(2)近藤重蔵の半生
「近藤先生、お加減はいかがですか?」
元旗本の近藤重蔵は、前日から風邪を引き、高熱を発していた。この日も、大溝陣屋内に建造された獄舎内の四畳半の座敷牢で臥せったままであり、藩医と定番士が付きっきりで看病していた。そこへ、近江国大溝二万石の藩主、分部左京亮光寧がみずから枕元まで足を運び、重蔵を見舞った。左京亮はこのとき、数えで十九歳の青年藩主である。
「これは左京亮様、わざわざのお出まし、痛み入ります」
重蔵は布団から起き上がろうとした。
「そのまま、そのまま。近藤先生は当藩にとって大切なお客人。先生にもしものことがあっては、光寧一生の不覚でございます。どうか当面は静養一途におつとめいただき、一刻も早いご快癒をお祈り申し上げます」
「かたじけのうございます。肝に銘じて静養いたします」
(寄る年波には勝てぬ。若い頃は風邪一つ引いたことがないというのに)
数えで五十七歳になる重蔵は、往年の頑健さが衰えたことにめずらしく感懐を抱いた。
江戸を出立し、大溝陣屋に着いたのは二月、極寒の時期であった。寒い獄舎内の座敷牢で薄着のまま終日坐禅して過ごしても健康に差し障りはなかったのだが、あれから三ヶ月が経過し、春の陽気に包まれ出したとたんに風邪を引いた。気の緩みが原因であると重蔵は自己分析していた。
近藤重蔵守重は、明和八年(一七七一年)、御家人近藤右膳守知の三男として江戸駒込の鶏声ヶ窪で生まれた。出生当時は惣領ではなく、異母兄の藤次が近藤家の実子惣領であった。だが、藤次は病弱の身であったために廃嫡となり、次兄も故あってすでに出家していたため、代わって重蔵が惣領となった。重蔵が数えで十七歳のときである。藤次はその後、町医者として生涯を了えた。
重蔵は生まれつき身体頑健かつ頭脳明晰であることに加え、上昇志向が人並み外れていた。兄に代わって嫡子となったことへの負い目と、御家人の家格である近藤家を旗本身分へ昇華させたいという強烈な目的志向のなせるわざであった。
幼少期から読書に精励し、惣領となった十七歳のときには、早くも「白山義学」という私塾を設立し、みずから教鞭をとるという早熟さであった。
二十歳で家督を継ぎ、父守知と同じ御先手組鉄炮与力の職に就いた。在任中の一時期、火附盗賊改方の臨時用員として駆り出され、捕物の経験もしている。
二十四歳のとき、公儀主宰の学問吟味を受験し、丙科及第で合格した。学問吟味は、老中松平越中守定信が人材登用の一環として創始した制度であり、これに及第した者の多くがしかるべき役職に抜擢された。
重蔵は学問吟味に及第した翌年、二十五歳のときに、長崎奉行手附出役に任ぜられ、肥前長崎へ赴任した。鎖国下のわが国において、中国と阿蘭陀との唯一の外交の港市である長崎での二年間の経験で、重蔵は外交の重要性に目覚めた。勤務のかたわら、外交文献を渉猟し、かつみずから取材し、中国や安南についての著述、それに漂流民についての聞き書きをまとめ、いずれも公儀へ提出した。
二十七歳のときに帰府し、関東郡代附出役に就任したが、翌年、二十八歳のときに、松前蝦夷地御用を命ぜられる。これは長崎での重蔵の活動、著述を通じて、重蔵が辺境の地の開拓整備を担任するのに適していると幕閣が評価した結果であった。
以後、重蔵は十年間に五度の蝦夷地踏査を行った。特に第一次踏査の際、荒波を越えて択捉島へ渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てたことは歴史上の事績となっている。重蔵のこの建標が、後年にわたって択捉島がわが国の領土であることの論拠となっている。
三十三歳のとき、近藤家は世襲の旗本家として公儀から認定される。重蔵が若年時から標榜していた夢が現実のものとなった。
三十八歳のとき、御書物奉行を命ぜられる。広汎な読書家であり、蔵書家であり、かつ多産の著述家でもあった重蔵ならではとの幕閣による抜擢人事であった。
この職にあること十一年、公儀の御書物蔵(紅葉山文庫)の管理のかたわら、秘蔵の書物を片っ端から読み漁り、江戸幕府開闢以来の外交文書を編纂するなど、多くの書物を著した。
四十九歳のとき、大坂御弓奉行に任ぜられ、浪花の地へ赴任した。これは重蔵の御書物奉行時代の著述活動が、公儀の外交政策への口出しと解釈されたことによる左遷人事であった。
この職にあること二年、大坂の役宅に高楼を構えるなどの行動が幕閣の不評を買い、重蔵五十一歳のとき、大坂御弓奉行を罷免され、永々小普請入差控(非役)となって江戸へ召喚された。以後、重蔵は公的な役職には就いていない。
重蔵は大坂御弓奉行としての赴任直前に、目黒鎗ヶ崎の別邸内に富士塚を築いた。この富士塚は江戸百景の目黒新富士と称されて多くの参詣客を集めていたが、隣家の町人、塚原半之助と地境でもめることとなり、重蔵が大坂から帰府してから三年後、地境訴訟として表沙汰になった。だが、双方それぞれが言い分を申し立てて、訴訟が解決しないままに月日が過ぎた。
文政九年(一八二六年)、重蔵五十六歳のとき、嫡男である富蔵と家来二人が、半之助側と口論の末、半之助夫妻とその長男夫妻、それに次男の計五人を殺害し、半之助の雇人二人に傷を負わせた。
鎗ヶ崎事件と称されたこの刃傷沙汰は公儀でも大きく問題視され、大目付村上義雄と南町奉行筒井政憲による吟味が行われた。その結果、富蔵が現場工作を行い、虚偽報告に及んだことが「不届之至」と断罪され、旗本近藤家は改易、主犯の富蔵は八丈島へ遠島、重蔵は大溝藩分部家へ「御預」となって幽閉されることとなった。重蔵が大溝陣屋内の獄舎で起居しているのは、そういう経緯があったためである。
近藤家はすでに改易され、正確に言えば重蔵はもう旗本身分ではない。だが、大溝藩としては、重蔵はあくまで公儀からの預かり人であり、粗相があってはならない。実際、大溝藩は、重蔵の身柄を預かる見返りとして、参勤交代を免除されていた。大名家にとって大きな出費を伴う参勤交代がないことで大溝藩の財政は一息つけることになるが、一方、公儀ではそれほど重蔵を腫物のように大物視している証左でもあった。
大溝藩では、そういう機微を十分に汲み取って、重蔵に対し厚く接遇した。堅牢な獄舎の建造からはじまり、三度の食事は藩主と同じものをととのえた。朝食は一汁一菜、昼食は一汁二菜、夕食も一汁二菜、さらに夕七つどき(午後四時頃)には御酒二合と肴三種を饗した。
重蔵は淡水魚が苦手であった。そのため大溝藩は、領内が琵琶湖西岸に接していて、豊かな淡水魚が獲れるのに、わざわざ越前若狭湾から海水魚を取り寄せて、重蔵の膳にのせた。
重蔵の衣服は、絹布をよく火にあぶってから裁縫した白無垢地のものを用意した。これは力を入れるとすぐに破れてしまう弱いものであったが、自死防止のための工夫であった。
また、大溝藩は、重蔵の身柄預かりの体制として、家老の安田民部を総元締めとし、その下に用人数名、大目付数名、医師数名に重蔵番を兼務させ、さらに重蔵の居室横に設けられた詰所へ定番士を交代制で常駐させていた。




