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(1)琵琶湖畔にて


 かいつぶりの群れが湖面を気持ち良さげに進んでいる。照り返しのまぶしさに目をひそめながら、坂部一(さかべかず)()は両腕を頭上に持ち上げ、思いっきり伸びをした。と同時に、ああと声を発しながら大きなあくびをした。

「近藤先生のいびきのやかましさにはほとほと参った。まるで耳の中で何匹もの蠅がさかんに羽音を鳴らしているかのようであった。先生が、からすがうるさくて眠れん、などと言われたので、詰所の者たちみんなで追い払ったが、そのまま放っておけばよかったかもしれない。おかげで昨晩はほとんど眠れずじまいよ」

「そもそも夜勤番なら、眠らずに起きているのがお役目ではないのか? 勤めが明けてから家へ帰って寝ればいいのだ」

 流木に腰かけて釣り糸を垂れながら、横田(よこた)秋蔵(しゅうぞう)は一馬の方を見ずに言った。

「確かにその通りだが、仮眠すらまともにとれなかった、ということよ」

「無理もない」

 夜半、近藤(こんどう)重蔵(じゅうぞう)が起居する座敷牢の隣りの詰所で、地響きのようないびきに覚醒を余儀なくされて苛立っている一馬を想像し、秋蔵はふふと笑った。

「もう還暦に近い御年だとお聞きしているが、あの大いびきは意気盛んなる壮年男子のものだ。近藤先生の精力のすさまじさよ」

「ご家中にはあの目力に匹敵する者など一人もおらんぞ」

「ご家中はおろか、わしはあれほど眼光の鋭い御仁に出会ったことがない」

 秋蔵の竿がしなった。引きが強くなったり、弱くなったりと、しばらくの間、秋蔵はなすがままに任せていたが、やがて力強く竿を引き上げた。すると、銀色の魚体が宙を舞い、秋蔵の足元に鈍い音をたてて落ちた。

「見事な(ます)ではないか。一尺はある」

 一馬は嘆声を上げた。

「なに、この程度ではまだまだ小物よ。大物なら、この倍はある」

「しかし、二尺の鱒など、この細竿一本で引き上げるのはとても無理だ」

「なんの。わしは二尺の鱒をこの竿で引き上げたことがある」

「……信じられん」

「はなから無理だと思い込めば、その時点で事は成らぬ。だが、できるかもしれない、と信じて、心胆を整えて行動に移せば、あるいは劣勢を挽回しうることもある」

「秋蔵お得意の陽明学か」

「いや、これは禅の心得だ。あれこれ気を揉んでばかりいて、持てる力を十分に出し切れずに事を仕損じる輩が巷には多い。覚悟を定めて、全身全霊で一事に当たれば、岩石をも打ち砕けるものだ」

「だが、いくら全身全霊で事に当たったとしても、結局のところみずからが砕かれてしまって、往々にして事が成らぬのが世の現実ではないのか?」

「失敗が何ほどのことか。古来、勝敗は兵家の常という。行動すればこそ成功もあり、失敗もある。わしは、自分自身は行動せずに、人の失敗をただあざ(わら)うだけの男にはなりたくない」

「ご高説、ごもっとも」

 天高くとんびが弧を描いている。秋蔵が釣り上げた鱒を狙っている。

「ところで一馬、おぬしは昨晩、近藤先生の雷鳴にあてられて寝不足ではないのか? 勤めが明けたのだから、こんなところでわしの釣りの邪魔などせずに、早く帰って寝たらどうなのだ?」

「陣屋を出て、まっすぐ帰ろうと思ったのだが、春風の心地良さにつられてつい湖まで足が向いてしまったのだ」

 とんびが空から急降下してきた。秋蔵が釣り上げた鱒へまっしぐらに向かっている。

「あっ!」

 秋蔵が叫ぶと同時に、一馬が抜いた白刃が一閃した。血しぶきと茶色い羽毛が周囲に飛び散り、真っ二つに切り下げられたとんびの胴体が地に落ちた。一馬は懐紙で刀身の血をぬぐっている。

「さすがは(じき)(しん)陰流(かげりゅう)目録傳(もくろくでん)()の腕前。剣術ではおぬしにはかなわぬ」

 秋蔵は、一馬の手さばきに感嘆した。

「せっかくの鱒をとんびにさらわれては口惜しいからな。つい手が出てしまった」

 刀を鞘に納めると、一馬はあくびをした。

「帰って寝る。邪魔した」

「鱒を持って行け。寝酒の肴にお袋殿に焼いてもらえ」

「おう、かたじけない」

 一馬は、鱒のしっぽを持って、湖畔をあとにした。


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