるのなら、きちんと見てから選びたかった。


「まずは橋を見てからにいたします」


 レオンが一度、机の上の図面を見た。


「......橋?」


「はい。グランツ領へ伺って、自分で見ます。橋も、砦も、魔導炉も。それからレオン様がお暮らしになっている場所も」


「それから?」


「求婚のお返事をいたします」


 レオンは少し考えたあと、納得したように頷いた。


「わかった。それでいい」


「ですが、危険な橋が見つかった場合は、そちらを先にしますよ」


「俺との結婚より橋か?」


 セレナは三か月前なら、その質問に困っていたかもしれない。今は迷わなかった。


「壊れてからでは遅いのでしょう?」


 レオンは何か言い返そうとして、結局やめた。


 作業室の窓の外から黒竜の鳴き声が聞こえる。セレナが窓へ近づくと、中庭で待っている黒竜がこちらを見上げていた。三か月前までレオンが近づくだけで暴れていた竜は、今では彼を乗せて辺境と王都を往復している。


 黒竜が急にレオンを好きになったわけではない。もともと嫌ってなどいなかった。二人の間にあった問題を見つけ、取り除いただけだ。


 セレナは机へ戻ると、自分の予定表を開いた。来月なら七日ほど予定を空けられる。正式な調査出張として認められれば、もう少し長く滞在できるはずだ。


「来月でしたら伺えます。院長に相談してみますね」


「頼む」


「ただし、橋だけではありません。依頼されたものは全部調べますから、覚悟しておいてください」


「もちろんだ」


 セレナはグランツ領の図面を自分の仕事箱へ入れた。


 九年前、祝福を授かったとき、自分には壊れた場所が見えるだけなのだと思っていた。直せないから価値がない。役に立たないから必要とされない。そう言われ続け、自分でも信じるようになった。


 けれど、直す人には見つける人が必要だった。


 そして、自分の価値を理解しない人のそばに留まり、その人が認めてくれる日を待ち続ける必要もなかった。


 仕事も、祝福の使い方も、これから暮らす場所も。誰かに決めてもらうのではなく、自分で確かめて選べばいい。


 セレナは新しい帳面を取り出し、最初の頁に「グランツ領調査」と書いた。その下には、調べる予定の橋と砦、魔導炉を順番に記していく。


 求婚への返事を書く場所だけは、まだ空けておいた。


 それを決めるのは、実際に自分の目で見てからでいい。


 今のセレナは、壊れる前に見つけることも、選ぶ前に確かめることも、そのどちらにも価値があると知っていた。


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