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時雨に灰の面影を見る

作者: 潮戸 あお
掲載日:2026/03/28

 時雨というのは季節的な雨であって、当然雨雲が伴われます。ふとそれを仰ぎ見た私は、その雲の色に、綺麗に焼かれきった灰を重ねてしまうのです。

 

 曇天、雨模様。硝子(ガラス)に雨の雫が打ち付けて、こつこつと軽快な音が絶え間なく鳴っている。

 湿った木材の匂いが揺らめきながら一帯に(かお)って、他方、窓辺で緩やかに冷えた空気が足元を漂う。



 私は客足の見えない空いたカフェの一角に腰を落ち着けて、右手の指先をコーヒーカップの端に引っ掛けながら窓の外を眺めている。


 湯気の立ったコーヒーの濃い黒色が、白磁のカップの底をすっかりと覆い隠している。

―――私はそれを持ち上げて、口に含む。



 嚥下(えんげ)して、ふうと一息つく。相変わらずの苦みだ。

 そう、普段と変わらない味。匂いも、何もかも。

 空いたままの店内に、空模様、雨の降る音、何もかもが。

 

 同じだ。



―――また、同じ夢をみている。



 窓に向かって左手を伸ばしてみる。衣擦れの音が一つ。硝子にぶつかりそうなのも気にせず肘を伸ばすと、しかし障害もなく窓をすり抜けて指先が外に出る。


 手首までが外気に触れた所で、雨が手にかかった。途端に左手の輪郭がぼやけて、肌色が水に滲みだす。



 それに気づいて、反射的に手を引っ込めた。胸元に抱え込んで恐る恐る、注意深く確認する。

 錯覚だったのか、どこにも異常はない。

――どうして、こんな夢を見るようになったんだろう。


 手の甲をさすりながら溜息をつく。足は固まって椅子から動かず、声の聞こえる人はどこにもいない。夢が終わるのを、じっと待つしかないのだ。


 

 仄暗(ほのくら)い店内はあからさまに空っぽで、店員の気配さえしない。木材を基調とした造りは北欧の伝統家屋を想起させるが、寂寥のインテリアのみがそこにはある。

 

 雨が降り続ける。

――雫が絶えず地面に落ちて砕けて、辺りを甲斐甲斐しく濡らす。水たまりがそこら中にあり、道路脇では川のように流れていく。



 私は、窓越しに霞んだ風景を横目に、頬杖をついていた。



 雨が止めば、夢も終わる。経験則だ。

――それしか方法がないとも言えるが、他には探せそうもない――

 

 だから、その時だけを待っている。雨が止んで、目が覚めて。それからまた夢を見る。


 いつしかそれが普通になって、私は繰り返す夢を、黙って受け入れるようになっていた。


**

 


 大学生としての新生活にも慣れてきた頃に、この夢は始まった。最初は何の変哲もない、妙に意識がはっきりしているだけの普通の夢だと思っていた。

 全く同じ夢が一週間の内に三度起きてようやく、変だなと感じるようになった。

 


 目覚めれば簡単に忘れていくはずの夢は、しかしその日の晩になっても確かなままだった。それでも私は、これが明晰夢なんだろうかと、どこか気楽な気持ちを持っていた。

――それも長くは続かない。


 

 季節を越えて、年を跨いで。それでも夢は、私の枕元を離れなかった。


 雨の匂いが、いつまで経ってもどこに行っても消えずに頭の奥で(くすぶ)って、私は夢を楽しめなくなった。


――漠然とした不安が、日々を過ごす内に次第に膨らんでいった。



**



 そうやって夢と覚醒を繰り返す内に、春になった。


 私は無事に二年に進級し、順調な学生生活を送っている。もし夢のせいで精神的に負担がかかっていて、それで成績が下がったりしたらどうしようかなんて考えたりもしたが、杞憂に済んだらしい。



 あのカフェでは、今までなかったはずの店内BGMが流れるようになった。穏やかなピアノ、聴いたことのない音色だ。



 それは私の心に安らぎ――凪いだ水面を想起させる――を与えてくれる。僅かながらに退屈も凌げて、気付けば前ほどの憂鬱さは無くなっていた。



 変化が起きていた。小さくとも、確実な変化が。 

            

 

――思い返してみれば、この数カ月こそが最も穏やかで、私には充足たるものだったのだ。

 たとえ雨と曇天が、変わらずに空を覆っていたとしても。


**



 決定的な、あるいは致命的な、そんな変化が起きたのは初夏を過ぎた頃だった。

――カフェに私以外の人間、客が現れたのだ。



 日差しが強まり始めていた。肌を焼く感覚はじりじりと絶え間なく、湿気も相まって体の中心が茹で上がるように熱くなっていく、そんな季節だった。

 朝のニュース曰く、今年の夏は例年に増して猛暑なのだそうだ。



 いつも通りに夢を見ていた。私は机に腕と頭とを投げ出して、眠るみたくぼんやりと微睡(まどろ)んでいた。普段より強い雨は、白いカーテンみたく窓の外で降りかかっている。


 

 その瞬間、雨の匂いに紛れてふと、金木犀の香りがした。それに気付いた私は何気なく視線を横に向けて、思わず絶句してしまった。

 

 人がいた。男の人だった。



 雨の音も耳に入らず、ただ目の前の情報を受け入れようと脳が働いた。思わず顔を上げて、彼をじっと観察する。たった今入ってきたのだろうか。辺りを見渡して、しばし逡巡した様子を見せてから、すぐにこちらに向かって歩いてきた。


――こちらに?


 戸惑う私には目もくれず、私と同じテーブルの向かいの席に躊躇(ためら)いなく座った。



 驚きで声がうまく出せない。どうして、この人はこの席に?私のことに気付いていないのか、それともわざとか。


「……どちら様ですか?」


 返事はない。未だ彼はひと言も発さず、私に視線を寄越すこともなく、いつの間にか現れたコーヒーカップを片手に窓の外を眺めている。


「私に何か用ですか?」


 変わらず無言。顔色も雰囲気も、何も変わらない。

 やはり彼は私に気づいていないのだろうか。その顔を窓の外に向けたまま、じっと()()()()()ように佇んでいる。


「……名前を、伺ってもいいですか?」


 意地汚く尋ねても、言葉は返ってこない。それを最後に諦めて、私もまた窓の外の雨に視線を戻した。


 彼の右肩は濡れていた。じきに雨も止む。

 事態が、大きく動き始めていた。


 

それが、祖母の亡くなった日の出来事だった。



『どんな雨でも、いつかは止むからね』


 外で遊べないと不貞腐れていた私に、祖母はそう言葉を掛けてくれた。陽光をカーテンが遮った暗い部屋でそれを思い出す。母から連絡を受けた翌日、正午を目前に日が昇っている時間でも、私は寝具から動き出せずにいた。


 街で倒れたのだそうだ。その場で救急車を呼ばれたものの、搬送先で死亡を確認されたのだと。そう親から電話があった。

 私はそれを聞いて取り乱すわけでも、涙を流すのでもなく、ただひたすらに、浅い呼吸を繰り返していた。僅かに、胸の奥が狭まるような息苦しさがあった。

 身内の不幸には、経験則なんて存在しなかった。



 背の高い人だった。

 狡猾な笑みを浮かべては、私の髪を柔らかく撫でる人だった。

 あの人の作る、蜂蜜のよく香るカヌレとベルガモットのよく香る紅茶は、私の大好物だった。


 

 綺麗な絵を描く人だった。完成させては棚に仕舞うか、私にくれるかとする人だった。


 

 幼少期から頻繁に遊んでもらって、引っ越しで家が少し遠くなってもしょっちゅう彼女の元を訪れて、いわゆるお婆ちゃんっ子というのが、私だった。

――私は心の底から、あの人に懐いていたのだ。


 

 祖母の葬儀は一週間もしない内に執り行われた。こぢんまりとした葬儀場で、親族だけで静かに弔った。


 

 母も叔母も、皆涙を流していたが、私はやはり、ただ押し黙ってやり過ごしていた。誰とも目を合わせずにただ、花に包まれた祖母の、細い老木のような利き手を見つめていた。

 画材で汚れていたはずの、白樺みたいな色味の手は、微かな古傷の跡だけを残して、白磁のカップみたく白く(すす)がれていた。


――それが歓迎すべきことなのか、私には分からなかった。 



 焼かれきった骨は、なんというか、葬儀屋も驚くほど白く強靭で、細かく灰に揃えるのに時間がかかってしまった。

――なんとなく、あの狡猾な笑みを思い出した。



 大学は長期休暇に入って、私が祖母の家に入り浸る口実となった。実際、あの大きな家で遺品整理をするには私の手伝いも必要で、親は喜んで私の提案を受け入れた。



 祖母の家は私の大学を挟んで実家から南に位置する。おかげでわざわざ帰省する必要もなく、電車で1時間ほど揺られれば到着できる。



 祖母が住んでいた家は丘の途中にあって、表の庭からは街を一度に見渡せるようになっている。

 遠くに見える海が照りつける陽光を青い波面になじませては、揺らぎながら(きら)めいている。

 


 明るい白色と暗い青色が盛んに混じり合っているのを見て、今日は風がよく吹いているなと少女は思う。

 


 僅かな湿気を孕んだ涼しげな風がなだらかに吹いていた。自然を好んでいたあの人らしい立地だと思う。私にとってもお気に入りの場所だ。


  

 廊下を突き当たりに進んで、左手側にある階段を上がる。年季の入った木材と、薄く埃の匂いがして、足を落とす度にぎりりと軋む音が響く。


 昇ってすぐにある金属製の丸いドアノブを捻って、中に身体を入れ込んだ。


 祖母の作業部屋――この部屋だけは私の要望で、自分一人だけで作業することになっている。


 

 不思議な感覚だ。昔から入り浸っていた部屋特有の馴染み深さだけじゃなく、新たな情緒が頭の中に漂っている。初めて一人だけで入ったな、とか。意外と狭かったんだな、とか。取り留めのない思考ばかり溢れて、情緒の整理が遅々として進まない。



 窓の前に置いてある椅子を引いて、座る。何をするでもなく、この瞬間はただ、ぼんやりとしていたかった。

 


 いつの間にか寝てしまっていたらしい、というのは雨の音が耳に入ってから分かったことだった。

 目の前にはすでに彼がいる。記憶が正しければ、最後に夢を見たときもこんな格好で、同じ佇まいをしていた。


 「どちら様ですか」


 返答はない。いくらか間をおいて繰り返しても、同じだ。夢っぽく予定調和みたい、と口の中で呟く。

――この場所にピアノの音色はもう無い。


 

 月が分厚い雲の裏で低く佇んでいる――真夜中の夢だった。雨はほどほどに強く、窓に絶えず打ち付けている。

 瞬間、雲間から光が差して、彼の横顔を照らす。月明かりは矮小で、遠い。なんだか、まるで、


 「誘蛾灯みたいだ」


 こんな声で喋るのか、と思った。彼の呟きはきっと、誰に向けたものでもない。()()()()言葉なんだろう。貴方が来たせいで、このカフェは私だけの場所ではなくなったのに。



――貴方は、誰なんですか。

――どうしてここに来たんですか。

――貴方も、私みたいに、夢の中にいるのですか。

――なんで、今更ここに他人が現れるんですか。



 どんな形であれ心変わりはするもので、いつしかこのカフェは、私にとっての安息の地のようになっていたのだ。それがあっけなく崩れた。慕っていた祖母は急逝し、夢は終わらずに続いている。


――終わらない夢だというのなら、あのカフェが変わらずにあるというなら、それに浸っていたかった。私はそれが欲しかった。



 また、雨が止む。


**



 目を覚まして、辺りを見回す。長く眠っていたのか既に日は大きく傾いて、茜が薄く部屋を染めている。

 この部屋に入るのは、随分と久し振りだ。去年の秋が最後だったか。


 

 ふと、イーゼルに掛けられた絵を見つけた。()()()()()が悪かったのかカバーも無しに放置されていたらしい。

 寝ぼけ眼を擦って、内容を確かめてみる。


 彼だ、そう思った。絵の中には草原とグランドピアノ、そしてそれを弾いている青年の後ろ姿が描かれていた。

――夢の中に出てきた彼と似ている、そんな錯覚が胸中に(もや)と湧いて出る。



 変哲のないありふれた相貌と言われればそれまでなのだろう、しかし、それでも夢をみた直後だからか、頭の中のモヤは簡単には消えずに、一人ぼっちのこの部屋に漂っていた。



――見せてくれた絵に、こんなのは無かった。

――最後に描いた絵、なのだろうか。

――やっぱり、あの人と似てる気がする。


 少女は思い悩む。夕暮れを過ぎた街は暗く、やはり寂寥の時間を彼女に与えていた。



 茜色は地平線に緩やかに融け出し、その対岸では、月明かりが淡く空に差し込まれる。流れる雲は分厚くどす黒い。光はその雲の裏に佇み、時折薄い端の部分から明かりを漏らして、その輪郭を色鮮やかに映し出す。

――滲む月明かりの黄色、濃い影の紫、薄氷にインクを染み込ませたような、夜空の藍色、また、様々。


**


 街の花屋に立ち入って、店内を眺めた時があった。

 線路沿いのその店は少しこぢんまりとしていて、中に入るとすぐに無数の花に囲まれるようになっていた。 

 


 様々の花の匂いと、僅かな土の香りがする。あるいは、"土の香り"だと思っていたのが、 本来の花の匂いに含まれるところなのかもしれない。手持ち無沙汰に、そんなことを考えた。



 「墓参りの為の花を一輪、見繕って貰えませんか」



 声をかけてきた店員にそう返事をしておく。彼女は了承して、すぐに候補を挙げてくれた。


 白百合、菊の花、それからカーネーション。少し 迷ってから結局菊を選び、代金を払ってすぐ店を出た。



 寄り道はせず、帰路につく。西の高い空に太陽と、真上に黒ずんだ大きい雲。失敗した、そう思った瞬間には、雨が一粒、二粒、数知らずと落ちてきた。


 瞬く間に街が白く霞んで、髪と衣服がすぐに水に濡れそぼっていく。強い通り雨だった。


――天気予報も見ずに家を出たのは間違いだったな、と今更ながら考えた。


 花を濡らしたくない、そんな思いが頭の中を占めて、買ったばかりのそれを脇に押し隠して雨宿り先を求めて走る。息切れの音だけが、耳に響いていた。


 結局、五分と経たない内に通り雨は止み、最低限の身だしなみと息を整えて、すぐに家に帰った。


 不運にため息をつきながら、靴を脱いで花を確かめる。


 花は、折れていた。


 墓参りは中止だな、と頭の中のカレンダーに斜線

を一つ引く。綺麗な花を、供えて、あげたかっ、た。


 思考がぶつりと途切れる。唇が戦慄(わなな)いて、花を支える指が小刻みに震えている。


 胸の前に持ち上げた花に、雫が落ちた。髪先から 落ちたそれとは別に、頬を滑り落ちる。

 曲がって崩れ落ちそうになる膝をどうにか伸ばして、顔を上げて、玄関から中に上がる。 


 折れた花をごみ箱に放り込もうとして、最後に一瞥する。


 ――あれ、この花の名前、なんだっけ。


 それ以上、何も考えたくなかった。ただ、崩れそうな膝を伸ばすだけで、立つだけで精一杯だった。

 どうにか髪を拭って、濡れた服を洗濯かごに放り込む。


 身体を覆う雨と汗とがじれったく絡まって、素肌にぴったり張り付いた下着が重苦しく感じた。

 堪らずそれを脱ぎ捨てて、傍らのかごから替えを取り出す。


 鏡のなかの自分と、目が合った。 普段より生気の薄い、少し無愛想な表情。僅かに瞼が落ちて、目が死んだ魚みたいだ。


 身体も多少の上背はあるが、それ以外が貧相だ。健康的とは言えないだろう。骨が張っていないだけ、まだマシと言えた。



 部屋の薄暗さも気にせず、椅子を引いて座る。

 両腕で膝を抱え込んで、髪が巻き込まれるのも無視して頭を(うず)めた。


 続く夢、祖母の急逝、最後の絵に、彼の姿。

 心憂く()()が、自分のことながら、手に取るように分かる。

 

 胸の奥、古傷が開くみたいに――深く抉れたような感覚の、溝が生まれたみたいに――その奥が鈍く痛む。

 締め付けられるような痛みに気道もきつく狭まって、呼吸が苦しくなる。浅い呼吸を、壊れた機械みたいに繰り返す。

 

 


 目の奥が重い。頭の中身が、なにか重苦しい気体に浸かりきってしまったみたいだ。私は瞼を薄く開いて、無体な深呼吸を繰り返している。涙さえもう出ない。


 視線はなにを求めるでもなく、二の腕にかかる袖に向かっていた。規則的に並ぶ繊維と、不規則にほつれた糸が並ぶ。

  


 上手くいかないことがあっても、それですっかり絶望しきれてしまう人生ではなかった。



 だから、一晩も経てば私はまたいつも通りに生活を送るし、きっと墓参りだって、日を改めて向かうことにするのだろう。


 

――明日が来ない保証なんてどこにもないのだから。

 誰しも短いうちに人生があっけなく終わるだなんて、証明はできないから。

 それで、却って辛くなる。

 不毛な日々だとは分かっていても、それだけで何かを決心するのは難しい。私は、蹲ったままでいた。――

 


 『どんな雨でも、いつかは止むからね』

 それは天気だけの言葉ではなくて、人生そのものも含んでいたのかも、しれない。もうその真偽は分からないけれども。あの人は色んなことを知っていた。


 部屋の中は時が止まったみたいな様で、雲越しに差さる太陽の光だけを頼りに、薄暗いまま。




 斜陽が落ちきってしまって、月明かりも草葉の陰に隠れた暗い夜の中、また私は夢を見た。

 

 「あの作品はね、やっぱり、もっと評価されるべきだよ。僕はそう信じてる」


 普段の視界を俯瞰視したらこういう風景になるのだろうか、妙に微睡んだような意識で、そう考えた。


 雨音の弾ける軒先、夜に身を沈める街角のカフェ。

 いつもの店、いつもの席。けれど目の前には既に彼がいて、楽しげに談笑している――()と。


 意識はあるが、身体はまるで動かせない。他人の動きを一人称で見届けているような、不思議な感覚だ。

 

 「――さんの作品は、まだ完成しませんか?」


 彼の名前、だろうか。私が知らないのだから、聞き取れないのも当然のことだろう。


 彼は少し目線を右上に寄越してから、微笑んで答える。


「まだかかりそうだよ。キャンバスのサイズをいつもより大きくして描いてて、試行錯誤してるんだ」


 早くとも一週間は欲しいかな、と付け加えた。

 雨の匂い。窓の下の花弁を湿らせて、しとりと雫が落ちる。溜まった水が、排水溝でさざらと流れる。


 ふと、思い至る。これまでの夢のこと。

 私は、彼を待っていたのだろうか。あるいは、()が待たせていたのだろうか。


 二人の会話は続く。

 珈琲の湯気が二つ、立ち昇っている。夢の中だからだろうか、妙に白く、濃い。

――これじゃ、顔が分からないな。


 それはお膳立てであったのか、もしくは単なる偶然だったのかもしれない。

 ただ、結果として、少女は決心をした。

 

「会ってみたいです、早く」

――その言葉を、()()()()()()が口にしたのか。

 夢から覚めた彼女は、覚えていなかった。




 夏のピーク。道端の木で蝉が忙しなく鳴いている。

 私はその近くのベンチに座って、一際大きな木の下で涼んでいた。道の向こうには木漏れ日が見える。


 この地域では真夏に雨が降ることは少なく、今日も快晴のお出かけ日和だ。

 私は人と会う約束をしていて、大学近くのカフェで落ち合うことになっている。


 そろそろ涼むにも十分で、時間も都合の良くなったところで、ベンチから腰を上げる。それから、軽く覚悟を決めて、歩き出した。


**


 その指先を筆にしたい。


――待ち合わせのカフェに現れた彼女を見て、僕の脳裏にそんな願望がふっと湧いた。モネも、ゴッホも、筆を使うなら誰でも同じことを思うんじゃないかと僕は思った。


 近くの大学で、とんでもない絵をコミュニティに投稿した人物がいると、そんな噂が自分の通う美術大にも流れてきたのが事の発端だった。


 それに興味を持って、食指を軽く伸ばす心持ちでその絵を見てみようとした。それから色々とあって、この場で話を聞くことになったのだ。


 綺麗な女性だった。


 備長炭の澄んだ黒さを思い起こさせる長髪は明かりを滑らかに反射しながら柔らかく(なび)いて、雅な日本人らしさを認めさせられる。


 しかしその瞳は淡く、ターキスブルーを薄めたような健気な色合いをしている。外国、それも欧州あたりの遺伝子を持っているのだろうか。


 背丈は160cmを少し超えたぐらいで、脚がしなやかに長い。全体的に細く、スタイルの良い印象を受ける。


 佇まいこそ柔和だが、その雰囲気のなかに、熟練の研師が仕上げた牛刀のような、そんな隙のなさをどことなく感じてしまう。


 ストレートティーが似合いそうだ、とも思った。

 綺麗な女性だった。


――自分を見る目が、()()()()()の相手に向けるものではなかったような、そんな気がしてしまった。ほんの、僅か。


 ()()では、芸術家には毒でしかないな、青年はそう考えた。()()()()()の人間にとって、完成されすぎた美は却って危険だろう。

 しかしそんな少女を前にしても、青年も絵描きに魂を注ぎ込む人物であったからか、やはり色恋の情念は芽生えなかった。


 青年は第一印象の大切さを知っている。呆けて開いたままだった口を閉じて、会話を始めた。


「はじめまして。今日は来てくれてありがとうね。色々と話を聞かせてくれると嬉しい」


「ええ、はじめまして。こちらこそ、詳しい人に話を聞いてみたかったので――よろしくお願いしますね」


 少女は微笑んで答える。それだけで数多の人を魅了するには十分すぎるだろうに、彼女は無自覚なのだろうかと、青年は訝しむ気持ちを強めた。


「まあ、あれだよ。一目惚れだったんだ、あの絵には」


 けれども、おまけのようなことを何時迄も気にしていられない、青年は本題を切り出すことにした。

 

「ふふ、まさかあんな事態になるとは思わなかったんです。物は試しと投稿した絵が、ほかの大学、まさか美術大に流れることになるとは」


 "身内の力作"、そういう触れ込みであの絵はSNSに投稿された。


 草原とピアノと、それを弾く男性。あの絵がどうしても気になって、しかし自分や親戚は美術に精通していない。

 祖母の遺書と思しき書き留め曰く、絵は全て少女の物になるという。それならばと、絵の写真を大学のコミュニティに拡げて、詳しい人に意見を貰ってみようかと考えた。


 晴れの気配に満ち満ちた日だった。

 白い、殆ど陽の光で出来たような明るさの羊雲が高く、紺碧の空を孤独に漂っている。


 一つ、祖母の描く絵は美麗であった。それを見て筆を折る才人が多くいたかも知れない。


 二つ、筆を執った祖母はそれを公には出さず、精々が少女に見せびらかして、次いでに甘やかすくらいだった。


 三つ、時折それを贈ってもらっていた少女は、誰に見せるでもなく、自分だけで大切に鑑賞していた。


 それが、大学生という若い大衆の集まりにちょっとした話題をもたらした要因だったのかもしれない。


 青年はその絵を最初に観た時、瞳孔が開ききったような感覚を持った。

 小学二年、父に連れられて美術館を訪れて以来の十数年を美術――とりわけ風景画に捧げてきた青年の価値観に、突風が真正面からかち合ってきたのだ。


 その絵を買い取ろうとした人もいたという。噂でしかないが、大学生には身に余る金額だったとか。


 感化されてしまった青年も、初心に還って絵について話を聞こうと、連絡をどうにか取り付けて今この場所にいる。


 少女は浮かべていた微笑みを薄めて、その目を細めた。僅かに躊躇ってから口を開いた。


「ご存知の通り、あの絵を描いたのは私ではありません。……それで、もう、いないのです」


 なにが、いないのか。彼はそう問いただそうとして、すぐに口を噤んだ。彼女と、その背景と、その境界線が、際立って剥離したような錯覚がしたからだ。


 同時に、彼女との会話を続けるべきだと、そんな直感にもならない重い痺れ身を襲った。


――この感覚には覚えがある。

 僕の原点、あの美術館で、とある絵を見つけてしまったあの瞬間。

 同じ甘美な痺れが身を襲った。確かなことだ。

 

「……そう、なんだね。ならまあ、分かる範囲でも話をしようか。せっかくの御縁だしね」


 簡単に手放してはいけない出会いだ、そう確信した彼は、会話を続ける努力を始めた。


――今更美術狂いを()()つもりなんざ毛頭ない。

 けれど彼女もまた、僕の人生の大きな転換点になる。

 ()()()()()()()()。経験則だ。


**


――ホントは、少しだけ期待していた。夢の中の彼と似た人が出てきてくれたりしないかな、と。

 やはり現実は都合よくはいかないもので、それを私も理解してるから特に落ち込んだりはしない。

 そも、全く違う見た目をしているわけでもなかった。どちらも日本人らしさのある雰囲気で、色々と見た目を整えれば、面影を見出すのは簡単だろう。


「すみません。絵の話なのに、こんな話題になってしまって」


 流石に初対面の相手にする話題ではないだろうと、少女は内心嘆息していた。しかし青年が絵を目当てに連絡を取ってきた以上、事情を話す必要があるのも確かだった。

 

「いいや大丈夫。僕こそ申し訳ない話だったね」


 そういった具合で、理解を示せる青年に少女は安心するものだった。


 青年が軽快な口調で話す。微笑みこそ穏やかなものだが、その細い目つきにはどこか狡猾さが宿る。

 絵の話に本腰を入れると途端に毒蛇の魂が憑依する、というのが大学での彼の噂であった。


「よければでいいんだけどね。あの絵を投稿した理由

とか、聞かせて貰えないだろうか」


 少女の顔が僅かに強張る。どこまで話したものか、と考えてみるが、難しい。夢に出てくる男の人に興味があって、それであわよくば現実での()が現れたりしないか……云々などとは話せない。



「……私は、あまり美術には詳しくなくて、素人なんです。けれど、あの絵は、祖母が描いた絵は不思議と、昔からずっと特別に見えていたんです」 


――ずっと、大好きな祖母の描く絵が、他の何よりも煌めいて見えてしまって――


 矢継ぎ早に、言葉を足し続ける。呼吸が少しずつ浅くなっていっても、少女は懸命に言葉を火に()べる。

 その誤魔化しもいつの間にか、隠れた本音に変化していった。

 青年は黙って、少女の揺れ動く瞳を見続けていた。


「でもそう見える理由が分からなくて、あの絵が他の人にはどう見えるのかって、気になったんです」


――だから、投稿したんです。最後には燃料も燃え尽きて、口調が尻すぼみになっていく。

 青年は瞠目したあと、慇懃(いんぎん)に口を開いた。


「一つ、思った事がある」


 少女は緊張した面持ちでコクリと頷いた。


「見させて貰った絵はね、圧倒的だったよ。

――君のお祖母さんには、その道の才能が十分すぎるくらいにあったんだと思う。もし画人として世に出ていたら、色んな人が筆を折っていただろう」


――あくまで一介の美大生でしかない僕の感想だけどね、彼は付け加えて苦笑した。

 僕は絶対に筆を折らないけども、内心ではそう嘯きながら。


「例えば、あれは油絵っていう分類になるんだけど。筆遣いが特異なんだ。精密さと言うべきか、言葉で表せないくらいにタッチが綺麗だったし、色彩も見事だ」


――人生何周したら、あんな色使いができるんだろうね。なんとも据わった目でそう言うものだから、少女は少しだけ画家という人種に怖さを抱いてしまった。


「だからそういう意味では、あの絵が特別に見えても、なんら不思議じゃないんだ」


 言い切って、彼は珈琲を口に運ぶ。少女の紅茶も彼の珈琲と同様に、湯気は消えていた。

 一転して、押し黙る。絵に無知な少女は納得した様子を見せながらも、何か喉奥に突っかかるものを感じていた。


彼がじろりとこちらを見る。

「……けれど、違うんだろうね。君にとっては」


 言い当てられた気がして、身を強張らせた。


「いえ、その。……感謝してます。絵を見ても細かいことが分からないから、だからそういう話が聞けて嬉しかったです」


――これでは、納得できませんでしたと白状したようなものだ。彼女は苦しげに、カップを口元に持ち上げた。



「……気にしないで欲しい。僕も結局は美術ばかりに向き合ってきた人間だからね――君の気持ちがどうなのか、どうすれば対処できるかなんて、全く分からないんだよ」

 

 ふと、少女は考える。あの夢は、今日のような日の続きを私に見せていたのだろうか、と。


 祖母の急逝を割り切るなんてまだまだ無理だろうけど、こういう新たな日常は、そう嫌いではない。

 紅茶の風味を祖母のそれと比べながら、彼女は思った。


 少女の雰囲気が変わったのを感じた青年は、話題を切り替えるように軽快に喋り始めた。

 

――まあ、そこはゆっくりでもいいんじゃないかな。どうだろう、絵について聞きたいことがあったら、大抵は答えれると思うけど。 


――他の絵も写真がある、だって?是非とも見せて欲しい。いやあ、後学のためにね。


**


 新鮮な時間は簡単に流れるものであり、日もまたすぐに天頂から降りてしまう。


 陽光が差した。それは彼の座席の傍にあった窓から店内に溶け込んで、青年の横顔を温かく照らす。

――見覚えがある。


 彼が首を傾けて、青空に目をやる。太陽は遠く、しかし巨大だ。

――()()()()()()()()()


 少女もそれに習って窓の外を見て、口の形だけを動かす。――なんだか、まるで、


――誘蛾灯みたいだ。


 本当に、ほんの少しだけ、張り詰めた糸が緩んだような、胸の傷跡が埋まるような、そんな感覚がした。


「……いや、太陽に誘蛾灯っていうのはなんだかおかしいか、変な喩えだな」

 青年が独りでに苦笑して、少女はそれを見ている。

 

 やっと、

――言葉を不意に漏らす。息を深く、緩やかに吐いた。

 

「やっと、会えましたね」


 小さく呟かれたそれを、青年は耳に入れてしまった。

 しかし、目の前の少女がすっかり安心したような微笑みを浮かべているものだから、気にしないことにした。


「……ねえ、一つ頼み事をさせてもらえないかな」


「ええ、聞かせてください」


「いつか、近いうちでなくていい。1年後でも。

――君の絵を、描かせてくれないだろうか」


 青年は、少女を正面から見据えて――その淡い瞳の中に、色褪せぬ信念の塊が映るのを見ながら――嘆願した。


「……構いません。それで良い絵が描けるなら、手伝いましょう」


 少女も、また正面から視線を返して、了承した。


 祖母の最後の絵、あれを描いた経緯がなんとなく理解できたような、そんな気がしていた。


 晴天は清らかに高く、蒼く、澄み切っていた。

 少女の雨は、止んでいた。



**


 ある晩、少女の家の戸口を叩く音がした。二度、三度こつこつと続いて、はたりと止んだ。


 おそるおそる扉を開けると、誰もおらず風の吹くばかり。

 

 少女は失笑するように息を深く吐いた後、やがて中に戻って寝床についた。

 

 中秋、快晴の深夜だった。

批判ばっちこい。



ほんとは主人公ちゃんの泣き顔もっと紙くずみたいにくしゃくしゃにしたかったんですよ。そのくらいの絶望展開を味あわせてみたかったんです。我慢しました。


 不思議な夢を見ることだってあるかもしれないし、多少落ち込むことがあっても案外なんとかなる、そんだけの話です

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