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「……その、先ほどは助けていただいて本当にありがとうございました。
旅先でも厄介ごとに顔を突っ込んでしまうなんて今思えば正直無謀すぎでした」
「いや、たいしたことではない。
ディランへは観光で来たのかね?」
「あ、はい……ちょっと……その仕事でいろいろあって……気晴らしに……」
明らかに観光シーズンではないし、ブラック企業の激務に耐えかねてノリでここまでやってきたなんてさすがに明かせず言葉を濁す。
「ふむ、君は何の仕事をしているのかね?」
「えっと、大企業の下請けの下請けのさらに下請けの小さな会社のしがない事務員です」
「ほう、そんな風にはとても見えないが?」
「……いえ、本当の本当に」
いや、正直言えば事務員を名乗ることすらおこがましいかもしれない。
細かい仕事はもともと苦手なほうでミスも多いし。
ああ、駄目だ。
仕事のことを思い出すだけで際限なくへこんでしまいそう。
せっかくの素敵な紳士とのお茶が台無しだ。
何かこう別なもっと楽しい話題をと、必死に考えを廻らせている私に彼は真顔で告げた。
「私が社長ならば、君を一事務員にはしておかない。
君の会社の社長はよほど人を見る目がないようだな」
「っ!?」
思いもよらなかった彼の言葉に胸が熱く震えた。
ただのリップサービスに違いない。
そう分かっていても、激務に次ぐ激務に満身創痍だった心にじわりと染み入る。
会社では、何をやっても「おまえは駄目だ、無能だ」って上司からはいつも罵声を浴びせられてばかりいた。
自尊心なんてものは入社早々ズタズタに引き裂かれて、いつしか「自分は駄目だ、無能だ」って思い込むようになっていた。
意見を口にするなんてもっての外で、とにかくどんな仕事であっても言われたまま従えばいいと徹底的に教え込まれた。
私が間違っているとばかり思っていたのに、彼は会社が間違っていると言ってくれた。
気が付けば、熱いものがこみあげてきて視界が滲む。
「君は自分が思うよりずっと素晴らしい女性だ。
私はずっと君のような女性を探し続けていた」
彼は熱っぽい低い声を震わせると、私の手の甲に恭しく口づけた。
まるでプリンセスに忠誠を誓う騎士のように。
そんなキザな所作が似合う男性なんてそうはいないはずだけど、彼にはあまりにも似合いすぎていて……全身の血が沸騰する。
ああ、こういった空気になるのを恐れてせっかく話を逸らしたはずなのに……。
もうこれ以上は抗えそうもない。
そう観念する一方で、自分の身に一体何が起きているか分からずに激しく混乱する。
あんまりにも心身が疲弊しすぎて白昼夢でも見ているのではないか?
もしくは新手の詐欺じゃないか?
そんな疑いが頭をもたげながらも、金縛りにかかったかのように動けずにいると、彼の端整な顔がゆっくりと近づいてきた。
キスの予感に導かれるように、自然と目を閉じてしまう。
「ン……ン、う……っ」
テラスでされたときと同じようなキスをされてしまうのかと思いきや、彼の柔らかな唇は私の唇に触れてくるだけで、それ以上の動きを見せない。
ついさっきの大人のキスを思い出してしまい、唇が半開きになってしまう。
だが、彼のほうは、悠然と焦らすように唇を舌先でなぞってくるだけ。
私は、彼の貪るような官能的なキスをありありと思い出しながら身をよじる。
切ない疼きが身体の芯に肥大していって搔きむしりたくなる。
不意に彼が唇を重ね合わせたまま目を開いた。
蠱惑的かつ挑戦的なそのまなざしとまるで全てを見通しているかのように澄みきった緑灰色の境に魅了される。
彼は目を細めると、私の唇を甘噛みしてきた。
くすぐったいような心地よさとやるせない思いに全身に震えがはしる。
さっきテラスでしたみたいにもう一度してほしい。
気が付けばそんな思いが今にも胸からはちきれそうになっていた。
私は彼をじっと見つめると、おずおずと舌を差し出してみる。
そうするや否や、まるでこの瞬間を待っていたとばかりに彼の舌が絡みついてきた。
「んんんんッ!」
焦らされた挙句、不意を突かれての深いキスに、私はたまらずくぐもった声を洩らしながら軽く達してしまう。
キスをされているだけなのにまさかこれほどまでに感じてしまうなんて。
自分の反応が過敏なように思えて羞恥心が燃え上がる。
それなのに彼の舌に捕らわれたまま抵抗できない。
彼の舌はより深く激しく私の口中を貪り、私のそれへと情熱的に絡まってくる。
「ン……っふ、は……あ……あ、んんむ……っ」
彼の仕掛けた罠に溺れ、もはや何も考えていられない。
気が付けば、彼の唇と舌とを無我夢中で追い求めながら、彼に背中から抱きすくめられていた。
男らしい大きな手が、ワンピースドレスの肩紐を外しにかかった段階で、ようやく私は我に返る。
「……だ、ダメですこんなこと。
だって……お茶だけだって仰っていたじゃないですか……」
後ろ髪をひかれながらもキスを中断し、彼の手を押さえて弱々しい声で抗う。
だが、彼は私の首筋に口づけると、私の耳元に渋い声色で囁いてきた。
「君が望むならばという前提条件付きだったと記憶しているが、違ったかね?」
「っ!?」
彼の口調が油断ならない響きを帯びて、ハッと息を呑む。
「もし、君が本当にお茶だけを望むのならば、ここでやめておこう」
そう言うと、彼はテーブルに置かれたカップに手を伸ばして口をつけると、私を横に向かせて肩越しに口移しで飲ませてきた。
遅れて、ショコラを口に含ませてくる。
紅茶の味とキャラメルのプラリネとダークショコラの濃い味とが口に広がっていく。
しかし、それを味わう余裕があるはずもなく、私の弛んだ口端から溶けたショコラが一筋伝わり落ちていってしまう。
すると、彼はそれを唇で拭ってから、再び私の耳に囁いてきた。
「さて、どうするかね?」
「……ズルい、です……こん、な……キス、しておいて……」
「そう、ズルい大人にはくれぐれも気をつけたまえ」
そんなの……今更言われたってもう遅い。
一度火をつけられ、ここまでされてしまっては後に引けるはずもない。
まさかこんな刺激的なお茶になるなんて思いもよらなかった。
彼の仕掛けた罠にいつの間にか完全に捕らえられてしまったことに愕然としつつ、私は恨めしい思いで彼を睨む。
私のことを知りたいって……最初からこれが狙いだったのだろうか?
胸の奥がチクりと痛むも、彼の甘い口づけにたちまち快感のほうが勝ってしまう。
傷心旅行で行きずりの相手と一夜のアバンチュールなんて……自分とは無縁の別世界の出来事とばかり思っていたのに……。
彼のどこまでもスマートなリードに身を委ねずにはいられない。




