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陛下の執務室に運ばれていった私は、横長のソファに腰かけた彼の膝に頭を預けて横になっていた。
彼は一言も発せずに、ただ苦しげな表情で私を見つめ、その大きな手で私の頭を丁重に撫でてくれている。
眉間に刻まれた皺はいつもよりも深く、緑灰色の目は憂いに沈んでいた。
また彼を悲しませてしまったに違いない。
誰よりも彼の笑顔を見たいと願っておきながら……矛盾している。
そのつもりはないのに、どうしていつもこうなってしまうのだろう。
何があっても動じることなく彼のことだけを信じることができてさえいれば、きっとこんなことにはならなかったはずなのに。
先ほどの騒ぎからして、どう考えても彼の潔白は明らかだった。
それなのに、私が疑ってしまったばかりに、一度ならず二度までも彼を深く傷つけてしまった。
悪意なく彼を傷つけてしまう弱い自分が嫌で嫌で消えてしまいたい。
彼の期待を裏切るくらいなら、一人で悩みを抱えていたほうがどれけどよかったか。
やるせない思いと後悔とが何度も押し寄せてきて、押し流されてしまいそうになる。
やはり、私は彼にふさわしくない。
つくづくそう思い知らされた。
「だいぶ落ち着いてきたかね?」
「……はい……すみ……ません……」
「いや、全ては君を不安がらせてしまった私の落ち度だ。
自分を責める必要はない」
「……っ!?」
全てを達観したような彼の口ぶりに、思いもよらず激しい憤りが突き上げてきた。
気が付けば、頭が真っ白になって、声を荒らげて陛下に食ってかかっていた。
「……どう……してっ……そんなに過保護なんですか!?
どう考えても悪かったのは私なのにっ!
どうして陛下が謝るんですか!?
そんなのおかしいですっ!」
胸の中にずっと巣食っていた感情が堰を切ったように迸り出てくる。
何をバカなことを。
これ以上彼に失望されてしまえば、今度の今度こそ本当に愛想を尽かされてしまうに違いない。
それでも口が勝手に動いて、今まで抑え込んできた思いを吐露してしまう。
「私が……いけないんです。
陛下を信じて待つことができなくて些細なことで不安になって……疑うような真似をしてしまったから……こんなことに……」
半ば涙声になって必死に訴える自分がひどく子供じみているように思えて恥ずかしい。
しかし、彼はあくまでも落ち着き払ったまま私の言葉に耳を傾けて、諭すように言った。
「火のないところに煙は立たぬとも言うだろう?
テロリストの首謀者を暴くことに注力するあまり、肝心の君への配慮が足りなかった」
「違いますっ!
私がっ、どうしようもなく子供なだけで」
まさかあのノア公爵夫人がテロリストの首謀者だったなんて……それなのに私はなんて勘違いを……。
自責の念に、私はそれ以上言葉を続けることができなくなる。
部屋がしんと静まり返る。
彼は私をじっと見つめたまま、深く長いため息をついた。
「……とりあえず、君が無事でよかった」
「陛下……」
「テロリストの標的には、私だけでなく君も含まれていたのだよ」
「っ!?」
まさかの彼の告白に戦慄する。
私がテロリストの標的に!?
今までそんな可能性を考えてみたことすらなかった。
信じがたい事実に目を瞑って固まる私の頬を撫でながら、彼は言葉を続けていく。
「君にあの女が襲い掛かったときには生きた心地がしなかった」
「え?」
ただ単に香水の瓶で殴りかかってきたようにしか見えなかったけれど。
そんな思いがつい表情に出てしまったのだろう。
彼は苦々しい表情で私を諭すように言った。
「あの香水の瓶には猛毒が仕込まれていたのだよ。
おそらくもう一種別な毒も隠し持っていたはずだ。
一種では無害だが、混ぜることによって猛毒となるバイナリー兵器という。
国連でも使用を禁じているほどの恐ろしい致死毒だ」
「……そ、そんな」
そんな危険に気づきもせずに自ら首を突っ込んでいたなんて。
一歩間違えれば死んでいた。
間一髪で彼が身を挺して守ってくれたからよかったようなものの……。
私が彼をも危険に晒してしまった。
改めて自分の無知ゆえの無謀な行動を猛省する。
そもそもそんな恐ろしい兵器の存在すら知らなかった。
テレビのニュースで要人が暗殺されたとか聞いたことはあっても、遠い世界の出来事であって自分と無縁のものだと疑ってすらいなかったのに。
王室に嫁ぐことは、こういう負の側面ともきちんと向き合っていかねばならないのだと重々承知していたはずなのにと、うなだれる。
「こういった類の脅威は今に始まったことではないが……いたずらに君を怖がらせたくはなかったものでね。
テロリストから届いた脅迫状のことは敢えて伏せたまま調べを進めさせていたのだよ」
「そうだったんですか」
「脅迫状には『二十年前を忘れるな』とあったものでね。
さすがの私も冷静ではいられなかった」
「っ!?」
二十年前ということはまさか陛下のご両親が亡くなられた年!?
「また同じ過ちを繰り返すことだけはなんとしてでも避けたかった。
君だけは絶対に守り抜きたかった」
彼の目が濡れているように見えて、胸が切なく締め付けられる。
陛下のご両親は事故で亡くなられたという話だった。
でも、まさかその事故が故意に引き起こされたものだったなんて。
しかも、それを一番辛く思っているだろう彼の口から言わせてしまうなんて。
「だが、そんな思いが逆に君の不安を煽ってしまったようだ」
「……」
別々の公務が増えたのも、彼の様子がおかしかったのも、全ては私を守るためだったに違いない。
そんなことを知りもしないで、私は一方的に不安を募らせて彼を疑ってしまった。
あまりものやるせなさに鼻の奥が絞られ、視界が涙で滲んだ。
「……陛下の気持ちは……ものすごくありがたいです。
だけど、やっぱりきちんと話してほしかったです…」
「それは私の台詞だ。
何か不安に思うことがあるならば、私に直接確かめるようにと言ったはずだ。
私よりもミス・ユミのほうが頼りになるのかね?」
「っ!?」
皮肉めいた彼の台詞に、私は涙ながらに抗議する。
「そんなっ……か、簡単に! 言わないでくださいっ!」
確かに彼の言うとおりに違いないけれど、正論がいつだって正しいとは限らない。
ようやく落ち着いた胸が信じられないほどぐちゃぐちゃに掻き乱されて、我を忘れた私は再度彼に食ってかかってしまう。




